第五十九話「王家の秘密」
白鍵を叩いた。
深く沈んだオルガンの旋律が、薄暗い書庫を満たしていく。
いつからだ。
人に関わらなくなったのは。
いつからだ。
ここから出なくなったのは。
十年、百年、千年、無限のような時間を過ごした。
なぜ、息をする。
なぜ、ここに在る。
私は、なぜ──
考えども正解はない。
頭によぎる疑念を消すように、白鍵を叩いた。
音楽は良い。
心地よく、音を奏でるだけ。
シンプルで、明快で、美しい。
渦巻く思考を溶かすように、指を滑らせた。
題名のない曲を、弾き終えた頃──
パチ、パチ。
小階段の下から、乾いた音がした。
振り返ると──
薄い白絹を纏った、ひとりの少女が手を合わせていた。
宵闇を溶かしたような藍色の長髪が、腰まで垂れている。
紫水晶のような瞳で、少女はこちらを見ていた。
「お前……どうやって入った」
「お城で遊んでいたら、ここを見つけたの」
ありえない。
“星詠みの書庫”は、秘された領域。
星の女神ティナに祝福されし、神域であり聖域。
この場所を知るのは、今や墓の下に眠る男と、王座を継いだ者だけだ。
「そんなことより、とても素敵な演奏だったわ」
少女は横髪を後ろへ流し、柔らかく笑った。
「見ない顔だけど……どこの御令嬢かしら」
瞳を輝かせ、少女が近づいてくる。
顔に浮かんでいるのは、好奇心。
「素敵な銀髪!」
「おい……」
「瞳もビー玉みたい。綺麗な青──」
ずいっと、少女は私を覗きこんだ。
「近づくな」
「どうして?」
どうして──
どうして、だったか。
曖昧な記憶を、手繰り寄せた。
暗い。
ほの暗い、石造りの空間だ。
冷えた石壁には苔が張り付き、湿った匂いがした。
天井は開いており、頼りない夜星の光が差し込んでいる。
淡い光に照らされているのは、粗削りな石の玉座。
そこに、騎士の甲冑を纏った女が座っている。
短く切り揃えた藍髪の下で、厳しい紫眼が覗いた。
“そなたは、禁忌である”
その女──三代目グランティナ王は、威厳のある声でそう言った。
瞳に宿っていたのは、悲哀だ。
男として生きた強い女が、一度も見せた事のない表情をしていた。
そうだ。
私は、人と関わらない。
遠い昔に、そう約束したのだ。
「そういう、決まりになっているからだ」
「ふぅん」
「早く出ていけ。子供が遊ぶ場所じゃない」
「つまんないの。母様が通うぐらいだから、きっと楽しい場所だと思ってたのに」
「お前、まさか……」
「グランティナ王家長女──アイシャ・グランティナと申します。王家の秘密にお会いできて、光栄ですわ」
少女は腰の白布をつまみ、優雅に一礼した。
「お友達になってくださる?」
差し伸べられた手を見て、私は眉を寄せた。
何かが変わる。
得体の知れないざわめきが、胸の底で波打っていた──。
──タン、タン。
気づけば、少女の足音は聞き慣れたものになっていた。
「また来たのか」
「いいじゃない。友達なんだし」
本を読んでいた私の横へ、少女は当たり前のように座った。
「友になった覚えはない。もう来るな」
時たまに、この娘のような者が現れる。
人間というのは、何故こうも他者と触れ合いたがるのか。
「大人しくしてるから──お願い」
椅子の上で、少女はひざを抱えた。
「何か、あったのか」
「戦争が始まったのよ。聖王国と、魔王領のね」
「お前には関係ないだろう」
「無関係じゃないわ。戦争の話になると、みんな怖い顔してるし──居心地悪いったらありゃしない。しかも、人間の味方をしないと怒られるのよ」
「……」
「戦争なんて嫌い──見た目が違うから、生き方が違うから、そうやってお互いを押さえつけて、傷つけあってる」
少女は白絹のひざ元を、ぎゅっと掴んだ。
「みんな違って、みんな良い。それでいいじゃない……大人は、みんな馬鹿よ」
「……世界は、そう単純じゃない」
「そんなの分かってる。でも、嫌なの」
少女は席を立つと、廊下へと歩きだした。
月光の落ちる場所で止まり──
藍色の長髪を、さらりと後ろへ払った。
白い頬を覗かせた横顔は、どこか沈んで見える。
「もうすぐ、“星詠みの巫女”──新たな女王が選ばれる」
先代に何かあったのだろう。
気落ちしている理由は、戦争だけではないようだ。
「私が王様になったら、多くの人が笑って暮らせる──平和な街にするの」
「平和な街……」
「そう。獣人も、魔人も、どんな種族だって受け入れる。そんな優しい国よ」
少女は私を見据えた。
紫水晶の瞳が、月光を受けて輝いている。
無理だ。
平和を掲げた王など、過去に幾らでもいた。
だが現実は、政治、宗教、民意──数え切れぬ思惑に呑まれていく。
それでも。
不可能などない。そう信じているように。
少女は、眩しいほど真っ直ぐな瞳をしていた。
「……お前の母は、強い女だった。血を引くお前ならば、成せるかもしれんな」
「ふふ。話せてよかった」
少女は微笑むと、懐から懐中時計を出した。
「本当はね……偶然ここを見つけたっていうのは、嘘なの」
「そうだろうな」
何度聞いても答えをはぐらかされていたが、今日は話す気があるらしい。
「女王には秘密があるって、妖精さんが教えてくれたの。綺麗な時計もくれてね」
「妖精だと……その話、もっと詳しく──」
問おうとした時、
カチッ。
針の音がした。
その瞬間、少女の首がびくりと上を向いた。
細い肩は痙攣するように震えている。
「おい、どうした」
異変に席を立つと──
少女の首が、ぐりんとこちらを向いた。
白目は黒に染まり、瞳孔は赤く変色している。
「だめだよ。余計なこと話しちゃ」
口角が、ぐにゃりと歪んだ。
「お前……誰だ」
「だぁ~れだ」
おどけるように両手を揺らし、少女は首を傾げた。
そして──
消えた。
そう思った刹那、視界が回った。
「ぐっ……!」
衝撃に目を閉じ、開けると──
少女が、私を組み敷いていた。
細腕とは思えない膂力だ。
首を押さえつけられ、呼吸もままならない。
歪んだ顔が、眼前まで迫る。
「やっぱり……ここから感じる」
少女はぺろりと私の首筋を舐め、ドレスの胸元を引き裂いた。
冷たい手が、探るように滑っていく。鎖骨をなぞり、下へ。
左胸の上まで来ると、
ずぶり。
指先が、胸の奥へ沈み込んだ。
「ヵッ、ハ……ッ!」
肉を掻き回されるような激痛。
身体が跳ねると、首がさらに絞めつけられた。
少女の手が、ゆっくりと引き抜かれ──
体内から現れたのは、一冊の青い本。
「見ーつけた」
「よせ。それは──ッ!」
手を伸ばすと、少女は軽やかに飛び退いた。
「もう遅い」
「貴様……」
私は体を起こし、水晶剣を手に宿した。
「いいのか。娘が死ぬぞ」
踏み込もうとした足が、止まった。
少女は、くく、と喉を鳴らした。
「いつまで寝ている。起きろ──カリオス」
青い本の頁が、勢いよく開いていく。
どろり。
本の内から、濁った闇が溢れ出した。
“青の封書”の印が、解かれようとしている。
「クソッ!」
踏み込んだ。
腹が立つ。躊躇した自分自身に。
昔の私ならば、人間ひとりが死ぬ程度のことで、迷いはしなかったはずだ。
「ハァ──ッ!」
叫びと共に、刃を突き出した。
自らの弱さごと断ち切るように、少女の肩口を貫く。
そのまま勢い任せに、背後の書棚へ叩きつけた。
「ぁっ……」
小さな唇から、どぱりと血が溢れだす。
滲み出ていた闇は霧散し、青の封書は床へ落ちた。
「アナスタ、シア……」
少女の身体が、力なく崩れ落ちていく。
抱き留めると──
黒赤に濁っていた瞳は、もう紫へ戻っていた。
「なに、これ……痛い、よ……」
「大丈夫だ。急所は外した。すぐに治療すれば、命は──」
「いいの……大丈夫……」
「何を言ってる。早く治療を」
「まずは──」
少女は血塗れの両手を持ち上げ、私の頬を包んだ。
「お前に入らないとなァ」
「なに──ッ!」
黒紫色の闇が、少女の肉体から溢れ出した。
粘つく闇は抱きつくように絡みつき、私の中へ入ってくる。
侵されている。
犯されている。
オカサレテイル。
頭を。
体を。
骨を。
異物が這い回っている。
「おやすみ、アナスタシア。忘却の果て──夢で逢おう」
痛い。
寒い。
息が苦しい。
体の自由が効かない。
視界が滲む。意識が沈んでいく。
朦朧とする中、私は書館の扉へ手を向けた。
銀の扉へ、ありったけの魔力を流し込んでいく。
内から決して開かぬように。固く、硬く。
重音が響き、銀扉に無数の印が刻まれていく。
深い闇へ沈んでいく。
終わりない地獄へ。
苦しい。
苦しい。
ぐるじ──
息苦しさに目を開けると、エルフが私を羽交い締めにしていた。
首筋に、柔らかな感触。
「んぁ~……うま、うま……」
エルフは寝言を言いながら、私の首を甘噛みしている。
「っ……離せっ」
水色の髪ごと頭を掴み、無理やり引き剥がした。
体を起こすと、
カチャ、カチャ。
静かな部屋に、金属音が響いていた。
「おはよう」
顔を向けると──
白布を片手に、男が銃の部品を拭いている。
「顔色悪いけど……大丈夫?」
山田緋色。
人間。
三十二歳。
黒髪、中背、筋肉質。
なぜかエルフと旅をしている、奇妙な男。
そして、不本意にも、私の主人となってしまった。
全くもって不服。
不服ではあるが、しばらくは行動を共にせねばならない。
数奇な運命を恨みながら、私はゆっくりと口を開いた──。




