第8話「勇者を奪う神々」
朝の光を浴びながら、かすみは聖剣を振っていた。
第七十八世界で得た宝具・武具・加護などを、自らの勇者の力で一振りへ統合した剣だった。
一度、二度、三度。振り下ろすたび腕は重くなり、柄に触れる手のひらが痛んだ。息を吐く間隔が短くなっても、剣は止めなかった。
混沌の魔王からこの世界を守るため、もっと強くならなければならない。
第七十八世界の神々は、離れた場所から少女の姿を見守っていた。十二年前、この世界に一人の女性を転生させ、その魂に勇者としての力を与えたのも神々だった。混沌の魔王から世界を守る者として、彼女に願いを託した。
かすみは役目を忘れていない。それでも剣を置けば人と笑い、疲れれば眠り、傷つけば痛みに顔をしかめる十二歳の少女だった。胸の奥には、誰にも話していない会いたい人がいた。
その願いを胸に抱いたまま、かすみは今日も剣を握っていた。自分の世界を守るために。
稽古着の下では、父から渡された革袋が細い紐で身体へ結ばれていた。走っても剣を振っても邪魔にならないよう、かすみ自身が結び方を変えたものだ。休憩のたびに布越しの固い輪郭へ触れ、紐が緩んでいないことを確かめるのが癖になっていた。
その日、最初に周囲の異変を告げたのは、止んだ風だった。
剣を振る音だけが妙にはっきりと耳に残る。かすみは動きを止め、周囲を見回した。森の木々は葉一枚揺れておらず、いつもなら聞こえてくる鳥の声もない。
「……?」
剣を下ろして耳を澄ませても、風も鳥の声も虫の音も聞こえない。自分の荒い呼吸だけが、森の静けさに残った。
見上げた空は、毎日と同じ青だった。その一部だけが、わずかに揺らいでいる。
水面に映った景色を指先でなぞったように、空そのものが歪んでいる。
「なに……?」
かすみが一歩後ろへ下がると、空間に細い線が走った。空についた傷のような線は少しずつ広がり、その向こうに別の景色を覗かせた。
見知らぬ空があり、見知らぬ大地がある。
自分の知っているどこにもない景色だった。
正体は分からない。かすみの足は、考えるより先に半歩退いた。
かすみがその場を離れようとしたとき、足元に光が広がった。
「え……?」
靴底から地面の感触が消えた。
「なっ……!」
地面を踏もうとして足を伸ばしても、もう届かない。見えない何かに掴まれたように、身体が光の向こうへ引かれていく。
「待って!」
かすみは剣を地面へ突き立て、両手で柄を握り締めた。
離されるものか。
ここには、守ると決めた世界と、十二年間を過ごした家がある。
「嫌……!」
引かれる力が強くなった。
地面へ食い込んだ剣先が土を削り、一本の跡を残していく。腕が痛む。指が滑りそうになる。それでも、かすみは柄から手を離さなかった。
振り返ると、森の向こうに町と山が見えた。昨日までと同じ景色から、自分だけが引き離されていく。
「誰か……!」
かすみは叫んだ。
「誰か、助けて!」
声は届かなかった。
その頃、第七十八世界の神々も、かすみを見ていた。
あの少女は、第七十八世界の勇者だ。十二年前に願いを託し、成長を見守ってきた神々は、境界へ力を伸ばした。
けれど、境界の向こうから伸びてくる力は強く、第百八世界の神々はすでに境界を越えようとしていた。
「やめろ」
一柱の神が告げた。
「その子は、お前達の世界の勇者ではない」
返事はなかった。
第百八世界の神々にも、それは分かっていた。
かすみは第七十八世界の勇者であり、自分たちが育てた存在ではない。自分たちの世界を守るために生まれた存在でもない。
それでも、第百八世界では人々が魔物に苦しめられていた。町が襲われ、傷つく者がいて、助けを求める者がいる。その命を守る責任は、自分たちにあった。
だから、手を止めなかった。
「我々の世界にも、守るべき命がある」
その言葉に、第七十八世界の神々は答えなかった。
第百八世界の神々も、それ以上は何も言わなかった。
二つの世界の神々は、どちらも目の前の命を救おうとしていた。その間で、かすみの意思だけが置き去りにされた。
かすみの身体が、さらに境界へ近づいた。
「いや……!」
地面へ食い込んでいた聖剣が、ついに土から抜けた。身体ごと光へ引き上げられても、かすみは柄を離さなかった。
「待って!」
かすみは片手で聖剣を握ったまま、もう片方の手を自分の世界へ伸ばした。指先は何にも届かなかった。
町も森も山も、少しずつ遠ざかっていく。
胸を満たしたのは、帰りたいという願いだった。
ほかの言葉は出てこない。
「帰りたい……」
声は、自分の耳にかろうじて届いた。
第七十八世界の神々は、それを聞いていた。
返してやりたい。
そう願っても、手は届かない。自分たちが世界を守るために生み出した勇者が助けを求めているのに、その手を掴むことができなかった。
光が、かすみの身体を包んだ。
最後に見えたのは、青い空だった。
何度も見上げてきた空。これからも守っていくはずだった、自分の世界の空だった。
その景色が、白い光の向こうへ遠ざかっていく。
「……坊や」
自分でも知らない呼び名だった。帰りたいと願った瞬間、記憶より深い場所から、その言葉だけがこぼれた。
次の瞬間、世界が消えた。
目を開けると、知らない大地が広がっていた。
かすみは地面に倒れ込んでいた。
「……っ」
手をつくと、土の感触がした。吸い込んだ空気も、漂っている匂いも違う。
ゆっくりと顔を上げる。
知らない空が、どこまでも広がっていた。
「……ここ、どこ?」
答える者はいない。
遠くから、魔物の声が聞こえた。
かすみはしばらく動けなかった。
今すぐ、さっきまでいた場所へ帰りたかった。いつもの空と、知っている人たちの声を思い浮かべるほど、知らない世界の匂いと地面の硬さが恐ろしくなった。
そのとき、魔物の声に混じって人の気配を感じた。
息を殺す気配の向こうから、助けを求める声がした。かすみはそちらを見た。
身体はまだ震えていた。聖剣の柄を握る手にも力が入りにくい。胸元を探ると、革袋の固い輪郭と、身体へ結んだ紐が指に触れた。かすみは息を一つ吐き、聖剣を支えにして地面から立ち上がった。
ここがどこかも、帰る方法も分からない。それでも、目の前の声を無視して背を向けることはできなかった。
第百八世界の神々は、その少女を見つめていた。
自分たちの世界を守るために、別の世界から勇者を奪った。
十二歳の少女は、震える手で剣を持ち、助けを求める声へ歩き始めた。第百八世界の神々は、その背中を黙って見つめた。
同じ頃、第七十八世界にも朝が来ていた。
町も森も山も、かすみが最後に見た青い空も、昨日までと変わらずそこにあった。
その景色の中に、剣を振る少女の姿だけがなかった。




