第五十四話「ヒーローは、遅れてやって来る」
荒く上下していた堕神の呼吸が、不意に止まった。
「憂鬱……ああ……憂鬱だ」
両手で顔を覆い、縋るような声で。
「なぁ、教えてくれ……」
指の隙間から覗いたのは、底知れぬ業。
「お前を喰らえば、気持ちは晴れるか?」
そこに映るのは殺意ではない。
憎悪でもない。
憤怒とも違う。
憂い。
苦悩。
そこにあるのは──
飢え。
狂おしいほどの、
渇望。
暗い碧眼は、たしかな“救い”を求めていた。
「我が眼に映るは遠き感傷」
乞うように、堕神は言葉を紡ぎだす。
『まずいぞ!』
ダイアンの叫びに、足を踏みしめた。
走れ、前へ──ッ!
「憂いに嘆き、あの日を描いた」
ぼそりとした詠唱が、沈黙を侵す。
その声を振り払うように、叫んだ。
「身体強化、思考加速ッ!」
考えるな。
「我思う」
動け。
「故に世界は」
届けッ!
「──美しい」
横薙ぎ一閃──ッ!
細い首筋に、刃が食い込んだ。
「≪遠き残響の幻香≫」
ザンッ。
刃が触れた直後、霞むように堕神は散った。
濃紫の霧が、視界を呑み込んでいく──
見渡せど、人影はない。
地の底から、潜んだ声が響く。
「身体強化に、思考加速。頼みの綱は、ろくに使えもしない剣」
懐から黒銃を抜いた。
装填、回転、異常なし──
煙の向こうに、わずかな気配。
揺れる影に、引き金を絞った。
ダン、ダンッ!
金の弾丸が紫煙を貫く。
が。
影はかき消えた。
手ごたえはまるでない。
「ああ。そんな玩具も、持っていたな」
『後ろだ!』
背後から剣閃。
咄嗟に身体をひねった。
ザシュッ!
肉を裂かれる鈍い手応え。
一拍遅れ、焼けつく痛みが右腕を駆け上がった。
「っ……クソ……」
右上腕が、燃えるように熱い。
「くく……」
堕神の嘲る声が反響した。
まるで気配を掴めない。
この紫煙を、どうにかしなければ。
『この煙は、魔力の塊だ』
「どうすりゃいい」
『より強い力を、当てるしかないだろう。いけるか?』
俺は、深く息を吸った。
「やるしかないだろ……いくぞッ!」
ありったけの魔力を、短剣に流し込む。
刃は沈黙を裂き、光と成して散っていく。
砕けた破片の輝きが、雪のように流れ出した。
一か八か、だ。
「停天光輝!」
震う叫びに、剣が呼応した。
光が世界を塗り潰し、視界が白に焼ける。
凝縮された光が、輪郭を持っていく。
真の形が、定義される。
虚空が歪み、透き通る刃に星が沈んだ。
顕現せしは──
闇喰らう青光の大剣。
幾重にも刻まれた紋様が、脈のように淡く明滅した。
荒れ狂う魔の奔流に、紫煙が押し広がる。
紛れた気配が浮かんだ。
右。
「そこだッ!」
質量すら感じぬ巨刃を、肩口へ引いた。
閃──ッ!
圏域ごと裂く一振りに、濃霧が割れる。
ギィンッ!
確かな手応えが、骨まで響いた。
青光の神剣を止めたのは、蒼に透ける水晶剣。
「停天光輝。法則を曲げ、万物を断つ──神意の具現」
激突する青と蒼。
刃が噛み合うままに、視線が交錯した。
「なぜお前なんだ……レスターではなく、なぜ……」
深い蒼眼が、覗くように迫る。
ピキッ──
水晶剣に亀裂が走った。
「チッ」
砕け散る刀身とともに、堕神は後ろへ弾けた。
「逃がすか!」
追撃に飛んだ俺を、ダイアンの声が追う。
『一瞬でいい。動きを止めてくれ!』
「了解ッ!」
剣柄を握る指が、じわりと痺れた。
マナを喰い尽くそうと、神剣が鳴動している。
急げ、早く。
速く──ッ!
堕神は、ゆっくりと嗤った。
唇の端が持ち上がり、白い歯が覗く。
その笑みは軽やかでありながら、まとわりつくような不快さがある。
「どうした……焦っているのか」
絡みつく低声を払うように、刃を上段に掲げた。
叩き斬る。
それだけでいい。
それだけで。
だが。
意志に反して、腕が小刻みに震えた。
構うものか。
渾身の斬撃を、放つ──ッ!
ダァンッ!
床石が弾けるように舞い上がった。
衝撃が遅れて両腕を駆け上がり、視界が白く霞んだ。
堕神は──
身を半ばよじり、躱していた。
胸の奥がひやりと沈む。
振り抜く刃が、わずかに鈍ったのだ。
「おいおい」
息混じりの声をこぼし、堕神はゆらりと手首を返した。
その手に蒼光が集まると──
砕けたはずの刀身が、瞬時に再生した。
「腕が、震えているぞ!」
蒼光の刃が振り上がる。
地を抉った神剣を、俺は、
だめだ、
間に合わない。
死──
刹那。
胸の銀輪が光を放った。
ブシュッ!
肉を裂く斬音が、頭の芯まで響いた。
顔を上げると──
視界に、紅が散っていた。
俺の血、ではない。
横へ目をやると、蒼刃をぐっと掴んだ手。
刃を指に食い込ませ、それでも、止めていた。
黒いローブが揺れ、茶髪がなびく。
そこには、白い魔気を纏った一人の男。
「妙な気配がすると思えば……お前、誰だ」
蒼刃をなおも前へ押し込み、堕神は目を細めた。
押し揺れる剣圧に、漆黒のローブが波打つ。
「ダイアン・フォレスター。ただの──」
男は微笑み、空いた左手を挙げた。
人差し指を堕神へ向け──
「魔法使いさ」
指先に、紅が煌いた。
ダァンッ!!!!
轟音とともに、赤熱の魔弾が炸裂した。
堕神は闇の奥まで吹き飛んだ。
ダイアンは指先を吹き、笑みを浮かべた。
「お待たせ!」
「……もっと早く出てこいよ」
「ヒーローは、遅れてやって来るんだ」
軽口の裏で、咳き込むような呻きが響く。
勝負は、ここからのようだった。




