第10話「息子を離さない」
最後の十日間が始まった。
境界が閉じるまでに使える力は、各世界に一度だけ。第百八世界の神々は、その一度を新たな勇者の召喚には使わなかった。
彼らが探したのは、かすみが生まれ変わる前から会いたいと願い続けていた魂だった。
願いの言葉は、かすみを召喚したときから知っている。
息子に会いたい。もう一度愛したい。今度こそ守れる力が欲しい。
第七十八世界から勇者を奪った以上、その神々が最後の一度を使ってかすみを取り戻そうとすることは考えられた。境界が閉じる前に連れ戻されれば、第百八世界は再び勇者を失う。
かすみ自身をこの世界へ縛るものが必要だった。
神々は百八の世界へ意識を伸ばし、彼女の願いが向けられた魂を探した。幾つもの世界、数え切れない命の中から、ようやく見つけたのは第七十八世界で暮らす五歳の少年だった。
名は、譲。
少年は母の愛を知らずに生きていた。前世と今世の記憶の断片は、本人にも区別できないまま混ざり合っている。かすみの顔も声も思い出せない。いつのものか分からない温かさだけが、名前を持たない飢えとなって魂の奥に残っていた。
第百八世界の神々は、譲へ最後の力を伸ばした。
少年の足元を光が覆う。譲は何が起きたのか分からないまま、手を伸ばした。助けを求めた先に誰かがいたわけではない。指先が空を掻き、次の瞬間、その小さな身体は第七十八世界から消えた。
魂だけではない。五歳の身体ごと、第百八世界へ召喚された。ただし、神々が譲を送り込んだ先は、かすみが立っている現在ではない。第百八世界の数十年前だった。
その瞬間を、第七十八世界の神々も見ていた。
かすみを奪った光と同じものが、今度は一人の少年を連れ去った。止めようとしたときには、光はすでに境界の向こうへ消えていた。譲が立っていた場所には、踏み固められた土と、小さな足跡だけが残った。
「また、奪ったのか」
答える者はいなかった。
第百八世界の神々が譲を選んだ理由は分かっていた。かすみが探し続けた息子を同じ世界へ置けば、彼女をつなぎ止められる。勇者を失わずに済む。そのために、母を奪った世界から、今度は息子まで奪った。
だが、譲が召喚されたことで、別の事実も生まれていた。
母と子は、同じ世界へ渡った。
ただし、二人が立つ時代はまだ重ならない。譲は、自分の中に前世の記憶があることを知らず、かすみも探している魂が数十年前の第百八世界へ送られたことを知らない。二人の間から世界という隔たりは消え、残ったのは時間だけだった。
第七十八世界の神々には、最後の一度が残されている。
それを使えば、かすみを取り戻せる。十二年を過ごした故郷へ帰し、自分たちの世界の勇者として迎えることができる。
同時に、かすみと譲は再び別々の世界へ分かれる。
神々は、かすみが幼い頃から口にしてきた願いを知っていた。彼女が剣を握ったのは、英雄と呼ばれるためではない。失った息子がどこかで生きているなら、今度こそ守れる自分でいたかったからだ。
会えなくてもいい。生きて、食べて、眠って、誰かと笑っていてほしい。
そう願いながら、かすみは十二年を生きた。
その願いの相手が、ようやく彼女と同じ世界にいる。ここでかすみだけを連れ戻せば、息子と出会える可能性を、神々自身の手で閉ざすことになる。
長い沈黙のあと、一柱が告げた。
「……取り戻さない」
故郷を奪われたかすみへ、さらに息子を失わせることはできなかった。
第七十八世界にも、残された脅威がある。混沌の魔王は今も人々の暮らしを脅かし、勇者の消えた土地では、誰もその力に対抗できずにいた。
神々は最後の一度を、かすみの奪還ではなく、混沌の魔王の追放に使った。
光が魔王を包み、その姿を第七十八世界から消していく。送り先は、第百八世界だった。
これで、かすみを取り戻す道はなくなった。
諦めたのではない。神々は、彼女が最初から選び続けてきた願いを、自分たちの都合で奪わないと決めた。
かすみと譲は、まだ出会っていない。
同じ世界へ渡りながら、数十年の時間に隔てられている。ただ、二人を隔てていた世界の境界はもうない。
今度こそ、母から息子を離さない。




