第9話「最後の十日間」
第七十八世界から、勇者が消えた。
朝の空は昨日と同じ色をしていた。町では店の戸が開き、森を渡る風が枝葉を揺らしている。訓練場の片隅には、かすみが幼い頃から使っていた木剣が残されていた。けれど、毎朝そこで剣を振っていた少女の姿はなかった。
第七十八世界の神々は、かすみが消えた瞬間を見ていた。
十二年前、彼女へ新しい命と加護を与えた。転びながら木剣を振り、弓弦で指を傷つけ、それでも翌朝にはまた訓練場へ立った少女を見守ってきた。そのかすみが、世界の境を破った光に呑まれた。
光の向こうにいたのは、第百八世界の神々だった。
彼らが勇者を必要とした理由は分かっている。魔物に襲われる町があり、助けを待つ人々がいた。だからといって、別の世界で生きている者を奪ってよいことにはならない。
かつて、百八の世界を隔てる境界は今ほど強くなかった。助けを求める声に応じて力を貸し、災いに苦しむ世界へ勇者を送る。神々はそれを救いだと考えていた。
救われた側だけを見ていた頃には、気づかなかった。
勇者が消えた世界には、その帰りを待つ者が残る。魂を移せば、そこで続くはずだった人生が途切れる。災厄を追放すれば、送り出した土地には平穏が戻っても、受け入れた土地では新しい苦しみが始まる。
一つの世界を救う手が、境界の向こうでは誰かの暮らしを壊していた。
神々は長い年月をかけ、世界と世界の間へ境界を築いた。救える命を前にしても、その世界を守る者へ委ねなければならない。不自由ではあったが、自分たちの正しさだけで他の世界の運命を決めないために必要なものだった。
百八の世界は、それぞれの空の下で歴史を歩むようになった。
第百八世界だけは、境界が強くなったあとも手を伸ばし続けた。他世界から勇者を呼び、魂を移し、自分たちでは抱えきれない存在を外へ追いやった。抗議を受けてもやめなかった末に、今度はかすみを奪った。
第七十八世界の神々にとって、それは古い戒めではなくなった。訓練場に残された木剣も、少女のいない朝も、自分たちの世界から一つの人生が失われたことを示していた。
「……終わらせよう」
怒鳴る者はいなかった。声は静かだった。
このまま境界を越える余地を残せば、いずれ別の世界も同じことをする。守るべき人々がいるという理由で、境界の向こうから力や命を持ち去る。そうなれば、境界を築いた意味は失われる。
すべての世界の神々へ決定が伝えられた。
反発する声もあった。境界を閉じれば、他世界にしか治せない病を抱えた者も、滅びかけた世界から逃れたい者も道を失う。神々の身勝手を止めるために、人間の可能性まで閉ざしてよいのかと問う者もいた。
それでも、自由に越えられる道を残せば、力を持つ世界が弱い世界から奪うことを止められない。善意で始まったはずの行為が、すでにかすみのような犠牲を生んでいる。
議論の末、決定は覆らなかった。
十日後、世界と世界の境界を完全に閉じる。
すでに境界を越え始めている力や、長い時間をかけて組まれた術式があった。それらを突然断てば、行き場を失った力が世界の狭間で衝突する。百八の世界そのものを傷つけかねないため、即座に閉じることはできなかった。
猶予は十日。その間に限り、各世界の神々は一度だけ境界を越える力を使うことができる。
勇者を呼ぶことも、魂を送ることも、災厄を追放することもできる。ただし、一度使えば取り消せない。十日を過ぎれば、境界は閉じる。
知らせを受けた神々は、それぞれの世界を見下ろした。
ある世界では、長く眠り続ける少女の魂を救うため、別の世界へ送るべきかが話し合われた。別の世界では、地下へ封じた災いが鎖を軋ませている。封印を守り続けるか、最後の一度で外へ追いやるか。どちらを選んでも、救われる者と、その代わりを負う者が生まれる。
神々の前にあるのは、力の使い道だけではなかった。その結果を、境界が閉じたあとも自分たちの世界で引き受けられるかという問いだった。
最後の一度を残したまま境界を閉じる者もいる。救いたい命のために使おうとする者もいる。長く封じてきた災いを前に、これを外へ追いやれば自分たちの世界だけは救われると考える者もいた。
第七十八世界には、かすみのいない町と、今なお人々を脅かす混沌の魔王がいる。
神々が目を向けた先では、勇者が戻らないことを知らない人々が、いつものように朝を迎えていた。訓練場の木剣を片づけず、かすみが帰ればすぐ使えるようにしている者もいる。その一方で、遠い土地には混沌の魔王の気配が残り、空の色を濁らせていた。
第百八世界には、連れ去られたかすみと、彼女に助けを求める人々がいる。
どちらの神々にも、守ろうとする世界があった。だが最後の力を自分たちのために使えば、その選択が境界の向こうの誰かへ渡される。
世界を越える自由が失われる代わりに、他世界の命や暮らしを都合よく動かすこともできなくなる。その境目が閉じるまでに、自分たちは何を選ぶのか。
答えを出すまで、あと十日。




