第十話「英雄の血」
冬。
ファンタジア歴二〇二五年、十二月一日。
永遠のように深い森──エバーウッドには雪が降り始めていた。
この季節の朝は冷える。里に騒音はなく、空気は澄んで美味い。
粉雪がぱらぱらと肌に触れる冷たさも、どこか愛おしい。
大広場に入ると、子供たちの笑い声がした。
「長老さまだ! おはよー!」
「あぁ、おはよう。転ぶんじゃないぞ」
元気に挨拶をする子供らに手を振った──微笑ましいものだ。
店先を見れば、氷で作られた造形が飾られている。小鳥、花弁、狼の氷像──細部まで魔法で削られたそれらは、エルフの緻密さと誠実な気質を映している。
どこまでも美しい里──私の使命は、この愛おしい場所を守ること。
今日も使命を胸に、里の中心──大神樹へと歩いていく。
女神アストレアは、エルフの始祖エバーディルに〈宝剣〉と〈豊穣の苗〉を授けた。
エバーディルはそれを里の中心に植え、祈りと共に育てたという。
やがて歳月を重ね、大きく育った樹は〈幻想大神樹・ノアステル〉と呼ばれるようになった。
女神の祝福が形となったその聖域で、月初めの〈月例会議〉は執り行われる。
大樹の根元へと続く長い階段を上がると、巨大な白い神殿がゆるやかに姿を現した。
神殿は大樹に寄り添うように建っており──大扉には、金色の魔法陣が浮かび上がっている。
門番の若いエルフは私に気づくと、胸に手を当てて恭しく一礼した。
「長老。おはようございます」
「ああ、おはよう」
「皆様はすでに上でお待ちです」
「うむ……開けてくれ」
門番は頷くと、扉に刻まれた呪紋に手をかざした。
ごぅ──と低く響きながら、重厚な扉がゆっくりと開いていく。
「それでは、里の繁栄を祈っております」
質素な白い部屋で扉が閉まると、足元の魔法陣が柔らかい光を放った。
ガコッ──。
音と同時に床が動き出し、浮遊感が身を包んだ。
昇降台が樹の側面を上昇するにつれ、窓の向こうに広がる里の景色は遠ざかっていく。
やがて台が止まると、金装飾の扉が開いた。
足を踏み出した先は、冷たい石壁に囲まれた厳かな廊下。
燭台の灯りを頼りに進んでいくと、美麗な大円卓が鎮座していた。
奥の壁際には、大神樹の太い幹がどっしりと天井まで伸びている。
円卓には七席、そのうち五席が埋まっていた。
背に三と記された席には、銀の長髪に眼鏡の貴婦人。
四の席には、褐色肌の屈強な大男。
五には、栗色の短髪に鋭い眼をした青年。
六には、紫髪を肩まで伸ばした少女。
七には、青緑の長髪をした小柄な巫女が座っている。
「みな集まっているな。待たせてすまない」
座しているのは、エルフを導く七人の長──〈七聖〉。
彼らをまとめ、取り仕切るのが、里の長老たるこのヴァレン・シリウスの務めだ。
私は自らの席に腰を下ろし、長い白髭を整えていく。
「では始めようか」
声に応じるように、皆が静かに頷いた。
「女神アストレアに──神樹円座に宣誓を」
顔の前で手を合わせ、見えぬ女神に祈った──里の未来を、平和を、安寧を。
「我らは使命を全うし、掟に殉じる。誓おう──賢聖、ヴァレン・シリウス。知識を捧ぐ──」
祈りの流れに合わせ、私は左隣──第三の席へと注意を向けた。
銀の長髪に眼鏡をかけた、美しい女性。
来年には齢三百──エルフの中でも別格とされる〈エルダーエルフ〉へ至る寸前の才女だ。
銀灰色の瞳を閉じ、彼女は祈った。
「浄聖、イリナ・イステリア。民に安寧を──」
そして隣、第四の席。
燃えるような赤髪を背に流し、胸元まで伸びた赤い髭を荒々しく束ねた、褐色肌の大男。
岩のような筋肉には、戦いの紋様が描かれたタトゥーと古傷が無数に刻まれている。
彼はすでにエルダーエルフへと至っており、武勇で里を支えてきた最古の戦士だ。
低く、地を震わせるような声が続く。
「剣聖! エイジーン・レヴァン! 折れぬ力を──!」
さらにその横──第五の席には、栗色の短髪をした青年が座っていた。
先代譲りの鋭い瞳には、若さと揺るぎない意志が宿っている。
若くして聖弓の運命を背負った彼は、手を合わせた。
「弓聖、ライル・ハーケン。調和の光を──」
時計回りに、祈りは進んでいく。
次いで、第六の席。
肩まで伸びた紫髪を揺らして、うら若き少女は祈った。
「槍聖代理、ランシア・ピアース。乱れなき秩序を──」
当代槍聖は病に伏しており、久しく姿を見ていない。
いずれこの少女が、その座を継ぐことになるだろう。
「守聖……フィリシア・ルセリア……繁栄を祈る──」
最後に声を落としたのは第七席、里の聖殿を守る巫女、フィリシアだ。
幼い見た目に反し、齢五百を越える私の古き友である。
私は残された一席──二と記された椅子を一瞥した。その席は、今も空のままだ。
彼は合議そのものに興味がない。いつものことだった。
「では、七聖議会を始める」
その時。
コツ、コツン──。
静まり返った廊下の奥から、床を鳴らす音が近づいてきた。
「オーバン、殿……」
闇の中から現れたのは、長い白ひげをたくわえた小柄な老エルフ。
茶色のローブを引きずり、身の丈以上の杖をつきながら、ゆっくりと歩んでいる。
一歩、床を踏んだ瞬間、ふわりと浮き上がり──音もなく第二席へと着地した。
「魔聖、オーバン・ノージス。見えざる禍を断つ──」
ざらついた低音が、円卓の空気を震わせる。
「あなたが議会に来るとは珍しい」
「感じるのだ──邪悪な気配を、すぐそこに。守聖フィリシア、そなたも視ているのだろう」
フィリシアはこくりと頷き、表情ひとつ変えずに語り出す。
「争いの炎──小さな種火は広がり、燃え上がる。赤と黒、深淵……終末が……迫ってる……」
祈りの座につく彼女は〈神託の巫女〉。
近い未来を断片的に幻視し、女神の啓示を言葉にする。
その予言が外れたことは、ただの一度もなかった。
「エバーウッドだけではない。ファンタジアは侵蝕されるだろう」
オーバンの言葉に場の空気は凍った。
深い沈黙が、その場を覆う。
ひとつ息を整え、彼は低く呟いた。
「猶予は少ないぞ。シリウス」
「……分かっております」
静寂。
六つの視線はすべて、里の統率者たる私へ向けられている。
顔を上げ、沈黙を割るように声を発した。
「皆も感じているだろうが……今年に入ってから魔素の侵蝕が早まっている。〈十三聖壇〉の封印が、軋み始めているのだ」
言葉を落とした瞬間、室内の空気はさらに重く沈む。
その緊張を押し切るように、第六席の少女が小さく手を挙げた。
「あの、すいません。十三聖壇とは?」
「そうか。お前はまだ知らぬか」
ランシアは槍聖の代理──知らないのも当然だろう。
私は卓上に手をかざし、魔力を流し込んだ。
コォォ──と低い共鳴音が広がり、神樹円座は淡く光を帯び始めた。
やがて、円卓の中心に浮かび上がったのは──半透明の大陸図。
大陸図には、十三の赤い光点が脈打っている。
「十三聖壇──創世記に女神が作ったとされる、災厄封じの祭壇だ。数は十三、世界の要となる場所に置かれている」
身に刻まれた定めを、確かめるように言葉を紡いでいく。
「時が来ればこれらを巡り、世界の調和を保つ──それこそ、我らの本来の使命である」
「では、百年に一度のお役目というのは──」
「そうだ。女神の意思を継ぐ者たちが、各地を巡り封印を調律しているのだ」
耳を傾けていたランシアは、髪と同じ紫の瞳をわずかに見開いた。
これは代々、七聖と一部の者に伝わってきた真実だ。
「さらに……南方の聖国と、西方の獣人国の間で戦争が始まった。それだけではない──」
パチンッ!
指を鳴らすと──窓際にある鳥籠が揺れ、青い小鳥がふわりと飛んだ。
その翼は薄く光を帯び、旋回して私の肩へと降り立った。
エルフが飼う伝書鳥〈スカイホーク〉──一晩で五百キロを駆ける空の使いであり、各地に散った戦士たちの報せを運んでいる。その足には、すでに幾通もの巻紙が結ばれていた。
「大陸中央のエンバータウン周辺では事件が多発。東方の島国では魔物の知性化。南海でも高名な師範が殺害──各地から届く報せは、どれも不穏なものばかりだ」
第三席──浄聖イリナは耳元の銀髪を軽く払い、そっと言葉を継いだ。
「戦乱の兆し……魔女が、動き始めたようですね」
第六席──槍聖代理ランシアは続けていった。
「どうするのですか。こうしている間も、魔蝕は進んでいます……里も無事では済まないはず」
「大樹の魔力が里を守っているとは言え、生活基盤は崩れるでしょうね」
イリナの言葉に、第四席──剣聖エイジーンは太い両腕をぎりと組んだ。
「もう待つことは出来ん。早急に手を打たねばなるまい!」
「──僕が行きます」
第五席、ライルは力強く手をあげた。
「聖弓の封印を解く。そして僕が、先代にならって問題の解決に向かいます」
「だめ。魔力の補充、あと三年、かかる。むり、よくない……」
第七席──フィリシアは、小さいがよく通る声でいった。
幼い顔立ちに反して、その緑眼には齢五百年の重みがある。
「各地の魔素は乱れ始めてる。聖壇の封印は解け始めてるんだ! このままでは──」
「落ち着け。弓聖の倅よ」
身を乗り出したライルを制するように、魔聖オーバンのしわがれた声が飛んだ。
ライルはぐっと唇を噛み、席へと腰を戻した。
次に立ち上がったのは、第六席のランシア。
「私が行きます。〈聖槍ヘスペリオン〉なら、今も使えます」
即座に、エイジーンの怒声が飛んだ。
「だめだ! お前が居なくなれば、里の防衛線は崩れる。それに、お前はまだ槍聖代理だろう!」
「ッ……では、どうするのです! エリン・レスターにまた、剣を抜いてもらうのですか!?」
「馬鹿を言え! 彼女は、三度も大戦に行っているんだ。無理をさせれば、英雄を失いかねん!」
エイジーンとランシアの声が激しくぶつかり合った。
その緊張を切り裂いたのは、
「レスターの血は、受け継がれている」
第二席、オーバンの静かなひと言だった。
しん──。
オーバンの意図は、つまり──
「女神の試練を、受けさせろというのですか。それは、あまりにも……」
言葉に詰まった私を援護するように、イリナが静かに続けた。
「そうですね。彼女はまだ、宝剣の修行すら終えていません。待つべきではないですか」
オーバンはゆっくりと口を開いた。
「あと十年もすれば、結局は試練を受けることになる。時期が早まっただけのこと」
「待ってください!」
声を張り上げたのはライルだ。
「聖弓の掟と同じく、百歳になるまで待つのが道理ではないですか! 掟は絶対だ!」
バン──ッ!
鈍い衝撃音が、議場に響き渡った。
円卓に拳を叩きつけたのは、第四席──赤髪の巨漢、ダークエルフのエイジーン。
「悠長にしている時間はない! 魔獣は今も森から這い出ている。数は増え続けているんだ!」
深い皺の刻まれた顔が、険しく歪んだ。荒くなった息を整えながら、彼は言葉を続けていく。
「無論、負けはせん。息子に聖剣も譲った。だが……いくら勇猛なエルフの戦士とて、数で押し切られれば限界は必ず来るだろう」
エイジーンはさらに身を乗り出した。
「守り手の数も多くはない。風牙を率いていた槍聖も病に倒れた。状況は悪化する一方──長老、あなたも分かっているはず!」
「……」
円卓の空気は、重たく沈んだ。
──言うべきだろうか。
──いや、言わねばなるまい。
「さらに問題がある」
意を決して、私は短く息をついた。
「フィオナには──フィオナ・レスターには、宝剣が抜けなかった」
一同に動揺が走った。
ランシアは叫んだ。
「そんなッ! レスターが選ばれなかったのですか!?」
「ホッホッホ。これは異例の事態──剣を抜けない者など、過去におらなんだ」
「天罰だ──あれの母親は使命から逃げ出した。その報いが来たんだ!」
「エイジーン、落ち着け」
魔聖オーバンは、なだめるように言った。
「これが落ち着いてられるか!!」
「エイジーン」
殺気──ッ……!
「っ!」
重圧に体が震えた。気を抜けば、意識は飛ぶだろう。
胸が締め付けられるそれに、皆は息を呑んだ。
「落ち着けといっている」
「……すまん。血が上った」
エイジーンが重たい息を吐くと、再び場は静まった。
「試練、受けるべき……」
そう言ったのは、第七席──守聖フィリシア。
イリナは古金色の眼鏡を押し上げた。
「しかし、宝剣が無くては──〈冒険の丘〉を抜けるなど、不可能では?」
ライルは目を伏せた。
「自殺行為だ……」
──同感だ。
冒険の丘は、かつて多くの英雄が歩んだ選抜の地──試練を抜けられねば、死あるのみ。
「フィリシアよ。お主は、何を視た?」
「希望……ある……運命、フィオナで、廻る……行くべき」
「ホッホッ。相も変わらず、曖昧だのう」
オーバンの軽口とは裏腹に、円卓には静かな圧が満ちた。
巫女の神託は、断片であろうと決して外れない──その重みを、誰もが知っているのだ。
「では──七聖議会の掟に従い、決を採る」
それぞれの感情が入り混じった顔で、皆が頷いた。
「フィオナ・レスターに、女神の試練を受けさせる──異論のある者はいるか」
応じる声は、無い。
理解しているのだ。この決断には、反論する余地など残されていないと。
「全員の同意だ。七聖の掟に従い、女神の試練を決行する」
私はその場に立ち上がった。
──掟は、絶対だ。
「女神アストレアの御前において、神樹円座に誓え」
私の声に応じ、残る六人も席を立った。
「我ら七聖──闇を払う光たらん」
皆が一斉に手を合わせ、深い祈りを捧げていく。
その祈りは静かに満ち、大神樹の奥深くへ溶けていくようだった──。
*
聖域の円卓、夕刻。
私は、大神樹を背に姿勢を正した。
タンッ、タンッ。
薄暗い廊下から、足音がゆっくりと近づいてきた。
「来たか……」
「フィオナ・レスター。ここに参りました」
彼女の表情は硬く、わずかに肩を強張らせている。
聖域に呼ばれたというだけで、事態の重さは否応なく伝わっているだろう。
「試練の日が決まった」
短い言葉だったが、フィオナの碧眼は揺れた。
十年ほど早い決定に、戸惑いを隠せないのだろう。
「──はい」
「使命のために、冒険の丘を越えてもらう」
冒険の丘──古代遺跡を抜けた先にある頂きの丘。資格なき者は生きて帰れぬ──別名、死の丘。
頂上には女神アストレアの聖壇があり、辿り着けば女神の祝福を受けるという。
英雄の資質を、試されるのだ。
「女神の試練に耐え、終末を止める力を得よ」
「……はい。必ずや」
フィオナの指先は、わずかに震えている。
「母のように、お前は逃げぬのだな」
彼女は視線を落とした。
「まだ許していません。母が私を置いていったことも、母を追放したあなたのことも」
フィオナは唇を固く結ぶと、まっすぐ私を見据えた。
「でも、私がやらなきゃ、いけないんです」
「……」
──本当に行かせてよいのか。
宝剣は抜けなかった。つまり、フィオナは選ばれなかったのだ。
宝剣無しに冒険の丘を抜けるなど、無謀ではないか。
守聖フィリシアの神託も、万が一に外れるかもしれない。
聖弓は三年待てば使える。もう少し、機を待ってからでも──
「──宝剣がなくても、私は厳しい鍛錬をしてきました。問題ありません」
覚悟を秘めた瞳が、じっと私を見据えている。
我が子のように見守ってきた幼い少女は、もう、少女ではなかった。
「似ている」
「えっ?」
「あの人に──祖母にそっくりだ」
「あんまり、嬉しくない……です」
顔をしかめたフィオナを見て、私は小さく微笑んだ。
「フィオナ・レスター。英雄の末裔──レスターの血を引く者よ」
──信じよう。彼女はもう、ひとりの戦士なのだから。
「エバーウッドを率いる七聖──賢聖ヴァレン・シリウスの名において汝に命じる。女神の試練を突破し、冒険の丘を──越えよ」
「──はい」
瞳に強い光を宿し、フィオナは頷いた。
「頂上に辿り着けば、女神の祝福を受けるだろう。何か質問は?」
「ありません」
「出発は春──桜が咲き始める頃、三月の終わりだ。以上である」
「──失礼します」
フィオナはくるりと背を向け、そのまま歩き出した。
「運命は、必ずやお前を導く」
彼女の足が一瞬だけ止まった。
だが、一歩、また一歩と踏み出していく。
ただの一度も振り返ることなく──。




