第7話「百八の世界」
世界は一つではない。その事実を知る者は、ほとんどいなかった。
空と大地があり、朝には光が差し、夜には闇が訪れる。国や町や家の中で、誰かが生まれ、愛し、帰りを待つ。そこに暮らす者にとっては、足元にある場所こそが世界だった。
その外側には、互いに隔てられた百七の世界が存在していた。
ある世界では空に二つの太陽が昇り、ある世界では夜が昼より長い。海の底に街を築く者たちもいれば、巨大な森の中で何世代にもわたって暮らす者たちもいる。魔法というものを知らずに生きる者たちがいる一方で、魔法がなければ火を灯すことさえできない世界もあった。
人間が国を築く世界もあれば、人間以外の種族が大地を治める世界もある。歴史も文化も、生き方も違う。それでも、そこに生きる者にとって自分たちの世界がかけがえのないものであることに変わりはなかった。
失いたくない場所であり、誰かを愛し、誰かに愛される場所だった。
昔の神々は、世界と世界の間にあるものを恐れてはいなかった。境界がまだ弱く、神々はそれを越えることができたからだ。
別の世界から魂を呼び寄せ、そこへ転生させる。必要なら勇者を召喚し、自分たちの世界では対処できない危険な存在を別の世界へ追放する。
救い、守るための行為だと、神々は信じていた。
境界の向こうへ目を向けたとき、神々は初めて代償を見た。
勇者として別の世界へ呼ばれた者を、元の世界で待ち続ける家族がいる。突然、愛する者を失った人々がいる。ある世界から追放された災厄によって、それまでの平穏を奪われた別の世界もある。
英雄を迎える歓声の向こうで、帰らない者を待つ家族がいる。災厄が消えた土地の向こうでは、押しつけられた恐怖に別の世界が晒されていた。
神々はそこで手を止めた。救いと呼んだ行為が、誰かから日常を奪っていた。
一つの世界を救うために、別の世界から何かを奪う。代償を知った神々は、以前のように迷いなく境界へ手を伸ばせなくなった。
神々が選んだのは、世界と世界を隔てることだった。境界を築き、互いの都合だけでは越えられないようにした。
初めは薄かった境界も、千年、二千年と時を重ね、やがて神々でさえ容易には越えられないものになった。
世界は閉じられた。
そのために救えなくなった者もいた。届かなくなった声もあった。それでも神々は、その不自由を受け入れた。自分たちが正しいと信じるものだけで、他の世界の運命まで決めないためだった。
それぞれの世界には、そこにしかない日常がある。その日常を守る責任は、その世界の神々が負う。それが、長い年月の末に定められた原則だった。
そうして百八の世界は、互いに隔てられたまま、それぞれの世界として続いていった。
その一つが、第七十八世界だった。
第七十八世界にも町と家があり、人々の笑い声があった。その日常を、混沌の魔王が脅かしていた。
人々だけでは立ち向かえない脅威から世界を守るため、神々は一人の少女に願いを託した。十二歳の勇者、かすみだった。
かすみは腕が痛み、足が震えても剣を振った。この世界で生きる人々と、自分が大切に思う者へ手が届く強さを求めていた。
その姿を、第七十八世界の神々は見守っていた。
自分たちが守る世界に、自分たちが願いを託した勇者がいる。それは彼らにとって当然のことであり、かすみ自身も疑ってはいなかった。
ここが自分の世界なのだと思っていた。
この空も、この大地も、自分が守るべき場所なのだと。
同じ頃、第百八世界でも、神々は自分たちの世界を見つめていた。
そこでは魔物によって人々の暮らしが脅かされ、町が襲われ、多くの者が傷ついていた。守るべき者たちが助けを求めている。
第百八世界の神々もまた、世界を守ろうとしていた。
その思いだけなら、第七十八世界の神々と何も違わない。
第百八世界の神々も、自分たちの人々を救おうとしていた。しかし、魔物と戦い、地上を守り抜く力が足りなかった。
神々は自分たちの世界を見渡し、やがて、遠い昔から知っている一つの事実へ目を向けた。
世界は一つではない。
百八ある。
境界の向こうには別の世界があり、そこにも命があり、その命を守る神々がいる。
そして、勇者がいる。
神々は閉ざされた境界を見つめた。
何千年もの間、越えることを許されなかった境界だった。本来なら、手を伸ばしてはいけない。なぜ世界が分けられたのか、その理由も知っている。他の世界にも守るべきものがあり、それを自分たちの都合で奪えば、かつて神々自身が恐れた悲劇を繰り返すことになる。
第百八世界にも、守らなければならない人々がいた。
傷を負った者が家を失い、助けを求めながら、今日を生きようとしていた。
彼らを見捨てることもまた、第百八世界の神々にはできなかった。
神々はもう一度、自分たちの世界を見た。
そのあとで、境界の向こうへ目を向けた。
そこには、一人の少女がいる。
第七十八世界の勇者、かすみ。
境界が作られた理由を知りながら、第百八世界の神々は、かすみを求めた。正しさではなく、自分たちの世界を残すための選択だった。
その意思が、何千年もの沈黙を破った。
閉ざされていた境界へ、第百八世界の神々の力が触れる。
遠く離れた第七十八世界では、かすみがまだ剣を握っていた。
自分の世界を守るために。
第七十八世界の神々も、まだ知らない。
別の世界の神々が、自分たちの勇者へ手を伸ばしたことを。
互いを知らない二つの世界の間で、閉ざされていた境界が初めて揺れた。向こう側から伸びた手は、もう、かすみに届こうとしていた。




