第5話「勇者の願い」
神々の加護を受け、勇者として転生した侯爵夫人は、父から「かすみ」と名づけられた。
それは、かつて父と共に戦い、この世界を救った聖女の名だった。
幼い頃のかすみは、決して何でも器用にこなせる子供ではなかった。木剣を握って庭を走れば足をもつれさせ、父に教わった構えを真似しようとして、そのまま地面へ尻もちをつく。弓を引けば腕が震え、魔力を集めようとすれば集中しすぎて頭が痛くなった。泣く代わりに土を払い、落とした木剣を拾った。
「もう一回」
そう言うたび、父は困ったように笑った。
「少し休んでもいいんだぞ」
「ううん。もう一回やる」
父や母の姿が見えなくなると、理由もなく胸がざわついた。何を恐れているのか、幼いかすみには分からない。ただ、大切なものへ手が届かなくなることだけは嫌だった。
母に抱きしめられたあとも、父に頭を撫でられたあとも、かすみはその手の感触を長く覚えていた。三人で食卓を囲む時間が終わると、翌朝にはまた木剣を拾った。いつか、自分の手でこの暮らしを守れるようになりたかった。
七歳の誕生日の夜、父はかすみを自分の部屋へ呼んだ。机には古い弓と、何かの術式が組み込まれた革袋が置かれていた。
父は袋の紐へ触れたまま、遠い日を見つめるように目を細めた。
森を押し潰して進む混沌の魔王。傷ついた指で杭を押さえ、光の中央で祈り続けた少女。帰りたいと泣きながら、それでも誰も置いていかなかった聖女かすみ。
彼女が生涯を終えたあと、父は仲間たちと遺品を分けた。役目の分かる聖具や書物は神殿へ渡ったが、黒い板だけは誰にも扱えなかった。
光も音も失ったそれを、父は彼女が何度も胸へ抱いた姿を覚えていた。だから、捨てさせず、自分が贈った革袋ごと引き取った。
その品を娘へ渡す日が来るとは思っていなかった。
かすみが生まれた夜、窓を満たした神々の光が父へ告げた。かつて五人で封じた混沌の魔王は、いつか再び地上へ現れる。そのとき魔王を倒す勇者は、彼の娘だと。
父は革袋から黒い板を取り出した。傷のない表面に、幼いかすみと自分の顔が重なる。
「これは、昔、父さんと一緒に戦った人のものだ」
かすみは両手を差し出した。載せられた黒い板は、見た目より重く、冷たかった。
「何に使うの?」
「分からない。けれど、あの人が何より大切にしていた」
父の指が黒い板の縁を一度なぞり、離れた。
「お前がこれを使う日が来るのかも、私には分からない。ただ、お前に持っていてほしい」
かすみは黒い表面を覗き込み、そこに映った父の顔を見てから、革袋へ戻した。
「じゃあ、大事にする。父さんと、その人のぶんまで」
父は返事の代わりに、かすみの頭へ手を置いた。その手がわずかに震えている理由を、幼いかすみは尋ねなかった。
剣を一度、二度、三度と振る。腕が重くなっても繰り返し、父に教わった型を覚えながら、少しずつ身体の使い方を身につけていった。剣だけでは足りないと思えば槍を学び、遠くにいる誰かを守るには弓も必要だと考えれば、今度は弓を手に取った。
近づけない相手には魔法を使う。傷ついた人がいれば治癒を施す。力だけでどうにもならないものに出会えば、別の方法を探す。一つ覚えるたび、それまで知らなかった世界が広がっていくことが、かすみには楽しかった。
訓練を終えて一人になると、今度は部屋の中が急に広く感じられた。
夜、窓の向こうに月が見えている。かすみが布団の中で目を閉じると、いつもの夢が現れた。
誰かの手だった。
自分の手より小さく、とても温かい。指を重ねると、胸のざわつきが静まった。顔は見えず、声も聞こえない。目を覚ますたび、手の中から失われた温もりを探した。
「……誰なんだろう」
答える者はいなかった。かすみは布団の中で自分の手を握り、夢の温もりが消えるまで指を開かなかった。
いつからか、眠る前には祈るようになった。
「神様」
眠った家族を起こさないよう、囁く声で呼びかけた。
「もし、本当にいるなら……お願いがあります」
初めは、何を願えばいいのか分からなかった。同じ夢を見るたび、目覚めた手の中には何もない。その夜も両手を重ねているうちに、ようやく言葉が出た。
「私には、会いたい人がいます」
どこにいるのかも、名前も分からない。ただ、会いたかった。
「その人が、元気でいますように」
かすみは両手を合わせた。
「できれば……いつか会えますように」
強さも特別な力も願わなかった。名も知らない誰かが、どこかで生きていること。それだけを祈った。
月日が流れ、かすみの身体も大きくなっていった。手にしていた木剣は本物の剣へ変わり、父や師匠たちから教えを受けながら、実戦を想定した訓練もするようになった。弓の扱いにも慣れ、槍を振れば風を切る音も幼い頃とは違う。
魔力の扱いも覚えた。最初は小さな火を灯すことしかできなかった魔法が、やがて複雑な術式へ変わっていく。治癒の術も学び、傷を塞ぐこと、痛みを和らげること、失われた力を回復させることまで身につけていった。
剣を収める判断も、傷ついた者のそばに膝をつくことも、かすみにとっては力の使い方だった。倒す以外の道を選べるように、武器も魔法も治癒も、一つに絞らず学び続けた。
成長するにつれ、父はこの世界に伝わる神器や宝具を、少しずつかすみに託していった。どれも長い年月を経て残された品で、剣や武具、装身具など形も役目も異なっていた。父は使い方まで決めなかった。ただ、勇者として力を身につけていく娘なら、いつか自分で答えを見つけると考えていた。
十二歳になる頃には、周囲の大人たちでさえ息を呑むほどの力を身につけていた。
それでも訓練を終えるたび、かすみは刃を見つめた。この手が届かなかったとき、目の前の命を守れるのか。その問いにだけは、どの師も答えをくれなかった。
かすみは父から託された品だけでなく、この世界で得た宝具や武具、自らに宿る加護を一つずつ確かめ、その力を知っていった。
やがて勇者としての力が深まるにつれ、それまで別々にあった宝具・武具・加護などの力が、かすみの手の中で一つへ重なり始めた。光が収まったとき、そこには一振りの剣が残っていた。
父はその剣を見つめ、しばらく何も言わなかった。
かすみは柄を握り、刃へ目を落とした。父から託されたものも、この世界で学んだものも、失われたわけではない。一振りの中で、それぞれの力が確かに息づいていた。
それが、かすみの手で生まれた第七十八世界の聖剣だった。
ある夜、かすみは一人で祈った。
「神様」
月明かりの中で両手を合わせる。
「私、もっと強くならないと駄目なのかな」
しばらく待ってみても、返事はなかった。
「……そうだよね。まだまだだもんね」
かすみが苦笑したとき、月明かりとは違う光が部屋に満ちた。白い壁や寝台の縁が淡く浮かび、その光に触れた肌だけが、以前から知っていたもののように温かかった。
かすみは息を止めた。
「……神様?」
光が揺れた。
『あなたの願いは、届いています』
かすみは重ねた両手をほどけなかった。何年も続けた祈りに、初めて声が返ってきた。
『あなたが会いたいと願う魂は、今もこの世界にあります』
胸の奥で鼓動が跳ねた。
「……生きてるの?」
『はい』
その一言を聞いた途端、視界が涙で滲んだ。かすみは濡れた目元を拭うこともせず、息を吐いた。
「よかった……」
声にすると、肩から力が抜けた。
神々は、その魂に「器の加護」が与えられることも告げた。生まれ持った力に閉じ込められず、学び、経験し、誰かと出会うたび、その先へ成長できる加護だった。
かすみは黙って聞いていた。
「じゃあ……強い人になるのかな」
『それは、その魂が決めることです』
もし強くなってくれたら、きっと嬉しい。自分と同じように戦えるようになれば、いつか再会したとき、一緒に歩くこともできるかもしれない。そこまで考えたところで、かすみは首を横に振った。
「……ううん。強くなくてもいい」
神々の光が静かに揺れる。
「ちゃんと生きていてくれるなら、それでいいです」
口にしたあとも、その答えを言い直そうとは思わなかった。
「私は、その人に強くなってほしいんじゃない」
かすみは胸の前で手を握り、少しだけ間を置いた。
「笑っていてほしい」
顔も声も思い出せない。笑っていてほしいと口にした願いだけは、揺れなかった。
「ご飯を食べて、眠って、誰かと笑って……ちゃんと毎日を過ごしていてほしい」
言い終えると、握りしめていた指から少しずつ力が抜けた。
「そして、もし本当に会えるなら……そのときは、私がちゃんとその人を守れるようになっていたい」
神々は何も言わなかった。
淡い光が、かすみの身体を包んでいく。熱はない。皮膚の下へ染み込むたび、剣を握る腕にも、魔力を巡らせる身体にも、新しい力が満ちていった。
光の中で、かすみはもう一度祈った。
「神様。どうか、あの人が元気でいますように」
重ねた指へ、もう一度力を込めた。
「そして……いつか、会えますように」
やがて光は消え、部屋に夜が戻った。かすみは窓辺まで歩いて月を見上げた。
遠いどこかで、まだ名も知らない誰かが生きている。かすみは月を見たまま、声にした。
「いつかね」
翌朝、かすみはいつものように剣を取った。柄を握る手には、夢の中で触れた小さな手の温もりが、まだ残っていた。




