十層の守護者
鏡の中に、男がいる。
黒い髪。
鋭く細められた、赤い瞳。
頬は少し痩せている。
顔立ちだけを見れば、まだ若い。
変わったところといえば、その身体には幾重もの鎖が巻き付いていた。
肩から胸元へ。
腕から腰へ。
まるで己自身を縛りつけるように、黒い鎖が絡みついている。
男は鏡の中の自分を見つめた。
「……今日も、か」
返事はない、当然だ。
ここには、自分しかいない。
鏡の向こうにも、自分しかいない。
男は鏡から目を逸らした。
その視線の先には、崩れ落ちた街があった。
家々は焼け落ち、石造りの建物は半ばから崩れている。
時計塔と展望台、高くそびえ立つ二つが太陽を真ん中に挟み、立派に建っている。
道には瓦礫が散らばり、ところどころに黒く焦げた跡が残っていた。
遠くには、かつて街を守っていた城壁。
その一部は大きく崩れ、向こう側の空が見えている。
空は青い、雲ひとつない。
けれど、その青空を見ても、男の胸が晴れることはなかった。
むしろ逆だった。
青空だからこそ、思い出すのは、懐かしきあの日々。
炎、叫び声、血。
崩れていく街。
守れなかった人々。
──男はゆっくりと拳を握った。
そのときだった。
──ゴォォォン!!!
展望台の鐘が鳴った。
それは夜明けを知らせる鐘。
この鐘の音を聞いて目を覚ます者はもう居ない。
なら、夜明けが何を意味するか。
私にとっての夜明けは、待ちわびた日々が終わること。
鎖が鳴る。
男は瓦礫の中を歩き出した。
歩くたび、黒い鎖が擦れ合って音を立てる。
ジャラリ。
ジャラリ。
その音だけが、静まり返った街に響いていた。
やがて、城壁の向こうから一人の少年が姿を現した。
黒い髪。
赤い瞳。
小さな角。
男は足を止めた。
「…………」
少年もまた、こちらを見ている。
その顔を見た瞬間。
男の赤い瞳が、わずかに細くなった。
「……少年」
少年が首を傾げる。
「はい?」
男は、しばらく少年を見つめた。
よく似ている。
私とあまりにも、よく似ている。
けれど──違う。
男はすぐに理解した。
自分と同じ赤い瞳。
自分と同じ黒い髪。
だが、その目に宿っているものは違った。
知らない目だ。
何も知らない、無垢な瞳。
だからこそ、まっすぐこちらを見ている。
「……いや、何でもない」
男は小さく笑った。
「君が、来たのか」
そして、誰にも聞こえないような小さな声でそう呟いた。
* * *
「……人……か?」
それが、俺の最初の言葉だった。
十層
そこに広がっていたのは、八層や九層とはまるで違う景色だった。
九層には、何かから逃げるような痕跡はあっても、穏やかだった村があった。
家もあった、川もあった、畑もあった。
偽物とはいえ、そこには確かに人が暮らしていた痕跡があった。
けれど、ここには何もない。
あの村よりも遥かに栄えているのに、あるのは瓦礫だけだった。
崩れた家、焼けた壁、折れた柱、砕けた石畳。
そして、遠くに見える阪大の巨大な城壁。
不似合いな程立派な二つの塔。
時計塔と、もう一つには大きな鐘がある。
しかしここは……まるで戦争の跡地だった。
その中心に、一人の男が立っている。
黒髪。
赤い瞳。
そして、大きな角。
身体には鎖が巻き付いていた。
一見するとなにかの罪人なのだろうか……敵意は感じない。
俺は思わず自分の頭に触れた。
小さな角。
この男のものとは比べものにならない。
ただならぬ存在感、この男は何者なのだろう。
「……少年」
突然声をかけられた。
目つきは鋭いが、低く落ち着きのある優しい声だった。
「はい?」
「……いや、何でもない」
そう言って小さく笑い、こちらに歩み寄ってくる。
少し警戒しながら、俺も一つ質問をする。
「……あなたは?」
尋ねると、男は少し間を置いてから答えた。
「アルビレオ」
「アルビレオ……」
「そうだ」
その名前を口にしたとき、彼の表情が少しだけ変わった気がした。
俺は周囲を見回した。
「ここは……どこですか?」
「十層だ」
「十層……」
やっぱり。
俺がいる場所は、十層だった。
けれど、それ以上に気になることがある。
「どうして、ここに人がいるんですか?」
「……人?」
アルビレオは少しだけ眉を動かした。
「えぇ、あなたのことです」
この人も冒険者なのだろうか。
「君は、私を人だと思うのか?」
「え?」
意外な回答……だが、言われてみれば、まぁそうなのか?
俺自身も似たようなものだから気にしていなかったが、厳密にはただの人ではないのか……几帳面な人なのだろうか。
「……すみません。あなたの種族は?」
「半分、人間だ」
「半分?」
「人間と魔族。その両方の血が流れている」
あぁ、俺と同じだ。
その言葉を聞いた瞬間、少しだけ親近感を覚えた。
「俺もです」
アルビレオの目が細くなる。
「……そうか」
「それで、あなたはなんでここに……まさか、ここに住んでいるんですか?」
「住んでいる、という言い方が正しいのかは分からんな」
「じゃあ、何を?」
「待っている」
「何をです?」
「君を」
俺は言葉を失った。
この人は、俺を待っていると言った。
他ならぬ、俺を。
俺のことを何か知っているのだろうか。
「……俺を?」
「ああ」
アルビレオはそう言うと、僕の顔をじっと見つめた。
その視線には敵意がない。
けれど、何かを確かめるような鋭さがあった。
「君は、一体何者だ」
「……?あ、アベル、アベルと言います」
そういえば自己紹介がまだだった。
「そうか、アベル……アベル少年。
君は私になぜここにいるのかと言ったな。
待っているんだ、この街で、ずっと、いつかここに来る誰かのことを」
「……ここで?暮らせるんですか?
あ、九層の畑は貴方の畑ですか?」
「いや、違う。
暮らす……何も食べずとも、私はここでずっと生きてこられた、生きてきた。」
「……………どうしてそんなことができるんですか?」
聞くのが、恐ろしかった。
聞いてはならないと思ってしまったが、知りたかった。
「……そうだな、自己紹介が中途半端だった」
そういうとアルビレオはアベルの正面に立ち、二本の塔の間、太陽を背に顔に濃い影を落とし、赤い眼差しを向けてくる。
「私の名はアルビレオ。
この迷宮の、十層の守護者だ」
重く苦しい沈黙が、世界が息を止めたかのように続く。
十層の、守護者。
この迷宮が生み出した守護者。
「あなたは……あなたは、なんで……ここで何を、俺に何を求めて待っていたんですか」
そういうと、また長い沈黙の後、口を開く。
「『満たされた幸福な死』を求めて、ずっとここにいる」
「死を……求める……?なぜ??」
分からない、何も分からない。
この迷宮についても、アルビレオについても、その言葉の意味も、まるで分からない。
「……ずっと後悔しているんだ。
この街にいた頃から、ずっと後悔して、このままでは死ねないと思っていた」
俺は息を呑んだ。
「……いた頃?」
こことは違う、しかし同じような街の話だろうか。
そんな、こことは違う場所を見ているような様子だ。
「そうだ」
アルビレオは、崩れた街を見渡した。
「私は、ここで生きていた」
「……ここ……迷宮で?」
「ああ」
ここは迷宮だ。
なのに、彼はここで暮らしていたという。
「いつから……?」
アルビレオは少しだけ空を見上げた。
「分からない、はるか昔のことかもしれないし、つい最近の話かもしれない。
ここは日が落ちない、守れなかった全てを白日のもとに晒し、私に見せつける」
「…………」
言葉が出なかった。
それは、どんな苦痛なのだろうか。
想像もできない。
分からなくなるほど長くいるなら、その苦痛にも慣れてしまうのかもしれない……なんて思ったが、彼の顔を見ればそんな考えは吹いて消えた。
苦痛に慣れる、そんなことはありえないとでも言いたげに、ボロボロの街を眺めるその目は悲しい目をしていた。
──アルビレオが口を開いた。
「次は私から聞こう」
「……はい」
「なぜ迷宮に来た?」
「……俺のことを知るためです」
「自分を?」
「はい」
俺は自分の手を見た。
記憶はない。
自分が誰なのかも分からない。
ただ、名前だけがある。
それを伝える。
「俺は迷宮の入り口で倒れていたそうです。名前以外、何も覚えていません」
「……そう……か」
しばらく沈黙が続いた。
「俺のことを待っていると言ってましたけど、何か俺のことを知っているんですか?」
「いや」
しかしここは即答だった。
「……知らないが、種族が同じだからか、なんだか懐かしい気配がする」
「知らない……そうですか、ありがとうございます」
彼の感じている親近感については、俺も感じている。
「──アルビレオさん」
「なんだ」
「あなたは、ずっとここに一人ですか?」
「あぁ……『未練』があるからな」
「『未練』?」
そう返すと小さく頷く。
「この街に……『共生都市 エルセリア』に未練がある」
その言葉だけは、妙に重かった。
そして……その都市の名を、俺は知らない。
「私は、この街を守れなかった」
俺は何も言えなかった。
「だから、ここにいる」
身体の鎖が、罪人のそれのように……しかし自分で自分に課した枷のようだ。
「……ずっと?」
「ああ」
「これからも?」
「それは……どうだろうな」
あまりにも静かな答えだった。
俺は、自然と口にしていた。
「……一緒に来ませんか?」
アルビレオがこちらを見る。
「どこへ?」
「地上へ」
「地上?」
「はい」
来た道を振り返る。
「俺はまだ、迷宮の外をほとんど知りません。でも……あなたも、その世界を見てみませんか?」
「……」
「今の世界が、どう変わったのか」
アルビレオは黙っていた。
エルセリアなんて都市を俺は知らない。
ただ、俺が無知なだけなのか、それとももう無くなってしまっているのか……
もし復興していれば、彼の救いになる気がした。
やがて、ほんの少しだけアルビレオが笑った。
「……お前は変な奴だな」
「変わってるとはよく言われます」
「攻略する迷宮の守護者にそんなことを言うやつは初めて見た」
「俺も、迷宮の中で人に会うのは初めてです」
「お互い初めてとは奇遇だな」
アルビレオが歩み寄ってくる。
「なら、行くか」
「はい!」
* * *
帰り道は、俺とって地獄だった。
いやまぁ……正確には、行き道も地獄だったけど。
地上へ戻る途中、アルビレオは迷うことなく進んでいく。
俺が何度も迷った場所も。
足元の悪い道も。
隠し通路のような狭い道も。
まるで最初から道を知っているかのようだった。
「こっちだ」
「え?」
「その先は行き止まりだ」
「……」
俺は以前、この七層で何十分も迷った。
「こっち」
アルビレオが左へ曲がる。
数十歩先に、上へ続く階段が見えた。
「…………」
「どうした?」
「なんでもないです……っていうか帰るの手伝ってくれるんですね」
トントン拍子で進む様子に、俺は少しだけ自信を失った。
「まぁそうだな。
私は守護者、帰るのであれば何もルールに反したことはしていないだろう」
「……なるほど?」
分かったような分からないような……というかルールとかあるんだ?
それからさらに進む。
* * *
六層
あの懐かしい嫌な湿気が充満する。
足場は悪く、帰り道ということで今度は坂になって余計に歩きにくい。
行きとは段違いの難易度だ。
アルビレオの方はと言うと。
「これを使う」
鎖が伸びる。
向こう側の柱へ巻き付き、強く固定された。
「え?」
どういう原理だ?どういう技だ??
「渡るぞ」
目の前には、地下水路があった。
俺が初めてここを通ったときは、水場に苦戦しながら歩いたところだ。
けれどアルビレオは違う。
鎖をもう一本、さらに一本。
それらを交差させ、足場を作る。
「……橋?」
「ああ」
「鎖で?」
「鎖は、使い方次第で何にでもなる」
アルビレオは何でもない顔で鎖の上を歩いていった。
この男を縛るものだと思っていた鎖は……この男の武器なのだろうか。
「来い」
「いや、これ……怖い……大丈夫?」
「落ちても浅い」
「そういう問題じゃ……!」
しかし下を歩くのもキツそうだし、結局俺も渡ることになった。
しかし不意に鎖から足を滑らせる。
「うわっ!」
身体が傾いた。
次の瞬間、腕を掴まれる。
「危ない」
「……ありがとうございます」
「足元を見すぎるな」
「はい……」
なんだか、少しだけ情けない。
──けれど。
悪くなかった。
誰かと一緒に迷宮を歩く。
誰かに助けてもらう。
それだけのことが、こんなにも心強いものなのだと初めて知った。
五層、四層、三層と進み、やがて俺たちは地上へ続く最後の階段を上った。
* * *
眩しい光が差し込んだ。
「……外だ」
俺は思わず目を細めた。
久しぶりの地上。
空気が違う。
風が違う。
遠くから、人の声が聞こえる。
冒険者たちの声。
店の呼び込み。
遠くに街の喧騒。
俺がまだ、ほとんど知らない世界。
アルビレオは立ち止まっていた。
信じられないといった様子で、彼が目を見開く。
「……これは……」
俺は彼を見て、少し前に立ち
「行きましょう」
そう言って言葉を続ける。
「世界を見に」
アルビレオは少し困った顔をしで言葉を返す。
「魔人二人で世界とは……大きく出たな」
「そうですか?種族なんて関係ありませんよ。
それにただ見て回るだけじゃありません」
「……関係ない……か」
アルビレオが笑う。
見たことの無い笑みを浮かべる。
彼もこの話に乗り気なのだろうか……?俺は空を見上げた。
八層にも九層にも十層にも、空はあった。
けれど、今見ている空は違う。
本物の空だ。
「テイルっていう英雄の本に書いてありました、世界は広くて楽しいって」
「テイル?」
「知りませんか?」
「……テイルと言う英雄は知らんな」
知らないんだ……まさか千年以上前の人なのか……?
それとも冒険とは無縁だったのか。
「そうですか……まぁ、冒険に行きましょう、どこかは知りませんが、エルセリアを目指して」
そういうと、彼は何か合点がいった様子で目を丸くする。
「私の未練の為に、共に行こうと提案してくれているのか」
僕は彼を見る。
「それもあるけれど……本当は俺が世界を見たいだけって言うのもある」
「……」
「世界には、まだたくさんの場所があります」
アルビレオは黙って空を見上げた。
十層の空と同じ晴天。だが違う。
変わってしまったもの。
変わらなかったもの。
それを、彼自身の目で確かめればいい。
「冒険者の依頼をこなしながら、いろんな場所へ行きましょう」
「……依頼をこなすついでに、世界を見るのか」
「はい」
「お前、本当に変な奴だな」
「そうですか?」
「あぁ、迷宮を潜るために外に出るなんて変わってる」
アルビレオは笑った。
今度は、はっきりと。
「……だが、悪くない」
鎖が鳴った。
ジャラリ。
その音は、迷宮の中で聞いたものとは違って聞こえた。
あの街に、呪われたように自らを縛り付けるのでは無く、歩くための音だった。
「わかった。行こう、アベル少年」
「はい、アルビレオさん」
俺たちは並んで歩き出す。
深星迷宮の入口を離れて。
まだ知らない世界へ。
守れなかったものを背負った男と。
自分が何者なのかすら知らない少年。
守護者と探索者
二人の冒険が、ここから始まる。




