第六十九話「人形使い」
魔王領ノクティスバルドにて。
ベロニカの入浴に付き合わされたあと、私は脱衣所にいた。
黒い床は鏡のように磨き上げられ、深紅の絨毯が奥まで敷かれている。
壁際には金縁の姿見や衣装棚が並び、紫の灯が室内を照らしていた。
無理やり着せられた白い寝間着にはフリルがあしらわれ、ほのかに薔薇の香りがする。
「さぁ、こちらへどうぞ」
促されるまま赤い丸椅子に座ると、壁際に掛けられていた白金の輪がふわりと浮かび上がった。
輪は皿ほどの大きさで、ぽっかりと空いた内側には青白い光が静かに巡っている。
それは私の頭上で止まり、柔らかな温風を吹きだした。
濡れた髪があっという間に乾いていく。
──なぜ、こうなってしまったのか。
すぐにでも帰りたいところだが、そう簡単に帰れる距離ではない。
今後のことを思案していると──ベロニカの細い指が、私の髪に触れた。
「やっぱり綺麗な銀色……どんな髪がいいかしら。巻くのも可愛いけれど、ツインテール?」
「はやくしろ」
「ふふ、今日は一緒にいられるのね。嬉しいわ」
「以前から思っていたが……なぜ私に絡む」
夜会の席が隣とはいえ、ベロニカの私に対する執着は、どこか度を超えている。
「だって……だって……」
ベロニカの甘い吐息が、耳元を撫でた。
なぞるように、下へ──首まで降りていくと、筋をぺろりと舐められた。
「血の匂いがしない人なんて、とっても珍しいんですもの」
妖艶に微笑んだのも束の間、ベロニカはすぐに浮き足立った。
「あとで一緒に寝ましょう。ねっ」
「無愛想だった小娘が、馴れ馴れしい女になったな」
「昔は色々あったの。そんなことより、あなたの話が聞きたいわ。奴隷って言ってたけど──」
その声は不意に途切れ、私の視界は暗転した。
*
グランドエデンを出て、俺たちは帰路についていた。
駅の構内は、行きに通ったときよりも人が少ない。
来た時は内回りだったが……
「外回りの列車がもう来るな」
そういうと、フィオナはあくび混じりに口を開いた。
「なんでもいいふぁ~」
さすがに今日は飲みすぎたか。
案内板を頼りに、長い階段を下りていく。
「今日、楽しかったねぇ」
フィオナは眠たげにそういった。
「散々だったけどな。賭けは負けるし、みんなベロベロだし」
「しかもポーニャン、お酒弱かったし」
「意外だったな」
階下へ降りたとき、フィオナが俺の両肩を揉んだ。
「ていうか、私もホテルが良かったぁ~」
「そんなお金ありません。仕事がんばらないとな」
笑いながら返すと、ふと肩が軽くなった。
妙に静かだ。
「フィオナ?」
後ろを振り向くと──そこにフィオナの姿はなかった。
「あれ……フィオナ?」
もう一度呼んだが、声だけが地下に虚しく響いていく。
いや。
消えたのはフィオナだけじゃない。
人の気配が、ない。
駅員。
乗客。
あたりを行き交っていた者たち。
誰一人として、いない。
汗で濡れた白い半袖シャツが、すっと冷たくなった。
ホームの薄暗い空間に、ランタンの灯だけが揺れている。
俺は片腕にかけていた黒いジャケットを羽織った。
カツン──。
奥から、硬い音がした。
カツ、カツ。
靴音だ。
誰か、歩いてくる。
灯りと闇の境目から現れたのは、小さな少女だった。
金で装飾された黒いゴシックドレス。
細い手足。
腰まで伸びる白混じりの紫髪。
艶のある紫が引かれた唇。
前髪は中央で分けられ、右眼には古びた金の懐中時計が装着されている。
いや、着けているのではない。眼窩そのものに埋め込まれている。
もう片方の瞳はエメラルドに輝き、目元には紫の花紋様が痣のように広がっていた。
奇怪、不可解、奇奇怪怪。
あれは、なんだ。
少女のような何かは、離れた場所で立ち止まった。
「こんばんは、お兄さん……」
撫でるような声が、背筋をなぞった。
答えてはいけない。咄嗟にそう思った。
「んん、聞こえないのかな。こ・ん・ば・ん・は」
「……」
カチッ。
針の音がすると、少女の顔がすぐ目の前に。
「──ッ!」
得体の知れない翡翠の瞳が、少女の皮を被った何かが、俺を見つめている。
「聞こえてるよね」
少女が手を挙げると、糸で吊るされた不気味な人形が揺れた。
「見てよ、人形を縫い終わったんだ。可愛いでしょう」
「……君は、だれなんだ」
はっとしたように、少女は一歩下がった。
「ああっ、僕とは会ってないのか」
パチンッ。
少女は指を鳴らした。
「これなら分かるよね」
闇の中から現れたのは、三つの人影。
深々と黒いフードを被り、揃ってこちらを向いている。
「こいつら──」
褐色肌の三つ編みチャイナ娘、シャオロンを追っていた奴らだ。
飲み帰りに、しつこく追い回されたのを覚えている。
「はじめまして、僕はネブラ。人形使いって呼んでもいいよ」
片手をふわりと持ち上げ、ネブラは優雅に一礼した。
「シャオロンと親しいんでしょう。どこにいるのか、教えてよ」
にこやかな笑みとは裏腹に、肌を舐め回すような圧を感じる。
「家にはもう居なかったんだよね。仲良くなりたい、そう……ただ友達になりたいんだ。ねぇ、いいでしょう?」
「悪いんだけど、俺も知らないんだ」
「そっかぁ。んー……」
そのとき、違和感を覚えた。
体が動かない。
視線を落とすと──ランタンの微かな灯で、何かがきらりと光った。
これは、糸か。
細い糸が、腕、胴、脚へと蛇のように巻きついている。
まずいな。
今日に限って、武器は部屋だ。
「まっ、いっかぁ……脳みそ弄っちゃお」
ネブラはにちゃりと笑った。
「身体強化ッ!」
魔力を纏い、全身に絡みついた糸を引き絞る。
全力で──ッ!
ギチッ!
「ぐッ……!」
すべての糸を断ち切ったとき、黒ジャケットが裂けた。
食い込んだ箇所から、じわりと血が滲んでいる。
「わおっ、やるじゃ~ん」
「気に入ってたんだけどな、このジャケット」
「僕が縫ってあげるよ……捕まえてからね」
ネブラは片手をこちらへ向けると、黒フードの三人が一斉に動きだした。
先頭の拳を半身でかわし、続く蹴りを前腕で受け流す。そして三人目の懐へ潜り込んだ。
掌底。顎を跳ね上げ、振り返りざまに肘を叩き込み、迫る腕を掴んで勢いのまま投げ飛ばした。
「強いなぁ。お兄さん、武闘家なんだ」
「俺は──剣士だよッ!」
床を蹴り、一気に間合いを詰めた。
その時、ネブラの唇が歪んだ。
さらに踏み込む寸前、俺は足を止めた。
何だ。
とてつもなく、嫌な気配がする。
「へぇ、勘もいいじゃないか……壊すのがもったいないよ」
ネブラがそういうと、俺を囲んでいた黒フードたちが崩れ落ちた。
フードから覗いたのは、黒曜石を削り出したような肌と、ぎょろりとした眼。
こいつら、人間じゃない。
「本日の演目は、羊と狼。おいで──撲殺者」
ネブラが低く告げた。
次の瞬間──
ドンッ!!!!
何かが落ちてきた。
粉塵の中で膝をついていたのは、全身を漆黒の甲冑で覆う巨躯。
鋼鉄の兜の奥に、暗い双眸が覗いている。
それは、ゆっくりと立ち上がった。
腰からは長い黒マントが揺れ、胴体の継ぎ目が赤く脈動している。
両腕には大盾と、人間ひとりを容易く潰せそうな黒い円柱状の鈍器。
背からは六本の腕が伸び、それぞれの手には大斧や長槍、鉄球付きの鎖が握られていた。
「鬼ごっこしよっか……羊さん」
舞台の幕をあげるように、ネブラは腕を振り上げた。




