迷宮の歩き方
六層へ続く階段を下る。
迷宮の中は時間感覚が掴みづらく、身体の様子からなんとなく把握するしかない。
眠気だとか、空腹感だとか、喉の乾きだとか。
昨日と同じように、背には荷物を背負い、腰には剣を差している。
違うのは、身体のあちこちに残った痛みだった。
ここに来るまでに負った負傷の数々。
傷そのものは、薬で塞がっている。
けれど、治ったからといって痛みまで消えるわけではない。
「……痛いな」
独り弱音を漏らしながら、アベルは階段を下りた。
* * *
六層
階段を下りた先で、空気が変わった。
「……?」
最初に感じたのは、湿気だった。
ひんやりとした、そして同時にじっとりとした空気が肌にまとわりつく。
足元を見ると、地面が濡れていた。
ぽつり。
「冷たっ!?」
足元を注視していれば、首に水滴が落ちる。
意識を向ける先を偏らせると、この迷宮はすぐにそれを罠としてくる。
ぽつり、ぽつり。
その音が、静かな迷宮の中に響いていた。
「水……?」
少し進む。
すると、岩壁の向こうから水の流れる音が聞こえてきた。
さらに進んだ先には、小さな地下水路があった。
透明な水が、ゆっくりと流れている。
その先には、地面が大きく窪んだ場所があり、そこには小さな湖までできていた。
「すごいな……」
アベルは思わず近づいた。
五層までとは、明らかに雰囲気が違う。
魔物を倒すだけなら、昨日までと同じだ。
だが、この場所では別の問題がある。
この水路を形成したのは誰なんだろうか、これも迷宮の副産物なのだろうか?
そして何より……
「……この水飲めるのかな」
水面を覗き込む。
透明だ。
濁ってもいない、匂いもしない。
だが、だからといって飲んでいいとは限らない。
ほっとするのはまだ早い。
「……そうだよな、ここに魔物が住んでるんだ、水飲み場もどこかにあったはずだよな」
水は上から流れてきてもいた。
見つけれていないだけで今まで戦ってきた魔物の水飲み場があって、俺がそれを見つけられていなかっただけ。
生き物がいるところには水もある。
テイル冒険譚の話を思い出す。
──知らない水は、そのまま飲まないほうがいい。
「……ちゃんと準備してるんだよな」
アベルは鍋を取り出し、水を汲む。
そのまま飲まず、魔法で火を起こした。
空気がこもらないように階段近くで上に空気を流しながら。
着火する木材もないし、あっても湿っているだろう。
魔法が使えてよかった……まぁ鍋の前から動けないのは不便だけど。
火にかけてしばらくすると、鍋の中から白い湯気が立ち上った。
「煮沸すれば、少なくともそのまま飲むよりは安全……だったはず」
アベルは記憶を探るように呟いた。
正確な知識ではない。
だが『そうした方がいい』という話は覚えていた。
沸騰した水をしばらく加熱し、布でこして、冷ます。
その後初めて一口飲んでみる。
「……普通の水だ……いや、これでいいのか」
特別美味しいわけでもない。
ただ、俺の初めての料理なんだから何故だか味に期待してしまった。
いや……他の人にこれを料理だといえば笑われそうだけど……
けれど、迷宮の中で飲める水を自分で確保できたことは大きかった。
そして、アベルはそこで一つ気づいた。
「水があるってことは……」
視線を湖へ向ける。
「ここに住んでる魔物も、水を飲むってことだよな……ここに敵が集まっ」
その直後だった、水面が揺れた。
「……!」
ばしゃん!
水の中から、巨大な魚のような魔物が飛び出してきた。
灰色のぬめった身体。
大きく開いた口。
そして、肉を食いちぎるのに適した鋭い歯。
「うわっ!」
身体が咄嗟に身を引いた。
その巨体が地面に落ち、尾を振り回す。
水しぶきが飛び散った。
「水場にもいるのか!」
剣を抜く。
しかし魚は再び水へ戻ろうとした。
「逃がすか!」
踏み込んだ。
初めて見る魔物だ、また知らない魔物が出てきた。
剣を振る……だが、流される。
水を進むのに適したその身体が、硬い鱗が刃を滑らせた。
「……くそっ!」
バシャバシャと身体を水の中に戻し、泥を巻き上げて魚は消えていった。
これから進む先にも水場を避けては通れない……
「あんな魔物もいるのか……」
以前までとは雰囲気がかなり変わったのもあって、慣れてきたはずの戦闘もまた難易度が上がった。
「っ!」
今度はしゅるしゅると細長い身体が伸びてくる。
水面の堺からこちら目掛けてぬるりぬるりと迫り来る。
蛇だ。
今までの回想で毒を持つ敵と何度か出会ってきた。
また毒を浴びせられてはまずい。
首を断つように剣を振る。
今度は受け流されるでもなく、確かに命中した……はずなのに、手応えがない……空を切った……!?
「なっ……!」
蛇はそこにはいなかった。
実物は、水面に映っていたそれよりも小さく、攻撃か水面を揺らせば、本体の方が迫り来る。
「……反射を使ってるのか!」
今度の罠は視界を騙すもの……厄介だ。
だが、攻撃自体は単純……見極める。
身体を捻り、今度こそその頭を斬り落とした。
「─そこ!」
今度は本物、首を跳ね飛ばせば黒い粒子になり、魔石を残す。
灰色の……小さいなこの魔石も。
「……ふぅ、何とかなったか」
あの魚を逃がしてしまったのは少し痛い……が、戦い方を変えればいい。
一つ困り事といえば炎の魔法の力が弱まっている。
さっき水を温めている時に気がついた、湿気もあるのか力が上手く出せていない。
それに視界に頼った戦闘が多い俺がこの水辺で魔法を放てば、水蒸気で視界を失いかねない。
「……単体自体は昨日の獣よりは、まだ戦いやすい……けど俺が戦いにくいな」
そう言いながら、剣を収める
戦いが終わった頃には、湖の水面はすっかり静かになっていた。
「……水があるだけで、こんなに色々いるんだな」
飲み水だけ確保して、ここは早く荷物をまとめて次の階層に行こう。
そう思い、荷物の方へ足を進める最中、ぐらりと視界が揺れる。
「ぁえ……?……っ!?オェ……ォあ?」
両膝を着き、両手を地面に着き、びちゃびちゃとさっき飲んだ水が逆流する。
水がまだダメだったか?なにか毒でもあったか!?
原因を探るために頭を巡らせるも、そんな余裕すらない。
どっちだこれは、ポーションで回復?毒の類なら聖水?
いやそもそもこれは……気持ち悪い……
手どころか肘まで着き、蹲る。
すぐ手元にあるのは聖水だけ、しかし聖水は量が少ないし……この場合飲めばいいのか……!?
地面にそのまま倒れ込む。
うつ伏せのままでは苦しいので何とか仰向けに倒れることができた。
懐から瓶を取り出し、聖水を飲むために口を開き、浴びる。
口に入ったものを何とか飲み、ゴキュゴキュと音が響く。
次第に楽になっていくのを感じる……これは呪いや毒の類いだったのだろう……
なんて思っていると、俺の首裏から、キィギィとなにかの鳴き声が聞こえた。
「は……?」
咄嗟に首の後ろへ手を伸ばせば、聖水に溶かされたヒルのような膨らんだ魔物が手に付着する。
「うわっ!?」
反射的に手を振るい、びしゃりと水っぽい音を鳴らす。
いつ着いた?……まさか最初の首裏に落ちてきた水滴が……あいつ?
少し時間が経って楽になった頃、首裏に着いていた魔物を確かめに行けば既に魔石を残して消えていた……が、そこには俺の血が大量に散らばり、水に溶け始めていた。
その血がまた別の魔物を呼び出す。
そうなればまたまずいことになる。
急いで魔石だけ手に取って、荷物を持って、身体に無理させ、七層へ向かう。
まだいける、身体さえ元に戻ればまだまだ行ける!
天井から落ちてくるあのヒルも気をつけながら、水面を翔けていく。
少し窪んだ所に足を滑らせ、危うく怪我をしかけたが、それも今なら咄嗟の対応でなんとかなる。
そうして、あっという間に階段を見つけ、七層へ下る。
大量の水を確保し、代わりに聖水を失うことになったが、おかげでさらに深くへ行ける。
* * *
七層
そこは、これまでとは違う迷宮だった。
「……同じ道ばかりだ」
左右に伸びる通路。
似たような石壁。
同じような天井。
同じような魔石の光。
それがどこまでも広がっている。
ただ、魔物の気配は無い。
一度腰を下ろし、力を抜いて壁に寄りかかる。
荒くなった呼吸を整え、怪我を見たり、水に濡れて重くなった靴を脱ぎ、水や小石を除去する。
水自体に危険はない、あのヒルに血を吸われ、さらに毒まで入れられていたようで、以降あんな異常は身体に出ていない。
少し休息を取った後、立ち上がり先を目指す。
立ち上がった時身体がグッと地面に引かれるように疲れたが、まだ休憩できるところは見当たらない。
七層の探索を始めるも──どこまで進んでも、景色が変わらない。
アベルは一度、振り返った。
そこには当然、さっき通った道がある。
「……こっちだったよな、俺が来た道……?」
進む。
分かれ道。
右へ。
しばらくして、また分かれ道。
今度は左。
さらに進む。
そして──。
「……あれ?」
見覚えのある場所に来た。
七層の入口、さっき俺が靴の小石を捨てたり、濡れた服を絞ったあとがある。
「ここ……さっき通った?」
アベルは立ち止まった。
考える。
右へ曲がった。
その先で左。
そこから真っ直ぐ。
確かに、初めて来た場所のはずだ。
前に進んでいるはずだ……なのに
「……戻ってきてる」
迷った。
この時初めて、アベルは自分が迷宮に迷わされていることを理解した。
「なるほど……」
剣で壁を軽く削る。
小さな傷を残す。
「目印が必要だ」
今度は分かれ道の壁に、一本。
さらに進んだ先に、二本。
戻る方向には、三角形の印。
簡単なものだ。
けれど、あるのとないのとでは全然違う。
その後もアベルは歩いた。
何度も迷った。
目印を見落としたこともあった。
道を間違えて、同じ場所へ戻ったこともあった。
そのたびに地図のように頭の中へ道を刻もうとする。
だが、似たような景色が続くせいで、すぐに分からなくなる。
「……迷宮って、こういう場所なんだな」
剣を振るだけなら、昨日の魔物のほうがずっと難しかった。
それなのに、歩くだけで疲れる。
どこへ向かっているのか分からない。
どこから来たのかさえ分からなくなる。
そして何より。
帰り道を見失うことが怖い。
それは、昨日の呪角獣とは違う種類の恐怖だった。
記憶を失った俺の帰るべきところ、それさえも見失うのは本当に恐ろしかった。
七層には魔物もいた。
石に擬態して襲ってくる巨大な魔物。
顔の周りを飛び回り、鱗粉を吸わせ方向感覚を狂わせる迷い蛾。
迷い蛾は知っている。
鱗粉が左右の感覚を狂わせたりする他、人の魔力目掛けて飛んでくるから簡単には振り切れない。
どちらも一匹一匹なら、それほど強くない。
だが、迷路の中で襲われると厄介だった。
「こっちか……!」
石に化けた獣の爪を避ける。
斬る……が、身体が硬い、踏み込みが甘いのもあり、上手く切れない。
今は相手しているだけ体力が持っていかれる。
頭を使うことで今は精一杯だと言うのに……!!
「っ!……くそっ!」
背中を見せ、逃げる。
しかし、逃げた先が行き止まりだった。
「しまった……!」
しかし、足の遅いあの魔物は何とか振り切れた…いや、けど先に進むなら結局鉢合わせになるか……
印を付けながら、頭の中の地図をぐるぐる回す。
そうしていると、キラキラと青白く輝く粉が降り注ぐ。
迷い蛾の群れが迫る。
俺の魔力を光に見立てて、辺りに群がってぶつかってくる。
青白い模様が、魔石の光と混ざる。
「……くそっ!」
アベルは目を閉じた。
光を見るから惑わされる。
炎の魔法で纏めて焼き払うか?
いや、鱗粉に着火して最悪俺も火だるまだ……
なら逃げる道を探す。
「……こっちだ」
目を開く。
群れの隙間を抜ける。
迷い蛾の群れを振り払い、通路を駆ける。
しばらくして、ようやく静かになった。
印を頼りにさっきの魔物と出会わない道を選んで、今度は落ち着いて逃げる。
「……はぁ……」
壁に手をつく。
身体が重い。
昨日のような激しい戦闘をしたわけでもない。
それでも疲れていた。
迷宮を歩く。
ただそれだけのことが、こんなにも難しい。
アベルは、自分が少しずつ迷宮というものを理解し始めている気がした。
迷宮は、強い者を倒すためだけにある場所ではない。
歩くこと。
食べること。
飲むこと。
眠ること。
道を覚えること。
そして帰ること。
その全部が、冒険者に必要なのだ。
「……テイルも、こういうことをやってたのかな」
ふと、昨日読んだ本を思い出した。
世界を旅した英雄。
海を渡り、山を越え、知らない土地を歩いた冒険者。
きっと、その旅にもこういう瞬間があったのだろう。
華やかな戦いだけではない。
道を探し、水を確保し、火を起こして、夜を越える。
そういう積み重ねの先に、冒険がある。
英雄譚はまだ序章も序章しか読んでいない……だが、俺のような泥臭い旅路ではなく、これからへの期待が止まないものだった。
俺はそれに比べてダメダメだ……だが
「……面白いな」
アベルは小さく笑った。
そして、また歩き始めた。
七層を進み続ける。
何度も分かれ道を越え。
何度も目印を確認し。
時には戻り。
時には間違え。
それでも少しずつ先へ進んでいく。
やがて。
やっと、遂に、遠くに階段が見えた。
「……あった」
アベルは笑顔で駆け寄った。
階段を下りる。
この階層を攻略した達成感に喜びのあまり震えながら、同時にこの階段ですら罠ではないかと疑いながら、足を進める。
* * *
八層
足が、次の階層の床を踏んだ。
その瞬間だった。
「……」
アベルは、立ち止まった。
明らかに今までとは違う。
まず、床。
自然の岩肌ではない。
石が規則正しく敷き詰められている。
壁にも、人の手で積まれたような跡がある。
少し先には、崩れかけた石柱。
その向こうには、何かの建物の残骸らしきものまで見えた。
「……人工物?誰かが住んでたのか……?」
アベルはゆっくりと周囲を見回した。
今まで迷宮はずっと、自然の洞窟のような姿や、人の手が加わってそうなのはせいぜい装飾程度……温度はなかった。
それなのに。
ここには、人が作ったようなものがある。
古びた石の道、壊れたなにかの柱……誰かが住んで、生きてきた痕跡がある。
そして、ずっと先へ続いている一本の道。
「……この道を来いって……?」
答える者はいない。
ただ、青白い魔石の光だけが、古びた石畳を照らしている。
罠かもしれない。
アベルは剣の柄に手を置いた。
そして、ゆっくりと一歩を踏み出した。
彼は、その先を見つめた。
この道の先に何があるのか。
遠くで鐘の音が響く。
「……誰かいる……?」
答えるものはいない。
だからこそ前に進む。
何があるのかを知るために、自分について知るために。




