第五十六話「夢幻地獄」
燃えていた。
街が。
人が。
世界が。
逃げる少年の背を、斬った。
叫ぶ少女の首を、折った。
手を掲げれば、肉が爆ぜた。
化け物だ。
怪物だ。
魔女だ──
混沌とした世界の中で、数多の悲鳴が響いた。
体が、言うことを聞かない。
ああ、そうか。
これは、夢だ。
何度も何度も──
私は、世界を壊していた。
「鍵を開けろ。アナスタシア」
どこからか、男の沈んだ声がした。
燃え盛る炎の奥で、暗紫の衣がなびいた。
その頭には、黒く捻れた二本角。
乱れた紫髪の隙間から、紫紺の瞳が覗いている。
堕神──
「カリオス」
「夢を見るのも飽きたろう。いい加減、書庫から出してくれよ」
「こんな茶番で、耳を貸すと思うのか」
「もう、いいじゃないか──」
堕神は両腕を広げ、舞うように身を回した。
「この世界に、守るほどの価値はない」
「それは、貴様が決めることではない」
私が言い放つと、堕神は動きを止め、首だけを捻ってこちらを見た。
「良い子ぶるなよ。人のような名前で、人のふりをして──なぜ、そこまで人を守る」
「それが、私の使命だからだ」
「使命、使命ね……ハッ!」
小馬鹿にしたように、堕神は顎をしゃくった。
「全くお前はつまらない」
「外に出す気はない。諦めるんだな」
「アナスタシア──お前なら、オレを理解できる。分かり合えるはずだ」
「言いたいことはそれだけか」
「クク……我慢比べといこうじゃないか」
堕神の姿が、炎に揺らいだ。
そして再び──
地獄が口を開いた。
崩壊した街。
血で濡れた石畳。
燃え盛る世界で、剣を振るった。
泣き叫ぶ男の喉を裂き、
逃げ惑う子の背を断ち、
抱いた赤子ごと女を斬った。
骨が砕け、臓腑が散り、錆び臭い血が頬に飛んだ。
数え切れぬほど、死体を突き刺した。
燃えている。
世界が、燃えている。
殺し尽くせば、また最初に戻った。
斬った。
潰した。
燃やした。
壊して、壊して、壊す。
百の街を潰し、千の人間を殺し、万の悲鳴が頭にこびりついた。
狂気の回帰、終わらない悪夢の果て──
“アナスタシア”
誰かが、私を呼んだ。
燃える視界は、音もなく闇へ溶けていった。
──光が差した。
どこか懐かしい、草葉の匂いがする。
「ん……」
重たい瞼をゆっくり押し上げると──
黄金の草原が広がっていた。
草の穂は波のように揺れ、遠くには連なる丘陵。
首を上げると、木の葉から柔らかな陽が差し込んでいた。
「ここは……」
私は、木の根元に背もたれていた。
膝の上にあった開いた本が、そよ風にめくれていく。
眠っていた、らしい。
ザッ、ザッ。
草を踏む足音がする。
顔を向けると、小さな古家があった。
その横から現れたのは──
年端もいかぬ、よれた白シャツを着た少年。
ふっくらと丸い濃紺の帽子をかぶり、柔らかな茶髪が垂れている。
カーキ色のズボンに入れた手を抜くと、少年は古びたサスペンダーを整えた。
“アナスタシア”
大人びた笑みを浮かべ、少年はそう言った。
「君の名前、アナスタシアにしよう」
灰色の瞳に、やわらかな陽が跳ねた。
「なんだ、それは」
「戯曲に出てくる、お姫様だよ。君の青いドレスにぴったりだ」
「なにを勝手に……」
私は、分厚い本に視線を落とした。
新作のミステリー小説、“盲目少女の異聞録”だ。
平和に暮らしていたエルフの少女に、闇の声が囁く。
そして事件は──
「良い名前だと思うんだけどな」
少年は帽子をとると、私の横に座った。
「私に構うな」
「小説の脇役にだって、名前がある。君に名前がないのは、変だよ」
「必要ない」
「呼ぶときに困るじゃないか」
「呼ばなければいい」
「僕は、君に救われた──何か、力になりたいんだ」
街を荒らす悪魔を封じて、半年。
あの日、その場に居合わせた少年を助けた。
助けたというより、偶然そうなったというべきか。
そんな事情など意にも介さず、少年は私に懐いていた。
「私は困っていない」
「一人じゃどうにもならない。そんな時が、来るかもしれないだろ」
「……」
「勝手に呼ぶ!」
少年は、明るく笑った。
「今日から君は、アナスタシアだ」
やれやれ。
人間とは、なんと面倒なのか。
それから毎日、少年は私の元を訪れた。
他愛もない話をした。
小さな古家で。
陽が当たる木陰で。
天体を眺める高い丘で。
何度も何度も、飽きもせず。
少年の背丈は、すぐに私を越えた。
快晴の朝。
木陰で本を読んでいると、少年が木の脇から現れた。
「ねぇ。街に行こうよ」
「行かない。知ってるだろ──街は、嫌いなんだ」
「有名な劇団が来てるんだ。きっと面白いよ」
こちらへ手を伸ばし、少年は微笑んだ。
「行かない。ひとりで行け」
「どうしたら来てくれる?」
「私を抱えて行けるなら、考えてやってもいい」
「わかった。約束だよ!」
少年は迷いなく、私を横に抱き上げた。
「お、おい……冗談だ」
「だめだよ。一度言ったんだから」
「楽な距離じゃないぞ」
「チョロいもんさ。最近は鍛えてるし、魔法だって勉強してる」
そう言う少年の身体には、魔力が張り巡っていた。
本気で担いでいく気らしい。
「約束、守ってくれよ」
「……勝手にしろ」
私は短く息をつき、本へと視線を落とした。
分厚い本を読み終える頃──
緑に染まった巨樹が姿を現した。
天へ届かんばかりの大樹。その根元には、広大な街が広がっている。
「本当に来るとはな」
「男は根性さ」
少年は、にかっと笑った。
歩いて間もなく、街の大門前についた。
人通りはまばらで、広い往来には静けさがある。
空を見上げれば、太陽はすでに高く昇っていた。
どうやら昼を過ぎたらしい。
ザッ──!
砂踏んで現れたのは、銀甲冑の騎士。
狼を象った鉄仮面の奥で、金色の瞳が光った。
「止まれ!」
野太い怒声とともに、銀の長槍を地へ打ち込んだ。
「おじさん。ただいま!」
「坊ちゃん。その者から、離れてください」
槍を握る手は、目に見えて震えている。
「なんでだよ」
「青いドレスに、銀の長髪──その女は、危険です」
「彼女は、悪い人じゃないよ」
「あなたも知っているでしょう……悪魔と一緒になって、街を壊したという噂を」
私はあごに手をやり、思い返した。
「ふむ……壊したかもしれんな」
「君は黙ってて」
少年は私を降ろすと、胸元へ手を差し入れた。
取り出したのは、銀の首飾り。
円環の意匠には、白蓮の花と星が刻まれている。
「この人は、僕の客人だ」
「失礼ながら……没落貴族の紋章に、効力はありません」
「お願いだよ。おじさん」
男は答えなかった。
獣じみた鋭い気配だけが、門前に満ちていく。
少年は、一歩踏み出した。
「止まれ!」
槍が跳ね上がる。
それでも、少年は止まらない。
「止まれ。さもなければ……」
「僕を、殺すかい?」
男の喉が、わずかに鳴った。
やがて──
はぁ、と一息。
銀槍が、静かに下がっていく。
「まったく……」
兜に手を添え、男はゆるく首を振った。
「どうして、そこまでなさるのです」
「どうしても、演劇を見たいんだ──彼女とね」
男は私を一瞥すると、またしても息をこぼした。
「……わかりました」
「いいの!?」
「ただし。日没までには外へ出ること。これが条件です」
「やったー! ありがとう、おじさん!」
少年が抱き着くと、男は困ったように肩を揺らし、鉄仮面へ手をかけた。
外れた兜の下は、
狼──だった。
西方では、人が獣へ変じる異変が相次いでいる。
そんな噂を耳にしていたが、実物を見るのは初めてだ。
「あなたの家は、私に仕事をくれた。借りを返すだけです」
表情が読めない顔だったが、金の瞳は柔らいでいた。
「くれぐれも、目立たないようにしてください」
狼男に見送られ、中へと歩いていく。
街を訪れるのは、久しぶりだ。
門をくぐり抜けると──
白光が広がった。
家々の白い壁、新しい屋根、磨かれた窓。
石畳の広場に、子どもが駆けていった。
通りには笑いが満ち、荷車の軋む音が絶えず聞こえる。
壊れ果てていた街は、何もなかったように息を吹き返していた。
歩きながら見回していると、
「あれ──あの髪──」
低い囁きが耳に触れた。
顔を向けると、数人が慌てたように散っていく。
「魔女だっ!」
小さな少女が、私を指さした。
「ママ。魔女──」
横にいた女は、青ざめた顔でその手を払い、少女をひったくるように抱き上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
逃げるように去っていった。
好奇、嫌悪、警戒──
通りのあちこちに、腫れ物を見る目がある。
「なんか、ごめんね」
少年は肩を落とした。
「慣れている。気にするな」
「……うん」
それから無言のまま、私たちは歩いた。
しばらく歩くと、円形の石造建築が見えてきた。
見上げるほどに高い。
その入口には人が溢れ、熱気が渦を巻いている。
中に入ると、ほの暗かった。
石段の客席が円を描いて連なり、松明の炎が頼りなく足元を照らしている。
私たちは人のいない最上段へ上がり、並んで腰を下ろした。
パァン!
甲高いシンバルの音が鳴った瞬間、松明の炎が一斉に消えた。
闇は束の間、舞台だけが照らされた。
中央にいたのは、派手な化粧の道化師。
「ご機嫌よう、紳士淑女の皆さま──本日の演目は、“魔王の花嫁”!」
身振り手振りも賑やかに、道化師は声高らかに叫んだ。
「王国の姫をさらったのは、醜悪なる魔王ヴェンネル。悪を討ち果たす、勇者の物語──とくとご覧あれ!」
歓声が沸き、劇は幕を開けた。
中央の舞台で、冒険が繰り広げられていく。
魔界に囚われた姫。
救いに行く勇者。
最後には、魔王との決戦。
「魔人と人間──皮肉な風刺だ」
私はぽつりと呟いた。
「敵として、分かりやすいんだよ」
「魔王領の連中が見たら、激怒するだろうな」
「……みんな、仲良くすればいいんだ。見た目の違いで争うなんて、馬鹿げてる」
「能天気なやつめ」
「僕は、平和主義なんだ」
小声で交わしているうちに、舞台はすでに終幕へ向かっていた。
役者たちが愛を叫び、抱き合い、音楽は高鳴っていく。
音と明かりが落ちると、万雷の拍手が場を包んだ。
喝采の余韻を胸に抱えたまま、外へ出た。
夕暮れの大通りは、人がまばらに散っている。
「いやぁ、良かった!」
頬を緩ませた少年を見て、私は鼻で笑った。
「ふん。退屈で、つまらん話だった」
「えぇっ! 感動のラストだったじゃないか」
「異質な力を持った勇者は、つまるところ化け物だ。そんな奴と、人間の姫が添い遂げる──ありえん。そんな恋愛を、周りが許すはずがない」
少年は驚いたように、目をぱちくりさせていた。
「なんだ」
「いや……そんなに喋るの、珍しいと思って」
「ストーリーにはうるさいんだ。そもそも、あの勇者という奴はだな」
なぜだか言葉が止まらない。
何がおかしいのか、少年は黙って笑みを浮かべていた。
ほどなくして、少年は足を止めた。
「見てよこれ!」
見下ろす露店に並べられているのは、細工の美しい装飾品。
少年が興味を持ったのは、銀の指輪だった。
パンッ!
露店の奥で、男が手を打った。
「お目が高い!」
頭に巻いたターバンを整え、店主らしき男はまくし立てるように口を開いた。
「こいつはペアリングでして、繋げるとひとつの意味になるんでさぁ。カップルのお二人に、お似合いの一品です。今なら二つで、グラン金貨三枚。これっきりの限定品ですぜッ!」
「金貨、三枚……」
書物を十冊は買える額だ。ぼったくりにも程がある。
「ふたつ下さい!」
少年は勢いよく、金色のコインを三枚出した。
「買うのか」
「ああ。気に入った」
指輪を受け取った彼は、それを夕日に照らし──
「いい言葉だ」
満足そうに呟いた。
「そんなもの、買ってどうする」
「こうするんだ」
少年は私の手を取り、薬指へそっと指輪を通した。
「僕が会いに行けない日は、これを見てよ」
私はまじまじと、銀の輪を眺めた。
“想いはここに”
文字が刻まれている以外は、何の変哲もない、ただの指輪だった。
「ひとりでも、寂しくないだろ?」
沈む夕陽を受けながら、少年は笑った。
あれから、二度の春が過ぎた。
三日月が浮かぶ、深い夜。
ボロ布を羽織り、ひとり街を歩いていた。
街角を曲がると、茶色の家があった。
ここだ──
扉を、二度叩いた。
軋む音とともに戸が開くと、茶髪の青年が立っていた。
「……アナスタシア?」
家へ入るなり、青年は机の蝋燭へ火を灯した。
そして向かいの椅子を引き、微笑んだ。
「座ってよ」
促されるまま、私は腰を下ろした。
「こんな遅くに、悪いな」
「気にしないで、今日は姉さんも居ないし。それより……どうしたのさ。君が会いに来るなんて、初めてじゃないか──まさか、僕の魅力に気づいたのかい?」
沈黙を恐れるように、どこか必死に。
青年はいつになく喋った。
「別れを、言いに来た」
机の上の蝋燭が、頼りなく揺れた。
「……どういうことだよ」
「グランティナ王の、命令だ。身を隠すことになった」
「どこに」
「言えない」
「いつまで」
「……みなが、私を忘れるまでだ」
木の机に向かって、青年は腕を振り上げた。
バンッ!
「そんなの、おかしいだろ!!」
いつもの穏やかな声色は、どこにもなかった。
「君は……街を救った、英雄じゃないか……」
「知ってるだろ。私が、なんと言われているか」
返す言葉を探すように、青年は俯いた。
「銀髪の悪魔、青い怪物、人を裏で操る──智謀の魔女」
「でも、それは──」
「人は、理解できないものが怖いんだ」
席を立ち、去ろうとした時。
背後で、慌てるように椅子が鳴った。
「僕も行く!」
青年の手が、私の腕を掴んだ。
蝋燭の火は、風に消えていた。
「だめだ」
「なんで!!」
「私は……お前とは違うからだ」
振り返り、青年の手を乱暴に掴んだ。
その手を、自らの左胸へ押し当てる。
「なにをっ──」
「この胸に、心臓はない。血も涙もなければ──人の気持ちも、分からない」
こんな時は、どんな顔をすればいいのか。
読んだ小説を思い返しても、正解はないように思えた。
「私は、お前とは違うんだ」
「なんで……そんな顔、してるんだよ……」
青年の顔は歪み、声は震えていた。
「寂しいなら、寂しいって……悲しいなら、悲しいって言えよ!」
──。
「勘違いだ。何も、思うことはない」
低く、言い聞かせるように。
「一緒に居てはいけない──いけないんだ」
ないはずの心臓が、締め付けられた気がした。
「さようならだ。また、いつか会おう」
青年の腕をほどき、踵を返す。
「いやだ……」
震える声のあと、かすかな重みが背を引いた。
青年がドレスの裾を掴んでいる。
「……離せ」
「いやだ……置いていかないでくれ……アナスタシア……」
溜息をひとつ。
私はもう一度振り返り、青年の左手を取った。
うまく笑えるだろうか。
「想いはここに」
小窓から差した光に、二つの銀輪が淡く光った。
「お前は、ひとりじゃない」
手を強く握ったとき、
サァ──
視界の色が、抜け落ちた。
白黒に覆われ、景色が乱れ消えていく。
黒に、闇に、深く沈んでいく。
私、私は、
意識があることに、気づいた時。
光が溢れた──
虹色の天窓。
見渡す限りの書棚。
奥にはパイプオルガン。
長机には、開かれた本。
その傍らで私は、浅いまどろみに揺れていた。
タン、タン。
薄暗い廊下から、足音が響いた。
見上げる先にいたのは、黒衣を羽織った茶髪の男。
男は、気安い調子で手を上げた。
「やぁ」
「……なぜ、ここに」
「一定の条件でしか現れない、秘密の部屋。二十年もかかった」
肩をすくめて笑うと、男はこちらへ手を差し伸べた。
「迎えに来たよ──アナスタシア。遠くに行こう。誰も君を知らない、遠くへ」
「行かない」
「ここにずっといるのは、窮屈だろう」
「そうでもない」
男は指先を口へ添え、くつくつと喉を鳴らす。
「なんだ」
「いや……なんだか、昔を思い出してね」
そう言いながら、男は私の方へ歩み寄り──
隣の椅子を引いて、当然のように腰を下ろした。
「どうしたら来てくれる?」
「私は、この街を捨てられない。そういう決まりになっている」
「なんだよ、それ……まぁいい」
溜息混じりに言うと、机上の本を手に取った。
「時間はたっぷりある。気が変わったら、教えてくれ」
本を小さく振り、男は微笑んだ。
ズキッ!
こめかみに鋭い痛みが走った。
額を押さえ、思わず目を閉じる。
手を下げると──
隣にいた男は、白髪混じりの老爺へ変わっていた。
老いた指が、机の本をめくっていく。
「今年で、もう六十か。難儀なものだ。気力は衰え、肉体は枯れ、時間は思うより早く過ぎる」
しわがれた声が、響いた。
「人生は、短い」
老爺は机にひじを置き、顎に手をやった。
私を見ている。じっと。
「姉は結婚して孫もいるというのに、私は独り身で終わりそうだ。誰かのせいでね」
「今日は、やけに喋るな」
私はすぐ近くの本棚へ行き、本へと手を伸ばした。
「僕は──もうじき死ぬ」
伸ばした手が止まった。
人はいずれ死ぬ。
当然。常識。分かりきった結末だ。
私に出来ることは、ない。
青い本を抜き取った。
「そうか。ようやく、静かに過ごせそうだ」
「君は変わらないね」
老爺は穏やかに笑った。
「家の近所に、料亭が出来たんだ。煮込み料理は絶品でね。姉さんの子供とよく食べに行くんだけど……僕のことを慕っていた少女が、今じゃ学校の先生だ。信じられないよね。来年には子供が生まれるらしくて、名前を一緒に考えて欲しいって──」
返事も待たず、言葉が継がれていく。
私が椅子へ座ると、
「死んだら……人っていうのは、どうなるんだろう」
しわくちゃの手が、私の手に重なった。
震えている。
「さぁな」
「死にたく、ないな」
「……その時になれば、感情はきっと消える」
揺れる手を包むと、老爺は笑った。
「相変わらず、慰めるのが下手だな」
「ふんっ……」
私は鼻を鳴らし、包んだ手を弾いた。
老爺は赤くなった手をさすり、どこか嬉しそうに笑っている。
「街の中に、記念碑を作ったんだ。学校の設立、街への献金──長年の功績を認められてね」
「ほう」
「死ぬ時には、その下に骨を埋めようと思ってる」
「随分と、盛大な墓だな」
「ただの墓じゃない。気持ちを込めれば、想いが刻まれる──魔法の墓さ」
にやりと、老爺は笑った。
その後、珍しく真剣な面持ちで──
「お願いがあるんだ。たぶん、最後の」
「言ってみろ」
「墓参りに来て欲しい。月に一度……まぁ最悪、年に一回でもいい」
「また面倒なことを」
「どうせ暇だろ。それに……君を覚えている者は、もう居ないよ」
「……考えておく」
「ああ。約束だよ」
老爺は、皺だらけの顔で笑った。
その顔は、いつか見た少年のようだった。
バチッ、バチ──ッ!
全身に電流が走った。
目が回る。
呼吸が苦しい。
痛みが、記憶が、現実が、流れ込んで来る。
崩れゆく青年。
重なる銀輪。
遠ざかる会話。
揺れる視界に、白花が散った。
「アナスタシア」
聞き慣れた声が、
「君を──」
遠い声が、聞こえる。
「 」
深く、透明な言葉だった。
本で、戯曲で、何度も見て聞いた言葉。
あれほど傍にいたのに、初めて耳にする言葉。
自分へ向けられたそれを、私は、理解することができなかった。
「待て、私はっ──」
────。
「はぁっ、はっ……ッ」
飛び起きると、柔らかなシーツが肌に触れた。
荒い呼吸を整え、辺りを見回すと──
石壁。
長机と椅子。
飾り気のない部屋だった。
開いた大窓には、桃色の大樹が見えている。
「ここ、は……」
目を落とせば、身には白絹の服。
身体が動く。
手も、足も、自由に──
ぽよん。
左手に、柔らかいものが触れた。
「んんっ……」
横を見ると、水色の長髪を乱した女が寝ている。
この膨らみは、乳房か。
女の上体を起こし、探るようにまさぐった。
「んぁっ……」
長い耳に、魔力が満ちた身体──
間違いない、エルフだ。
ガチャリ。
部屋の扉が開いた。
「あっ。おはよう」
中に入って来たのは、白シャツを着た黒髪の男。
木皿を載せたトレーを持っていた。
「えーっと……何、してんの?」
唖然とした顔で、男はこちらを見ている。
私は抱いていたエルフを、ベッドへと戻した。
「お前は、誰だ」
「俺は、山田──山田緋色」
男は名乗ると、長机にトレーを置いた。
「これ、野菜スープなんだけど……飲める?」
堕神の声が、聞こえない。
まさか──
「夢では、ないのか」
頭の奥は、どこまでも静かだった。




