第五十五話「カーテンコール」
「げほっ……憂鬱……憂鬱だ」
闇の奥で、銀の長髪がゆらりと揺れた。
青いドレスは随所が裂け、布地は焦げ落ちている。
左腕を抱え込むように押さえ、
ずるり、
ずるり、
引きずるように歩いていた。
「おお。まだ動けるのか」
感心するように、ダイアンは声を漏らした。
そして胸に手をやると、柔和に笑んだ。
「助けに来たよ。アナスタシア」
「……助けに、きた?」
ひどく、かすれた声だった。
沈黙。
聖堂めいた書庫から降り注ぐ月光が、そこに立つ堕神の輪郭を照らす。
「クク……クハーッハッハ!」
耳障りなほどに高い笑声が、天井へとぶつかり反響した。
「助ける……助けるだと。人ですらない、この異物を!」
乱れた前髪を掴んだ指先が、ぎり、と食い込んだ。
髪の隙間から覗く瞳は、冷たい青に沈んでいる。
「魔女の心を抱くことなど、誰に出来るわけもない」
吐き捨てる言葉が、毒のように耳を侵した。
「身の程を知れ──腐れチンポ野郎」
「あぁ……ところで」
まぶたを伏せ、開ける、その寸秒で。
ダイアンは、堕神の眼前に立っていた。
「その顔で、汚い言葉を吐くなよ」
静かに、柔らかく、諭すように言った。
その指は容赦なく、堕神の顎を掴み上げている。
「僕のアナスタシアが、穢れるだろう」
右の拳を、後ろへ。
拳から漏れる白焔が、燃える軌跡を描いた。
打ち抜かれる──ッ!
ゴッッ!!!!
腹を潰す一撃が、深くめり込んだ。
堕神の身体はくの字に折れ──
弾丸めいた速度で、後方へと吹き飛んだ。
石床を跳ね、何度も転がり、叩きつけられた。
「っ、かッ……」
堕神は呻き、よろめいている。
呼ばれるより速く、俺は地を蹴った。
「緋色!」
靴底から伝わる反発が、全身を前へ。
空気を裂き、背後に回った。
そのまま肩下へと腕をいれ、強く、締め上げていく。
みし、と骨が軋んだ。
「動くなよ……!」
「どいつもこいつも、イラつくんだよッ!」
堕神の蒼い覇気は、黒へと蠢き変蝕していく。
黒魔が、爆ぜた。
荒れ狂う魔力に、視界が揺らいだ。
腕ごと、持っていかれる……!
「ダイアン!!」
喉が裂けるほど叫んだ。
応じるように、ダイアンは掌を掲げた。
「いつだったか、戯曲を見に行ったね」
場違いなほど優しい声とともに、指先が動きだす。
「しぶる君の手を、無理やり引いてさ」
不可思議な文字が、宙へと刻まれていく。
「囚われの姫が、勇者と結ばれる。そんな話だった」
ひと筆ごとに、淡い燐光が浮かんだ。
「つまらない。退屈な物語だと、君は言った」
円型に描かれていくのは、神秘を宿した魔導紋。
「でも、僕は感動したんだ。僕らの幕引きも、こうであればいいのにと思った」
「不可能だッ! もはやこの身は、我が依代!」
腕の中で、堕神はもがいた。
「もう一度言おう。不可能だッ! それこそ、奇跡でもなければ!」
「神様ってのは案外、理屈っぽいんだね」
ダイアンは小さく肩を竦めると、右手を前へ掲げた。
「奇跡っていうのは……自分で起こすものだろ」
揺らぎなく。
強く。
灰色の瞳が、一直線に堕神を貫いた。
「ハッピーエンドじゃないと、だめなんだ」
「図に乗るなよッ!!」
堕神は吠え、暴れ、ねじり、逃れようとしている。
負傷した俺の右腕から、血が噴き上がった。
「ぐ……ッ!」
噛み締めた視界の端で、白光が満ちていく。
ダイアンは掲げた掌を、静かに回した。
「虚ろ流れて輪廻の永劫。生を詠み、天へと帰るは神理の掟」
掌が上を向いた。
ふわり。
白い花弁が、ひとひら。
刹那。
何もなかった空間に、無数の白花が咲いた。
視界を埋め尽くした花弁が、月光を受けて揺れる。
「星界信書・第二章──魂は故に還り、解脱に至る」
告げると、ダイアンは掌を握りしめた。
その背後で、
パキ、パキ。
硝子のように、空間がひび割れた。
裂け目は縦へ、横へ、闇を断つように広がっていく。
真っ白で、巨大な、何かが押し出てくる。
あれは、扉だ。
天井まで届くほどの、純白の大門だ。
ダイアンは右拳を胸元へ引き寄せ、もう一方の手で包んだ。
拳の内で、光が収束していく。
凝縮した輝きが、一本の白い鍵へと姿を変えた。
鍵を握った手を引き、前へ──
眼前の宙に、挿し込んだ。
「≪天鍵封式・白蓮浄界≫」
ガチャリ。
鍵が、回った。
純白の大門が、鈍く軋みながら開きだす。
門の奥に広がったのは、一面の白蓮花。
その中心に、何かが座している。
白い、女の巨像だ。
頭には星輪を冠し、背には無数の白手。
瞳を閉じた輪郭は、朧げに揺らいでいる。
──動いた。
横へ伸びた両の手が、胸の前で重なった。
像ではない。
観音のように座し、祈るあれは──
女神だ。
「眠れ。悪しき神よ」
ダイアンの深い声が、静かに響いた。
応じるように、女神の千手が伸びる。
無数の白い巨腕が、視界を埋め尽くした。
「クハッ! 封じようというのか。このオレをッ!」
嗤っていた。
その声は、歓喜に満ちていた。
もう、持たない……!
「っ!」
抑えていた腕が解け──
弾ける風圧に、俺は吹き飛ばされた。
「いいだろう……喰ろうてやる。お前の全てッ!」
膨れ上がった黒魔が、大蛇の群れの如くうねり、宙を這った。
白の千手へ、数多の黒蛇が喰らいつく。
ダァンッ!!!!
轟音が耳をつんざいた。
白と黒の激突に、空間が軋んだ。
呑み込む白を、黒が噛み喰らう。
押し合い、削り合い、互いを侵し合っていた。
「悠久の時を過ごした。ただ、君と在るために」
ダイアンの声は揺るがない。
千手がさらに増え、黒蛇を締め上げた。
牙を剥き、堕神は叫んだ。
「よこせぇえええええええええ!!!!」
止まらない。
白手を喰らい、裂き、飲み込み、なお膨張している。
「やってみろ。この思い──喰らい尽くせるものならばッ!!」
ダイアンが腕を突き出すと、白魔が噴き上がった。
千手が黒蛇を押しつぶし、呑み込んでいく。
「馬鹿な──ッ!」
圧されている。
世に降ろされ、破壊を尽くし、蹂躙をまき散らす。
神話の邪神が。
比類なき災厄が。
忘却の原罪カリオスが、圧倒されている。
「思念体、如きに──ッ!!」
白い巨手のひとつが、ついに堕神を包んだ。
「ぐ、ぅァァアアアアアア!!!!」
黒く歪んだ輪郭が、押し潰されていく。
「──ァ────」
絶叫は白に呑まれ──
光が爆ぜた。
焼き付くような閃光に、俺は目を覆った。
白に満ちた世界で、粉塵が激しく舞い上がる。
「……ッ!」
やがて──
硝煙の中に、ひとつの影が見えた。
煙がほどけていく。
そこに立っていたのは──
ダイアンだった。
腕の中には、瞳を伏せた堕神。
蒼いドレスは破れ果て、見る影もない。
力なく垂れる銀の長髪を、ダイアンはそっと掬いあげた。
──アナスタシア。
そう呼んだ。
ダイアンは微笑み、ただずっと、腕の中を眺めていた。
永遠のような一瞬の後。
ぴきり。
ダイアンの体が、崩れはじめた。
指が、腕が、砂のように形を失っていく。
「あぁ~。無理しすぎたか」
軽い調子で、ダイアンは言った。
その腕の中で、アナスタシアは身じろいだ。
浅く開いた唇から、苦しげな吐息が漏れた。
「阿呆め……神封じ……無理どころでは、ない」
「そんな顔を見れる日が、来るなんてね」
ダイアンは自嘲気味に笑うと、アナスタシアの左手を取った。
よく見れば──彼女の薬指にも、銀の指輪がある。
「死が二人を別つとも、想いはここに」
指を重ね、ダイアンは静かに言った。
「君のもとへ行ったね、何度も何度も」
「……分かっていたはずだ。良い結末には、ならないと」
「最後まで、君を連れ出すことは……叶わなかったな」
「気持ちの悪いやつ、め……」
「アナスタシア」
ダイアンは、慈しむように微笑んだ。
「君を──」
白花が散る中で、彼は何かを呟いた。
「……っ……」
アナスタシアは短く呻き、糸が切れたように、ダイアンの胸へ沈んだ。
ダイアンは、こちらへ歩み寄ってきた。
役目を終えたように、満足げに。
アナスタシアを、俺に預けた。
“ありがとう”
ダイアンは笑った。
その身体は、霧のようにほどけ──
「あっ、おいっ!」
伸ばした手は、宙を切った。
「礼も、言ってないのに……」
指の間から、光の粒が零れていった。
最後の一粒が、落ちたとき。
バリン。
背後で、フィオナを囚えていた水晶が砕けた。
アナスタシアを床へ横たえ、フィオナの頬を軽く叩いた。
「もう、食べられないよ……」
寝言を言っている。無事のようだ。
安堵に、全身の力が抜けた。
その時。
ゴゴゴ……
低い地鳴りが、床を揺らした。
書館が震えている。
フィオナは、起きない。
彼女を抱え、外へ走り出そうとした時。
『助けてくれ』
ダイアンの声が、脳裏に響いた。
「あー、もうっ……!」
右肩にフィオナ、左腕にアナスタシアを抱えた。
走れ──ッ!
書棚が軋み、連鎖するように倒れていく。
天井は砕け、ステンドグラスに亀裂が走った。
轟音とともに、瓦礫が降り注ぐ。
崩壊が、波のように押し寄せた。
地を蹴り、瓦礫を踏み越え、銀色の扉へ。
飛び蹴った──ッ!
バンッ!
転がるように外へ飛び出すと、銀の扉は消滅した。
濡れた石畳に、星の光が淡く揺れている。
雨は、もう止んでいた。
もぞり。
肩の上で、フィオナが動いた。
「ん……」
「おお、起きたか」
地面に降ろすと、彼女は目蓋をこすった。
ぱちりと開いた碧眼が、俺を覗きこんだ。
「んー……」
だれ?
「えっ」
……。
「え゛っ?」
空を、見上げた。
夜の底に、朝焼けが染みている。
濡れた空気に、草と土の匂い。
雨の名残りだけが、現実を語っていた。
前途多難。
そんな言葉が、ふと浮かんだ。
俺は、息を深く吐いた──。




