第五十八話「残り火の街」
騒がしい部屋を後にし、私は廊下へ出た。
磨き上げられた石床が、淡く光を返している。
石壁の縁に沿って、やわらかな光だけが静かに滲んでいた。
見事な造りだ。
歩きながら胸に手を当てた。
黒蛇印はもう薄れて、見えなくなっている。
魔力を流すと、着慣れた青いドレスが身を包んだ。
螺旋になった階段を降りると、広間だった。
人の気配はない。足音が響くほどに静かだ。
陽が差す扉へ、手をかけた。
ガラッ。
澄んだ風と、草の匂い。
どこか懐かしい空気を胸に受け、私は外へと踏み出した。
すぐ前には、赤い架け橋。
木の踏み板が連なるその橋は、趣のある造りをしている。
さらさらと流れる水音を聞きつつ、橋の欄干に手をついた。
遠くに視線をやると、桃色の巨大樹が街を見下ろしている。
その根元には、陽光に輝く白亜の巨城。
街には幾つもの尖塔が空へ伸び、色とりどりの屋根が景色を彩っていた。
ゴォッ。
強い風が吹き、大きな影が地に落ちた。
横髪を押さえ、空を仰ぐと──
巨大な箱舟が、浮いていた。風を裂く唸りを連れ、一瞬で頭上を横切っていく。
私の知る街は、もうどこにもないようだ。
物思いにふけていると、
タン、タン。
足音がふたつ。
不貞腐れたエルフと、その手を引く男が歩いて来た。
「機嫌なおせよ」
「せっかく髪作ったのに、ドラゴンッ!」
「そうだな……あっ。あとで、アイス食べよっか」
「食べるッ!!」
表情を一転させ、エルフは風のように駆けだす。
そばまで来ると、橋から身を乗り出した。
「見てー! 魚いる!」
「落ちるなよ~」
穏やかに歩いて来る男に、私は問いかける。
「今日は、何年だ」
「え?」
「暦だ」
「ああ。ファンタジア暦──二千二十六年だよ」
「……そうか」
書館に籠っている間に、随分と時が流れたらしい。
私が歩き出すと、男はエルフの手を引いた。
足早に坂を下り、しばし進むと──
人影のまばらな通りに出た。
横手にある雑貨屋には、見慣れぬ品々が外まで溢れている。
異国めいた香りに、頭の奥がくらりと揺れた。
「あっ、ドレスだ!」
甲高い少女の声に、顔を向けると──
白い頭巾をかぶったボロ着の女と、その手を握る少女がいた。
「ママー。お姫様がいる!」
「こら、だめでしょ。どうもすいません~」
母親らしい女は頭を下げ、少女を引き連れ去っていく。
背を向けた親子から視線を外すと、小柄な女が前を横切った。
腹出しの黒パーカーにショートパンツ。茶髪の上には、猫の耳。
気配がまるでなく、静かな足取りは猫そのものだ。
りん、りんっ。
左方から、鈴音が鳴った。
「ポーニャン待ってよぉ~」
のっそりと走ってくるのは、ミルクティー色のニットに、黒いレギンスを着た巨躯の女。
首についた鈴の飾りと、服越しにも分かる豊かな乳が、走るたび揺れている。
淡い桃色の巻き毛の横には、牛の耳。
「遅いぞ、のろまッ。はやくしろ!」
猫の娘は声を荒げ、牛の娘と一緒に去っていった。
猫と牛だけではない。
イヌ。
ウサギ。
ウマ。
キツネ。
オオカミ。
あらゆる獣を思わせる者たちが、そこかしこに歩いている。
耳や尻尾がついているだけで、ほとんど人と変わらない見た目だ。
記憶にある姿とは、まるで違う。
獣人だけでは、ない。
白い角を頭に生やす、冷顔の鬼女。
虹色の翅を背に生やした、華奢な少女。
妖しい刀を杖代わりに歩く、盲目の女侍。
黒いローブを羽織った、無機質な何か。
千差万別な人外が。
人間ではない何かが。
当たり前のように人に溶け込み、往来を行き交っている。
タン、タン。
遅れて来た二人が、私の横に並んだ。
「このへん、色んな人いて面白いよな」
男はそう言った。
エルフは落ち着かない様子で、首をきょろきょろと振っている。
「ここは……随分と変わった」
「いつから街にいるんだ?」
「この街が、できる前からだ」
「できる、前──」
男が呟くと、
「アイスッ!」
エルフの明るい声が弾けた。
水色の長髪を揺らし、白いワンピースが駆けていく。
「ちょっ、財布もってないだろ」
男は慌てて小走った。
その背に続くように、ゆるりと歩を進めると──
露店の看板には、“エンバータウン名物・ちびもんアイス”と書かれていた。
店頭には見本が並び、色豊かな丸い氷菓に、小さな耳や顔が添えられている。
エルフは目を輝かせ、
「ピンクがいい!」
「二千ゴールド、だとっ……あっちの、普通のやつにしない?」
「ちびもんがいい!!」
「だよなぁ~。すみません、ちびもんピンクひとつ」
店の奥には、ちびもんを模した衣装の女がいた。丸い耳と牙がついたフードを被っている。
女は小さな杖を取り出し、軽く振った。
薄桃色の球体に線が走り、愛嬌のある顔が刻まれていく。
完成した“ちびもんピンク”は、ふわりと宙に浮かび、白いカップへ収まった。
「おぉーッ!」
「服にこぼすなよ」
「かわいい……食べられないよ……」
ぼやくエルフを背に、再び私は歩き出した。
タン、タン、タン。
三つの足音が、人の少ない通りに響いた。
わずかな記憶を頼りに、ひたすら歩いていく。
「なぁ。どこに向かってるんだ」
「……墓参りだ」
問いに答えると、男はそれ以上なにも言わなかった。
しばらく進むと──
左手に、桃色の大樹が見えてきた。
かつてと変わらぬその佇まいに、気持ちが少し緩んだ。
大樹を通り過ぎると、閑散とした広場についた。
一角には、横長の石壁がある。
近くまで歩み寄り、そっと指先で触れた。
浮かんでくるのは、決まって私に対する文句。
年に一度、その愚痴を見に来る。これが私の“墓参り”だった。
浮かんできた文字は──
“きみは、ひとりじゃない”
「……」
結ばれないと知りながら、ただ一方的に想う。
それは、どんな気持ちなのだろう。
「ねーっ!」
エルフは私の首に腕を回し、絡んできた。
氷菓を食べ終え、暇になったらしい。
「なに見てるの~、なに考えてるの~」
私は文字を手で払った。すぐに形は崩れ、光の粒となっていく。
視線を後ろへ流すと、男と目が合った。
「これから男の玩具になると思うと、憂鬱でな」
エルフを首にぶら下げたまま、私は歩きだす。
斜め後ろから、男がついて来た。
「君をどうにかしようなんて、思っちゃいないよ」
「男というのは、女を好きにしたい生物だろう。それこそ、壊れるほどに」
何か思うことがあるのか、男は一瞬だけ黙った。
「ひとの女に手を出すのは、俺のルールに反する」
「私は、誰の女でもない」
「ダイアンは?」
「あいつは、ただのストーカーだ。愛を囁いたことなど──」
一度もない。
そう言いかけ、私は口を閉じた。
「まぁでも、良かったよ。堕神が居なくなってさ。これでもう、人が消えることはないだろうし」
「勘違いだ」
「え?」
「私は、堕神を閉じ込めていた。それも、完璧に。人間を招くなど──不可能だ」
「じゃあ、誰が……」
男は腕を組んだ。
「お前はどうやって、“星詠みの書館”に来たんだ」
「あっ」
気づいたのか、男は頭をかいた。
「…………やられたな」
通りを抜けた瞬間、喧騒が降り注いだ。
布の天幕、連なる看板、客引きの声。
ぎっしり並んだ露店からは、果実と焼き物の香りが漂っている。
人々は足早に行き交い、その場の空気すらも急いているようだ。
「星火の街・フレアリア──この街は、昔そう呼ばれていた。不思議なものだ。何年経とうと、この空気は変わらない」
「へぇ……歴史は深いなぁ」
動き回るエルフを見ながら、男は気の抜けた笑みを浮かべた。
数分ほど歩くと、見覚えのある赤い壁が視界に入った。
かつて書店だった場所だ。今では、細い鎖や宝石が吊るされたアクセサリー店に変わっている。
くすんだ赤い壁をなぞり、横を見た。
裏路地だ。
落書きが残る壁には蔦が絡み、細い路地に影が落ちている。
折れ曲がる道を、ゆっくりと進んでいく。
やがて、石造りの階段に出た。
太陽はちょうど上から差し込み、昼を告げている。
上りきると、大きな石橋へ出た。
その脇の壁面には、幾何学的なルーンがびっしりと刻まれている。
魔除けの印が施された、女神ティナの聖画だ。
星を冠する女神は、相も変わらず微笑んでいる。
壁画が途切れると、視界が一気に開けた。
高台の先は──
光。
陽光を受け、巨大都市がきらめいている。
街を覆う星環樹は、白と桃色の葉を風に散らしていた。
淡い光粒が葉からこぼれ、街へと降り注いでいる。
高台の端には古びたベンチがあり、色あせたまま時を止めていた。
ここからは、街の活気がよく見える。
本を好まなかった少年は、いつしか隣で本を開き、嬉々として感想を口にしていた。
「おお~。昼に来ると、また違って良いな」
遅れてきた男とエルフは、ぐるりと周囲を見渡している。
「船、飛んでる!」
「落ちるなよ~」
駆け出したエルフを横目に、男は私の横へ来た。
「んー。葉っぱの色、緑になってきたような……」
よく見れば、葉の付け根に緑が混じっている。
夏の気配だ。
「もうじき、春が終わる」
「そういえば、季節で色が変わるんだっけ」
言葉は途切れ、そよぐ風だけが耳を打った。
遠くで、小鳥のさえずりがひとつ。
私は、口を開いた。
「お気に入りの本屋があった。年老いた店主はカウンターで寝ていて、私は書物の香りを嗅ぎながら、どれを読もうか悩んでいた。やつは早く出ようと急かしたが、私は構わず居座った。あの時間が、嫌いではなかった」
男は黙ったままだ。
「ある日訪れると──店主は若い女になり、無数にあった本は衣服に変わっていた。そして今は、アクセサリー店になっている」
いつものことだった。
街が変わることも。
人が変わることも。
それなのに──
「最悪の気分だ」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「人は死ねば、消えてなくなる。墓参りをして、記憶を辿り、こうして語って……何になる」
男に言ったのではない。
私はずっと、自分に問うていた。
『アナスタシア』
今も、声が聞こえる。あの日の、声が。
目を閉じれば、茶髪を揺らして、歩み寄って来る気さえする。
厄介な魔法をかけられた。呪いと言ってもいい。
やつと出会ってから、私はずっと、見えない鎖に絡め捕られている。
「大切な人がいなくなれば、誰だって悲しい。語りたくもなるよ」
男はそう言った。
「……悲しい……そうか。私は……悲しい、のか」
懐から、銀の指輪を取り出した。
「薄情だろう。友の別れだというのに……私は、涙すら流せない」
掌の上、陽で輝く銀輪を見て、私は口を結んだ。
「いいや──君は、ちゃんと泣いてる」
「……なに?」
顔を上げると、男は静かに微笑んでいた。
「そうじゃなきゃ、そんな顔しないだろ」
『アナスタシア』
少年は、
青年は、
老爺は、
『君を──』
いつもと、変わらない顔で。
『愛している』
私を、ずっと見ていた。
深く、鮮明に。
その顔が浮かんだ。
ああ。
私は──
指輪を握った、そのとき。
エルフが割り込むように飛び込んできた。
「はい、笑って~!!」
私の肩を寄せ、長方系のタグを構えている。
「なんだ」
「写真! ほら、ひいろも!」
「はいよ」
男はタグに向かって、親指を立てた。
「私は、いい」
「だめ。撮るのっ!」
エルフは、私の腕をぐいと引いた。
三人で身を寄せ合い──
「笑って~!」
「……」
「もー、そんなんじゃダメッ。口をぐいーって!」
私の口端を、エルフは指で持ち上げた。
「やめほ、さわるにゃ」
手をどかそうとすると、
パシャッ!
軽い音が鳴った。
そして、小さな映像が浮かび上がる。
「ぶはっ。変な顔ーー!!」
エルフは腹を抱えて笑った。
男も、ふっと笑う。
「いい写真じゃないか」
その写真に映る私は、笑顔というにはほど遠く、ぎこちない表情だった。
しかし──
切り取られた景色は鮮やかで、
ひどく、美しかった。
ぐぅ。
横を見ると、エルフが腹を押さえている。
「お腹すいたぁ~……」
「肉でも食いに行くか」
男が笑うと、
「行く!!!!!!」
今日一元気に、エルフは声を上げた。
鼻歌を口ずさみ、跳ね、回り、駆けていく。
「ひとりで行くなって。迷子になるぞ」
「ごっごっごはんッ、ごはんッ、にくにっく♪」
遠ざかる二人を尻目に、桃色の大樹を見た。
強い風に目を閉じると、頬に花びらひとつ。
手で拭うと、白い花びらだった。
タッタッ。
エルフは小走りで戻って来ると、私に抱きついた。
「アーちゃーん。はやく行こっ!」
「行くとは言っていない。それに……アーちゃんではない」
手を掲げると、白花は風に乗り、飛んで行った。
青い空は、いつもより蒼く見えた。
「私の名は──」
少年の笑う顔が、浮かんだ。
「アナスタシアだ」
『World of Fantasia』
第二章・残り火の街──完──




