第6話「ママが好き」
少年は、自分が生まれる前のことを何も覚えていなかった。どこで生まれたのか、誰に抱かれていたのか、その前にどんな場所で生きていたのか。そんなことを考えたことさえない。
物心がつくより前から、夢の中にだけ現れる温かい手があった。
夢の中で、ときどき誰かの手を握っている。自分の手よりずっと大きく、指を包むように握ってくれる手だった。その手に触れていると何も怖くなく、夢の中ではいつも安心していられた。
目を覚ますと、握っていたはずの指は消えている。誰の手なのかは分からず、少年は空になった手のひらを布団の中へ戻した。
今の母親に抱き上げられたときも、最初は同じように安心した。小さな身体を腕の中へ預けると体温が伝わってくる。胸に耳を当てれば規則正しい音が聞こえ、それを聞いているうちに眠くなった。
「眠いの?」
母親が笑う。
少年は返事をする代わりに、母親の服をぎゅっと握った。それが嬉しかったのか、母親はしばらく彼を抱いていた。少年はその腕の中で眠った。
その腕の温かさを知っていたから、叩かれた夜にも母を嫌いにはなれなかった。
いつからか、抱き上げてもらえることが少なくなった。母親は忙しくなり、朝、少年が目を覚ます頃にはもう家を出ている。夜になって帰ってきても、疲れた様子で靴を脱ぎ、少年に気づくと小さく笑うだけだった。
「ただいま」
「おかえり、ママ」
それだけで終わる日もあった。
少年は母親の後ろをついて歩いた。話したいことはいくつもあった。昼間に見つけたもの、庭で転んだこと、上手に絵が描けたこと、今日覚えた言葉。
「ねえ、ついてこないで」
振り返った母親の顔には、笑みがなかった。
「ママに、お話が……」
「今はあなたの相手までしていられないの。少しは一人でいて。邪魔しないで」
少年は廊下で足を止めた。母親は荷物を置き、着替えを持って自分の部屋へ入った。閉じた扉の前で待っても、もう一度開くことはなかった。
食事が用意されていない夜も増えていた。少年は台所の棚を開け、残っていたパンを一枚だけ食べた。手の届かない場所にあるものは諦め、水を飲んで空腹を紛らわせた。
脱いだ服が何日も籠に残り、同じ服を着ることもあった。髪が伸びても、爪が汚れても、母親は気づかなかった。朝から夜まで一人で待ち、母親が帰らないまま眠る日も珍しくなくなった。
それでも帰宅の音がすれば、少年は玄関へ走った。
ある夜、母親が布団を整えている背中へ、少年は何度か口を開き、ようやく声をかけた。
「ママ」
「なに?」
「……だっこして」
母親の手が止まった。一瞬だけ少年を見て、それから困ったように笑う。
「もう一人で寝られるでしょ?」
少年は答えなかった。
「今日は疲れてるの。早く寝なさい」
「……うん」
少年は布団へ入り、母親が部屋を出ていくのを見送った。扉が閉まる音を聞いてから、布団の中で自分の手を握ってみる。
温かくなかった。
しばらくして眠りに落ちると、夢の中にはまた、あの手があった。
大きくて、温かい手。
少年が指を伸ばすと、その手が優しく握り返してくれる。その夜は、それだけではなかった。誰かの腕に抱かれ、頬には柔らかな温もりが触れていた。何かを話しかけられているような気がする。声は聞こえず、顔も見えない。それでも、そこにいるだけで安心できた。
少年はその胸元へ顔を埋めた。
「……ママ」
そこで目が覚めた。
暗い部屋だった。
少年はしばらく天井を見つめた。頬には夢の温もりが残っているのに、隣の布団には誰もいなかった。
布団から手を出してみても、指先に触れるのは冷たい空気だけだった。
「……ママ?」
小さく呼んでみたが、返事はない。少年は少し待ってから、自分で布団をかけ直した。
次の日も、その次の日も、母親は忙しかった。
少年は何度か抱っこを頼み、何度か一緒に遊ぼうとも言った。そのたびに母親は困った顔をした。
「また今度ね」
その「今度」がいつなのか、少年には分からなかった。
少年は尋ねなかった。困った顔をされると、その先の言葉が出なくなった。
代わりに、母親が出かけるときには玄関まで見送りに行った。
「行ってらっしゃい」
……返事はない。
扉が閉まっても、少年はその場に立ったまましばらく動かなかった。母親の姿が見えなくなった玄関には、まだ母親の匂いが残っている。
少年はその場所にしゃがみ込み、床を指でなぞった。それから何事もなかったように立ち上がった。
ある日、母親は帰ってこなかった。
夜が明けても、その次の夜が来ても、扉は開かなかった。
少年は玄関の近くで待った。扉の向こうで足音がするたびに顔を上げても、扉は開かない。
やがて日が暮れ、部屋が暗くなった。少年は自分で灯りをつけ、一人で食事をした。一人で食器を片づけ、それから布団へ入った。
「ママ……」
呟いても、返事はない。
少年は目を閉じた。
あの夢を見られるように、少年は両手を胸元で重ねた。夢の中なら誰かが握り、抱きしめ、どこへも置いていかなかった。
やがて眠りに落ちると、暗闇の向こうに温かな手が現れた。
少年は迷わず、その手を握った。小さな指で、一つずつ確かめるように触れていく。
温かい。
指を包まれると、強張っていた肩から力が抜けた。
少年はその手に頬を寄せた。
「……ママ」
夢の中の誰かは何も答えなかった。
少年は手に頬を寄せ、指を握ったまま目を閉じた。
朝になって目を覚ます頃には、夢のことをほとんど覚えていなかった。ただ、手のひらに残ったような温もりだけが、なぜか消えずに残っていた。
少年は起き上がり、窓の外を見る。
今日も母親は帰ってこないかもしれない。
母を嫌うということを、少年はまだ知らなかった。ただ、帰ってきてほしかった。
帰ってきたら話をしたい。一緒にご飯を食べたい。できれば、もう一度だけ抱っこしてほしい。
少年が望んでいたのは、それだけだった。
胸元へ小さな手を当てる。
「……ママが好き」
返事のない部屋で、少年は玄関の扉が開く音を待った。胸元の手には、夢で包まれた温もりがまだ残っていた。




