第11話 逃げ足のフィオ(第2章 第1話)
琥珀色の光から、目が離せなかった。
柱の陰の少女は、周りの笑い声から身を守るように、背中の大剣ごと体を丸めている。それなのに、その光だけは少しも縮んでいなかった。むしろ、誰かの視線が向くたびに、ぴりっと張り詰めるように強くなる。
まるで、全身で何かを聞き取ろうとしているみたいに。
「……あっ。ルーク、その顔」
いつの間にか隣に来ていたセラが、依頼書の束を抱えたまま、僕の顔を覗き込んだ。
「『見つけた』顔だ。あたしのときと同じ顔してる」
「そんな顔、ある?」
「あるよ! 目がこう、きらーってなるの!」
セラは自分の目尻を指で引っ張ってみせた。たぶん、そんな顔はしていない。
「……ちょっと、話してくる」
僕は柱の方へ歩き出した。
五歩。四歩。三歩。
少女が、びくりと顔を上げた。琥珀色の光が、一瞬でぶわっと膨らむ。
そして――
「ご、ごめんなさいっ!」
消えた。
いや、消えたように見えた。少女は自分の背丈ほどもある大剣を背負ったまま、信じられない速さで冒険者たちの間をすり抜け、裏口の扉から飛び出していったのだ。
誰にもぶつからず、テーブルの角ひとつかすらずに。
ホールにどっと笑いが起きた。
「ほらな! 逃げ足だけは一級品だ!」
僕は、空っぽになった柱の陰を見つめたまま、立ち尽くしていた。
「……ルーク、もしかして怖がられた?」
「たぶん」
セラが、こらえきれずに吹き出した。
「……フィオちゃんね。十八歳」
カウンターで、ノーラさんが声を落として教えてくれた。
「半年前にこの町に来て、それから三つのパーティを渡り歩いたの。どこも長く続かなかった。理由は――みんな同じ。依頼の途中で、あの子が一人で逃げ出しちゃうんだって」
「一人で?」
「ええ。仲間を置いて。……それでついたあだ名が『逃げ足のフィオ』」
ノーラさんは、古い依頼記録の束をめくった。細い指が、いくつかの行をなぞる。
「ただ……これは窓口としてじゃなくて、わたしが勝手に気になってることなんだけど」
「はい」
「あの子が逃げた依頼って、いつもそのあとで何か起きてるのよ」
「何か?」
「崖崩れとか、予定にない魔物の群れとか。それでパーティが怪我をして、帰ってきて『あいつが逃げたせいで人手が足りなかった』って怒るの。……でもわたしには、順番が逆に見えるのよね」
逃げたから何かが起きたのではなく。何かが起きるから、逃げた。
あの光の、張り詰め方を思い出す。全身で何かを聞き取ろうとしているような。
「――おいおい、まさかあの臆病者を拾う気かよ」
後ろから、太い声が飛んできた。
振り向くと、傷だらけの鉄の胸当てをつけた大男が、にやにやと笑いながら立っていた。その後ろに、仲間らしい男たちが三人。
「ダリオさん……」
ノーラさんが、小さくその名を呼んだ。Dランクパーティ「鋼の轍」のリーダーだ。この町では、腕っぷしと声の大きさで知られている。
「あいつは先週までうちにいたんだよ。で、依頼の最中にまた逃げやがった。おかげでこっちは小鬼の群れに囲まれて、こいつなんざ腕を縫う羽目になった」
ダリオは、後ろの男の包帯を巻いた腕を叩いた。男が顔をしかめる。
「仲間を見捨てて逃げる奴を、仲間とは呼ばねえ。――そっちの『規格外』の嬢ちゃんも、せいぜい気をつけるんだな」
そう言い捨てて、ダリオたちは掲示板の前へ歩いていった。
「……なにあれ、感じ悪い!」
セラが頰を膨らませる。
でも僕には、ダリオの言葉の中に、一つだけ引っかかるものがあった。
小鬼の群れに囲まれた。――それは、フィオが逃げた、「あと」のことだ。
その日、僕たちは「灯火」として初めての依頼を受けた。
町の西、岩場の多い丘にある薬草地の見回り。最近、岩蜥蜴が出たという報告があるらしい。Dランクのセラがいるので、ようやく受けられるようになった依頼だ。
「岩蜥蜴かぁ。あたし、実物見るの初めて!」
「硬いから気をつけて。あと、丘に道を作るのは禁止だからね」
「わかってるもん! 一日一回まででしょ!」
そういう意味じゃない。
丘への登り道は、風が強かった。ごつごつした岩の間に、細い薬草がしがみつくように生えている。
そして――岩陰にしゃがみ込んで、その薬草を一本ずつ丁寧に摘んでいる小さな背中があった。
背中には、不釣り合いな大剣。
琥珀色の光。
「……フィオ?」
声をかけた瞬間、背中が猫のように跳ね上がった。
「ひゃっ!? ご、ごめんなさいっ! こ、ここ、もしかして皆さんの依頼の場所でしたか!? す、すぐにどきますっ!」
あたふたと籠を抱えて立ち上がり、もう逃げる体勢に入っている。
「待って! どかなくていいよ!」
セラが大きく手を振った。
「あたしたち、岩蜥蜴を探しに来ただけだから! 薬草は全部あげる!」
「え、えっと……」
フィオは、一歩だけ足を止めた。逃げるかどうか迷うように、体が前後に揺れている。
近くで見ると、本当に小柄だった。セラより頭一つ低い。亜麻色の髪を後ろで小さく捆ねていて、前髪が目の半分を隠している。
その目は、一度もこちらを見なかった。ずっと、僕たちの足元あたりをさまよっている。
(……目が、合わない)
これでは、素質の正体も、開花の条件も読めない。光はこんなにも強く見えているのに。
「あ、あの……『灯火』の……ルークさんと、セラさん……ですよね」
フィオが、消えそうな声で言った。
「灰角の大熊を倒したって。ギルド中の噂です……すごいです。わたしとは、全然、ちがう……」
「ちがわないよ」
セラが、あっさりと言った。
「あたしなんて、十日前まで『暴発のセラ』だったんだよ? それに最初にルークに声かけられたとき、あたしも『変な人』って思ったもん」
「……え?」
「だから、フィオちゃんがさっきギルドで逃げたのも、ちょっとわかる。ルークって急に近づいてくるから、びっくりするよね!」
「ご、ごめんなさいっ……!」
「謝らなくていいよ。……僕も、いきなりだったよね。ごめん」
そう言うと、フィオの前髪の奥で、何かが少しだけゆるんだ気がした。
彼女は、抱えていた籠をぎゅっと握りなおした。
「……あの、わたし――」
そこで、言葉が切れた。
琥珀色の光が、びりびりと音が聞こえそうなほどに張り詰めた。
ギルドで見たときより、ずっと強く。ずっと鋭く。
フィオの顔から血の気が引いていく。その足が、半歩、後ろに下がる。
逃げる。
そう思った。その瞬間、彼女は、一度だけ僕たちの方を振り返った。
迷っていた。はっきりと、迷っていた。
そして――
「――こっちですっ!」
小さな手が、セラの手首をつかんだ。もう片方の手が、僕の袖をつかんだ。
とんでもない力だった。あの小さな体のどこに、と思うほどの。僕たちは引きずられるようにして、岩場の斜面を十歩ほど駆け下りた。
「ちょ、フィオちゃん!?」
セラの声が、轟音にかき消された。
さっきまで僕たちが立っていた地面が、下から突き破られていた。
土砂と岩の破片を撒き散らして現れたのは、灰褐色の硬い鱗に覆われた、荷馬車ほどもある蜥蜴だった。岩蜥蜴。地中に潜み、上を通る獲物を下から丸呑みにする魔物だ。
あと一呼吸遅かったら、僕たちはあの口の中にいた。
「――セラ!」
「わかってる!」
セラが、フィオにつかまれていない方の手を突き出した。
指先に、細い白金の光。太さは、縫い針ほどしかない。
それが、岩蜥蜴の開いた口の奥へ、すっと吸い込まれていった。
一拍置いて、岩蜥蜴の体が内側からぼうっと白く光り、それきり動かなくなった。
丘には、道は一本もできていなかった。
「……ふぅ。細く、細く。あたし、えらい!」
セラが胸を張る。彼女なりに、約束を守ったつもりらしい。
でも僕は、その隣で小さく震えている少女から、目が離せなかった。
フィオは、僕たちの手をつかんだまま、真っ青な顔で岩蜥蜴の亡骸を見つめていた。それから、はっと我に返って、手を離した。
「ご、ごめんなさいっ! また、またわたし、逃げて……ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」
頭を何度も下げる。そのたびに、背中の大剣ががちゃがちゃと鳴る。怒られると、本気で思っているのだ。
僕は、彼女の前にしゃがみ込んだ。
「フィオ。違うよ」
「……え?」
「君は今、一人で逃げなかった。僕たちを連れて、逃げてくれたんだ」
フィオの動きが、止まった。
「君がいなかったら、僕もセラも、今ごろあいつのお腹の中だ。……ありがとう」
その言葉に、フィオはゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から、初めて、茶色の瞳がまっすぐにこちらを見た。
――琥珀色の光が、流れ込んできた。
――素質:先触れの勘。
――開花の条件:怖いと感じたその瞬間に、逃げず、『どこから来るか』を口にすること。
こめかみが、小さく痛んだ。
やっぱりだ。この子の逃げ足は、臆病さなんかじゃない。危険が来る前に、それを知ってしまう力だ。ただ、その知らせを、彼女自身がまだ「怖い」という形でしか受け取れていない。
「……フィオ。君の逃げ足は、才能だよ」
「……さい、のう?」
フィオは、何を言われたのかわからないという顔で、瞳をまん丸にした。
そして、その瞳が、ゆらりと潤んだ。
「……そんなこと、初めて言われました」
小さな、本当に小さな声だった。
「……わたし、いつも、わかるんです。ここにいたらだめだって。背中が、ぶわってなって。でも、『危ない』って言っても、誰も信じてくれなくて……そのうち、言うのが怖くなって……気づいたら、一人で走ってて……」
だから、逃げたのだ。誰にも告げずに。告げても笑われると知っていたから。
――それは、五年間の僕と、まったく同じだった。
「……あの」
フィオが、ふいに顔を強張らせた。
「信じてもらえないと思うんですけど……でも、今なら、言える気がして。いいですか」
「うん」
「『鋼の轍』の皆さんが……明日、北の旧坑道に入るんです。奥の鉱脈を探る依頼で」
ダリオたちのことだ。自分を追い出した、あの人たちの。
フィオは、籠を抱く腕に力を込めた。琥珀色の光が、北の方角へ向かって、きりきりと引き絞られていく。
「……あそこには、行っちゃだめなんです。先週からずっと、あそこの方を向くだけで、背中が冷たくて……」
彼女は、震える唇で、それでもはっきりと言った。
「あの坑道に入ったら――たぶん、誰も帰ってこれません」




