第五話「エルフ里の日常・前編」
ちゅんちゅん──
小鳥のさえずりが聞こえる。
優しいアロマのような香りもする。
「ん……」
体をゆっくりと起こした。
ここは……どこだ。
俺は、天蓋がついた古びたベッドにいた。
あたりを見渡すと、大きな窓がひとつあった。壁や柱にはツタが伸び、ところどころに緑が残っている。まるで森の中に建てられた部屋だった。
そうだ……ここはエバーウッド──エルフの里だ。
怒涛の一日だった昨日を思い返していると、
「緋色ー! 朝だよー! ひーいーろー!」
扉の外から騒がしい声がした。
声の主はドンドンと扉を叩き、反応を待たずに中へと入ってきた。
肩下まで伸びた淡い青髪に、湖のような瞳──
「良い天気!」
エルフの少女は、開け放たれた窓から差す光に照らされた。
まぶしい。
「ふぁ──」
軽い欠伸を抑えられず、背筋を伸ばした。
疲れが抜けきっていないのか、少しだけだるい。
「まだ眠いの?」
「ちょっとね……おはよう、フィオナ」
「おはよ! じゃ、行こっか!」
「行くって、どこに」
「もちろん、朝ご飯! お腹減ったでしょ?」
ご飯と聞いた瞬間、腹が鳴った。
体は正直である。
外に出ると、澄んだ森の香りがした。
昇り始めたばかりの太陽が眩しい。
「緋色、私の真似して!」
フィオナはすーっと息を大きく吸うと、深くはーっと吐いた。
彼女に続くように、息をゆっくりと吸い──吐き出す。
「すぅ──んッ、ぎっもぢいぃ……」
都会の汚れた空気に慣れた体は、こんな森の楽園を求めていたのかもしれない。
「気持ちいいでしょ」
彼女はくすりと笑った。
「ああ──最高」
コンクリートジャングル・東京にはもう戻れそうにない。
それから俺たちは、里の中心へと繰り出した。
──エルフ里の風景は、どこか風変わりしている。
一言でいえば、“縦に広い場所”だ。
太い木の幹に沿って、二階、三階と家々が何層にも組まれ、その間に木橋や小道が掛けられている。層になった家々の間には光がこぼれ、崖を伝う小さな滝は澄んだ水音を響かせていた。
まるで里全体が、積み重なった一つの大きな家だ。
中央市場に足を踏み入れると、空気は一気に明るくなった。
飲食に雑貨、工芸店、多様な露店が商いをしている。
木の階段を上がり、三階ほどの高さにある歩道を進んでいると──
ふわり。
小麦の甘い香りがした。
この匂いは──パンだ、それも焼きたての。
香りの先には、丸い形をした木造の店があった。看板の文字は読めないが、パン屋なのだろう。
開け放たれた入口から中に入ると、カウンターの向こうに人影があった。
「ありゃ。姫様、おはようございます」
顔を上げたのは、銀の長髪に緑のカチューシャをつけた少女だった。
白いエプロン姿でパンをこねたまま、少女はにこりと笑った。
「お早いご来店でっ。いらっしゃいませ」
「マリネ、おはよう。出来てる!?」
「ふふ、焼きたてのパンが出来たところですよ。ここで召し上がっていきますか?」
「食べる!」
フィオナは店頭に並んだパンを前に、どれにしようかと視線を泳がせた。
「緋色、どれにする?」
「甘いのあるかな」
「ええと、山田……様でしたよね。甘いのがお好きでしたら、こちらのチョパンはどうでしょう」
マリネが示したのは、黒い蜜のようなものがとろりとかかった丸いパンだった。
チョコレートだろうか。
「山田で大丈夫です。いただきます、マリネさん」
俺たちは店内のベンチに腰掛けた。
フィオナは、自分の顔ほどある大きなパンを持っている。デケェ。
「いただきまーす」
もぐもぐと頬張る彼女を横目に、俺はチョパンを噛んだ。
「……美味い。サクッとした歯ごたえ、甘く溶けるような味わい……良い仕事してますねえ」
世界甘党ランキングがあれば上位に入るであろう俺の舌を、ここまで唸らせるとは。
この娘、ただものではない──。
「ふふ、喜んでもらえて嬉しいです。チョパンには、黒実の樹からとれた豆を使ってるんですよ」
おそらくカカオのようなものだろう。
「それよりも……姫様にパートナーが出来るなんてっ。マリネは感動です~!」
マリネは両頬に手をあて、身を揺らしていた。
「パッ!? そ、そんなんじゃっ」
フィオナは頬を染め、あたふたしている。
「でもまぁ、お試しくらいなら? 別に、嫌じゃないというか──」
そして自分の慌てぶりに気づいたのか、彼女は小さく咳払いをした。
「里の案内をしなさいって、長老に言われてるの。とりあえず、次は学校かな」
「そうでしたか。学校に行くのなら、これを母に届けてもらえませんか。忘れていってしまって」
マリネが差し出した木のバケットには、肉をパン生地で包んだ焼き物が詰められていた。
「わかった! イリナばあちゃんに持ってくね」
イリナ──昨晩、串焼きの店で見た女性が頭に浮かんだ。
銀の長髪にどこか既視感を覚えていたが、納得だ。
彼女はイリナさんの娘らしい。
パン屋を後にして、緑あふれる小道を歩いた。
道端には、ふわふわと光る蝶が浮いている。
これも精霊の一種らしい。どこにでもいるわけではなく、森が深まる場所に多い気がする。
眺めていると、草木の茂みから何かが飛び出た。
「まてまて~!」
蝶を追いかけるように跳ねたのは、薄緑の髪をした小さな少女。布と皮で作られた緑の軽装を纏い、弓と矢筒を背負っている。
「リーリー! 何してるのよ、こんな所で」
「あっ、フィオナ!」
少女がくるりと振り向くと、エメラルドの瞳が陽光に煌めいた。
「リーリーは、精霊と遊んでる!」
「訓練の時間でしょう。ライルにまた怒られるわよ」
「むっ……ライル、うるさい、きらい。リーリーは天才、練習などいらんのです」
少女はビシッと手のひらをこちらに向け、どや顔で胸を張った。
「人間だよね!? あそぼ! リーリーとあそぼ!」
目をキラキラさせ、ぐいぐいと距離を詰めてきた。近い。
「えーっと」
「こら、困らせないの。あと、名前は緋色よ」
フィオナがそう言うと、少女はにかっと笑った。
「ひーろ! あそぼ!」
「……訓練場に、遊びに行こうと思ってたのに」
ぼそっと、しかし聞こえるようにフィオナは言った。
「んっ……!!」
「サボってるみたいだし、リーリーとは遊べないわね。あーあ、残念」
その一言に、少女の長い耳はピンッと立った。
「むっ……わかった! リーリー戻る!」
「ん! えらい、えらい」
フィオナは朗らかに笑った。
少女の扱いには慣れているようだ。
「絶対……絶対来てね! 絶対だよ!?」
何度もこちらを気にしながら、少女はすたすたと歩いていく。
また振り返ると、
「約束だからねー!!」
念押しするように手を振った。
「あんな小さな子も、弓を持つのか」
「ああ見えて、緋色より年上だよ。甘やかしちゃダメなんだから」
「俺より……年上……」
人は見かけによらない。もとい、エルフは外見では判断できない生物のようだった。
林の小道を抜けると、石造りの建物が姿を現した。屋根は緑色の木瓦で、外壁にはつる草が静かに揺れている。森の中にひっそりと佇む姿は、隠れ家みたいだ。
「これが……エルフの学校」
「そ! お祭りの次の日は休みだから、今日は静かだけどね」
そういって、フィオナは古びた扉を押し開けた。
真っすぐ伸びる木製の廊下を、彼女の後ろをなぞるように進んでいく。
「休日なのに、イリナさんは居るのか」
年季の入った教室の扉はまばらに開いており、人の気配はない。
「うん。イリナばあちゃんは、書庫の司書なんだ」
廊下の奥には、ひときわ存在感のある扉があった。森の巨木を削り出したような重厚な木肌に、古い文様が彫り込まれている。
フィオナは扉を押した。
ギィ……。
低い木鳴りは、静かな校舎にゆっくり溶けた。
中に入ると──
本棚が幾重にも並び、古い羊皮紙の匂いがほんのり漂っていた。
視線をあげると長い彩光窓があり、柔らかい光で室内を満たしている。
「あら」
腰まで伸びる銀の長髪、黒縁の眼鏡、柔らかい笑み。
書庫の中央、背の高い本棚の前にイリナは立っていた。
灰色のローブを纏い、耳元には金のブローチをつけている。
「フィオナ、それと……またお会いしましたね」
温和だが、よく通る声だった。
パン屋のマリネが明るい向日葵だとすれば、彼女は静かに香る百合のようだ。
「こんにちは。改めまして、山田といいます」
俺は胸に片手を当て、ゆっくりと頭を下げた。
「まあ、エルフの儀礼をご存じなのね」
フィオナが長老にした挨拶を真似てみたが、形になっていたようだ。
イリナはにこやかに笑ったまま、俺の横へと視線を移した。
「ここに来るなんて珍しい。今日はどうしたの」
「里の案内だよ。あとこれ、忘れ物」
フィオナは木のバケットをひょいと持ち上げると、彼女に差し出した。
「あらあら、歳をとると忘れっぽくなっていけないわ……ありがとうね」
「うんっ。じゃ、私は読みたい本あるから。探してくるね」
「ああ、わかった」
ぱたぱたと、軽い足音は書庫の奥に消えていった。
二人取り残され、何となく気まずくなったとき──
「いい子でしょう? 彼女は」
「ええ。分からないことだらけで、本当に助けられています」
俺がそういうと、イリナは微笑んだ。
「ここの書庫には、あらゆる本があります。よろしければ、手に取ってみてください」
「ありがとうございます」
周囲を見渡すと、あらためて感嘆した。どこを見ても本棚だらけだ。
無数の背表紙がぎっしりと並び、見るだけで圧倒される。
「これは、悩みますね……」
「そうねぇ……例えば、これなんてどうかしら」
イリナは本棚の一つに手を向け、指先をそっと招くように動かした。すると分厚い本が一冊、棚からふわりと抜け出し、空気を滑るように俺の前で止まった。
「これって……やっぱり魔法、というやつですか?」
「──ええ。ごく簡単な魔法ですけれど」
眼鏡の奥で、灰色の瞳が細まった気がする。
「あ~、そうですよね。簡単なやつですよね」
「……ええ」
そうだ、ここは異世界。エルフがいるなら、魔法もあるのだろう。
おかしいのは、知らない俺のほうだ。
誤魔化すように本を開くと、曲がりくねった無数の文字の羅列が──
うむ。
まったく、分からん。
「すみません。学が無いもので、文字が読めなくて……」
「やはり、読めないのですね」
イリナは眼鏡をかけ直した。
「え?」
「まだ幼かった頃に、あなたと似た人に会いました」
「それって……」
「そう……その人も、“異界人”でした」
「……気づかれてましたか」
「長生きすると、目ざとくなるんです」
イリナは穏やかに笑った。
「その本の題名は、“異界の伝承”。文字もよろしければ、私が教えましょう」
なぜこうも親切にしてくれるのか。
彼女の優しいまなざしは、俺ではなく、どこか遠くを見ているように感じた。
「いいんですか」
「ええ、もちろん。この世界の知識が、あなたには必要でしょう」
トントントンッ。
静けさを押しのけるように、小気味のいい足音が聞こえた。
「ただいまー!」
「しーっ。書庫では静かにね」
イリナは人差し指を唇に立てた。子をあやす母のようだ。
「はぁい。何の話してたの?」
「あなたが、良い子だという話をしていましたよ」
「えぇっ! えっ、ええー……いや、それほどでも、あるかもだけど」
フィオナは大げさにのけ反ると、恥ずかしそうにニヤけた。
そういえば──俺が異界人であることを、フィオナにまだ伝えていない。
まぁ言ったところで、何が変わるわけでもないか。
「ところで、何の本を持ってきたんだ」
「ふふん。転生したらドラゴンになってた件について、第五巻!」
ラノベかよッ!
どこかで聞いたようなタイトルに、心中で突っ込んだ。
「すごく、斬新なタイトルだな……」
「えぇっ! 転ドラ、超人気なのに──知らないの!?」
エルフというのは、ミーハーな生き物なのかもしれない。
それから俺たちは、静かな書庫で小一時間ほど過ごした。
「それじゃ……イリナばあちゃん、また来るね~」
「ええ。山田さんも、いつでもいらしてください」
眼鏡の縁に手をやり、イリナは微笑んだ。
「ありがとうございます」
わからないことだらけだが、新鮮なことばかりだ。
この世界のことをもっと知りたい。
純粋に、そう思った。




