第五十七話「黒蛇印」
俺はアナスタシアを促し、木椅子へ座ってもらった。
長机に置かれた三つの木椀から、湯気と甘い香りが漂っている。
無表情のまま、彼女はただそれを見つめていた。
「食べないのか?」
「……必要ない」
うーんと小さく唸り、俺は銀の匙をとった。
透明なスープをすくい、金葉を舌の上に転がす。
──あたたかい。
金葉はほろ甘く、すぐにとろけた。
「おおっ。美味い!」
敵意がないことを示さねば。
「今日のスープは、“採れたて金葉スープ”。マルタさんの自信作らしい」
「マルタ?」
「宿の給仕さんだよ──君のために作ってくれたんだ。できれば、食べて欲しいんだけど……あっ、フィオナも起こさないと」
席を立った時、
「その前に──」
アナスタシアは低く言うと、素早い動きで席を立った。
銀の長髪が鋭く揺れる、次の瞬間。
彼女は俺の首を掴み、床へ押し倒してきた。
「ぐ……ッ!」
冷たい美貌が、真上から俺を見下ろしている。
まさか──
ドレスを勝手に脱がせた件、か──?
「違うんです。脱がせたのは、フィオナですっ……」
「何を言っている。知っていることを、話してもらおうか」
「っ……苦しっ……」
「油断させ、毒を盛り、剣を抜いた者が、どれだけ居たと思う」
「ちょ、待っ……」
「お前は何者で、なぜ、私はここにいる。言え──」
首はさらに絞められ、重圧が増していく。
「……っ、……」
潰れた息が零れた時。
バチ──ッ!
アナスタシアの胸元で、黒い火花が散った。
「がッ……!」
彼女は胸を押さえ、仰向けに倒れ込んだ。
「ァァアアアアッ!!!!」
「ごほっ……げほっ。おい……どうした」
身を起こして寄ろうとすると、彼女は震える手を挙げた。
「来るなっ……」
そう言うと、前開きのシャツを裂くように開いた。
胸の上に浮かんでいるのは──黒鎖の紋様。
谷間の奥まで絡みつくように、蛇のように黒い鎖が侵している。
「ッ……黒蛇印……」
「サバ?」
アナスタシアは忌々しげに顔を上げ、再び俺を押し倒した。
馬乗りになって、俺のシャツを乱暴に開き──
「ちょ、何をっ」
「見ろ」
示された場所──鎖骨の下には、小さな紋様。
黒蛇の円環だ。中心を縦に貫くように、一本の白剣が刻まれている。
「えっ。何これ」
息を荒げながら、アナスタシアは続けた。
「制約であり、咎であり、最上級の──呪い──」
「えーっと」
「しかも……私が、下……この、私がッ……」
「つまり?」
「私は今、お前の下僕──奴隷ということだ。主人を害せば、罰を食らう」
アナスタシアは手で顔を覆ったまま、体を震わせている。
下僕。
奴隷。
耳慣れない言葉に、思考が追いつかない。
「あーっ!」
ベッドの方で、弾ける高い声。
顔を向けると──
フィオナが口を開け、信じられないという顔をしていた。
「ふたりで遊んでる! ずるい!!」
勢いよく、こちらへ駆け──
飛んだッ!
アナスタシアの背へ──ッ!
ドンッ!
「ぬあっ!」
「お゛っ、ふッ……!」
二人の身体に、俺は押し潰された。
バチ──ッ!
「ァァアアア゛ア゛ッ!!!!!!」
アナスタシアの胸元が、再び黒く弾けた。
──。
騒ぎが収まった後、俺たちは食卓を囲んだ。
長机を挟んで、ここまでの経緯を順に話した。
アナスタシアは唇に手を当て、下を向いている。
「あと、もうひとつ問題があって──」
俺の背後には、鼻歌まじりのフィオナ。
飯を食い終えたと思えば、街で買った整髪料で、俺の髪を滅茶苦茶にいじっていた。
「動かないでっ。今、作ってるの!」
「はい」
「できた! 爆発ヘアー!!」
俺の髪は、爆発したようだ。
「ご覧の通り──幼児退行? しちゃってるみたいで」
「……カリオスの影響だろう」
アナスタシアは腕を組み、フィオナを見た。
「うーん。やっぱ、ドラゴンにしよっと!」
フィオナは再び、俺の髪を崩し始めた。
「これ、治りますかね。病院には、まだ行けてないんだけど」
このままでは、頭髪が限界を越えてしまう。
「心配ないだろう。カリオスの力が弱まった今──数日もあれば、元に戻るはずだ」
「できた! ドラゴンヘアー!」
俺の髪は、龍になったようだ。
「数日……、数日も……?」
きゃっきゃと騒ぐフィオナを見て、俺は深く息を吐いた。
「ふん、ふん~♪」
髪をいじるのに飽きたのか、フィオナは床に寝そべり、白紙にペンを走らせていた。
謎の宇宙人を描いている。
「ダイアンは、なんで呪いをかけたのかな」
「主従契約を結ぶことで、堕神を私の中へと押し込めたんだろう」
「でも俺、何もしてないんだけど」
「だろうな。お前はただの、後釜だ」
「後釜?」
「黒蛇印は、絶対遵守の制約魔法──半永久の隷属紋だ。主人が死ねば、伴侶、子供──もっとも近しい者に、鎖のように継がれていく」
「じゃあ、ダイアンは──」
「……」
無言のまま、アナスタシアは席を立った。
「どこ行くんだ」
「外の空気を、吸ってくる」
「俺も行っていいかな。聞きたいこともあるし」
「あたしも行くっ!!」
フィオナはペンを放って立つと、飛びつくように俺の手を握った。
「……好きにしろ」
アナスタシアは呟き、部屋を出ていく。
俺はフィオナを見た。
白シャツ一枚、だけ。
「服……着替えよっか」
「やだッ! これがいい!!」
「恥ずかしいだろ。俺のシャツだし、ちょっとパンツ見えてるし」
「やー!!」
部屋の隅にかけていたフィオナの服を、俺は手に取った。
「こっちの方が可愛いって」
白いワンピースを、ひらりと見せた。
「ほら、着替えよう」
ごねるフィオナをなだめ、着替えさせていく。
年頃の娘がいる父というのは、こんな気持ちなのかもしれない。
あっ。
恐る恐る、俺は自分の髪に触れた。
前衛的。いや、宇宙的とも言える造形だ。
ドラゴンヘアー、直さねばなるまい。
俺は文字通り頭を抱え、髪を整えるのであった──。




