第六十六話「魔女の夜宴」
ここは荒野。
目の前にあるのは、一本の古木だけだった。
「カァッ、カァッ」
枯れ枝のひとつで、黒い鴉が鳴いている。
「名は捨てた」
うろ覚えの合い言葉を、私は呟いた。
カァ──。
鴉の声だけが響いた。
「……」
「まだ~?」
私の後ろで、マリエッタは眠たげにあくびをしている。
──まさか、発音か。
「名は、捨てた」
さらに低く、はっきりと言った。
鴉は首をカクカクと動かすだけ。
待てど、反応はない。
「おい、私だ。はやく通せ」
「カァッ。アナスタシア、ウラギリモノ、アナスタシアッ、カァ!」
鴉は甲高い声で喚いた。
「このクソガラス……焼き鳥にされたいのか」
右手に蒼炎を宿した、その時。
「わぁぁああ──ッ!」
上空から、女の叫び声が降ってきた。
見上げた先には、茶色のホウキに乗った緑髪の少女。
目には涙を浮かべ、こちらに突進してくる。
「止まって、止まってぇッ!」
私が一歩下がると、少女はその勢いのまま──
ドンッ、ズサーッ!
「ふぎぃいっ!」
猛烈な勢いで、顔から滑り込んでいった。
巻き起こる砂塵、その中に見えたのは──白布が露わになった尻。
もぞりと動く背には、蝶を思わせる翅が揺れている。
「いててて……」
少女は半身だけ起こすと、両手を見た。
「うぁぁッ──」
ぷるぷると震えている。
「おい」
「血っ、血でてるっ……」
「おい。ハルメリア」
名を呼ぶと、少女はこちらへ向いた。緑眼の奥で、白花のような虹彩が揺れている。
「あっ……ぇ、えっ。アナスタシア、さん、えっ」
マリエッタは小さく手を振った。
「ハルちゃん、やっほ~」
「マリーさんも……こんにちは、です」
十六夜会・第八席、ハルメリア=ルルーベル。彼女はマリエッタに次ぐ、古き旧知だった。
事情を話すと、ハルメリアは鴉の前に歩み出た。
「まったく。忘れたんですか、トリさん」
「カァッ」
「第六席を見つけたら連れて来るように──って、夜会長が仰ってましたよね」
「カァッ、カァッ!」
「そうなりますねぇ。怒られちゃいますよ」
「カァッ」
「では、合言葉を。名は捨てた」
その瞬間、周囲がよどみだした。
黒い鴉はどろりと溶け、景色が黒に染まっていく。
顕現したのは、夜の世界。
古木と鴉は姿を消し、黒金の大扉が現れていた。
ギィ──。
重い音を立て、大扉は奥へと開いた。その中は、無限の闇だ。
「カラスはなんて言ってたの?」
マリエッタは首を傾げた。
「オレはその女が気に入らねぇ、帰りな……てめぇ、チクる気か。クソがッ──って言ってました」
ハルメリアが荒っぽい口調で答えると、マリエッタは哀れみの目をこちらに向けた。
「猫だけじゃなくて、カラスにも嫌われてるのね」
「動物には嫌われるタチなんだ」
私はそう言い捨て、扉へと歩きだした。
闇に入って行くと──暗黒の中で、浮遊感が身を包んだ。
しばらく待っていると、足裏に感触が戻ってきた。
次いで見えてきたのは、円を描くように並んだⅠからⅩまでの数字。それらは淡い白光を放ち、闇の中に沈んでいる。
四と七の場所には、背の高い銀色の椅子があった。
「あら。あらあらあら!」
甲高い声を出し、第七席から立ったのは──
派手な赤いドレスを身に纏った、紅の扇子で口元を隠す女。腰まで届く金のツインテールは、螺旋を重ねるように縦巻かれている。薔薇と金糸で飾られた衣装は豪奢そのものだ。裾は床につくほど長く、前は大きく開かれている。
タンッ、タンッ。
白い脚が覗くたび、ハイヒールが鳴った。
彼女が足を止めたのは、六の数字が沈んだ上。
「と~っても懐かしい匂いがすると思ったら──」
女の扇子が下がった。桃色の瞳は細まり、笑みが浮かぶ唇には牙が覗いている。
「アナスタシアさんではないですか! ご機嫌麗しゅうございます」
裾を持ち上げ、女は丁寧に挨拶した。
「そこをどけ。ベロニカ」
「あぁっ、冷たい! でもそれがいい。だからこそ、良いッ!」
「……どけ」
「やんっ」
ベロニカを軽く押しのけ、私は六の上に立った。
すると、銀の椅子がせり上がるように出てきた。脇には小卓もあり、ティーカップと菓子の盛り合わせが置かれている。
横を見ると、マリエッタたちはすでに座っていた。マリエッタは第九席でカップに口をつけ、ハルメリアは第八席で菓子を頬張っている。
第六席に腰掛けると、視線を感じた。左からだ。
こちらを見ていたのは、第四席に座る者──純黒の礼装を纏う、端正な顔立ちの男だった。艶のある黒髪は肩まで流れ、切れ長の金眼は穏やかだ。その腕には小柄な人形──いや、美しい少女が抱かれている。フリルのついた黒いゴシックドレス。灰紫の長髪と、同色の瞳。雪のように白い肌。まばたきがなければ、精巧な人形だと言われても信じるだろう。
「こんにちは──と、ティティは言っています」
男は抑揚のない声を発し、腕に抱いた少女の手を持ち上げた。
「誰だ、お前は」
「ロイド・カーターと申します。こちらは、妹のティティ」
はじめて見る顔だ。しばらく欠席している間に、第四席は代替わりしたらしい。
「古き魔女に会えて、光栄です。君もそう思うだろ、ティティ」
男が少女の頭を撫でると、少女は小さく頷いた。
ふわり。
一匹の蝶が飛んでいた。銀色の羽を揺らし、ふわり、ふわふわ。
蝶は二匹、三匹と数を増やしていった。
やがて無数の群を成し、銀蝶たちは広場の中央へ飛んだ。
一点に集まり、重なり、塊となっていく。形作られたのは人の輪郭だ。
銀蝶が霧散すると──そこには、ひとりの女がいた。
紺色の花があしらわれた黒い魔女帽。
銀の毛束が混じった黒い長髪。
夜を縫ったような黒いドレスは、銀鎖で彩られている。
「これはこれは……珍しい人がいますね」
そういって、女はこちらを向いた。
左の瞳は黒布で覆われ、右の瞳は赤ワインのように深い。
「今宵はお忙しい中、よくぞ集まってくれました。司会は私──夜会長リゼリア・トゥルノットが務めさせていただきます」
悠々と腕を広げ、リゼリアは優雅に一礼した。
「それでは、復唱お願いします。魔女の十戒──」
戒の一、真名を明かすべからず
戒の二、因果に干渉すべからず
戒の三、契約を破棄すべからず
戒の四、秘匿を漏らすべからず
戒の五、無償を求めるべからず
戒の六、死者を冒涜すべからず
戒の七、禁忌に触れるべからず
戒の八、姉妹を裏切るべからず
戒の九、情愛を交えるべからず
戒の十、異端者を許すべからず
リゼリアに続き、みなが復唱した。
「はじめましょうか。魔女の夜宴を」
淡いベージュ色の唇が、静かに弧を描いた──。




