第4話「勇者かすみ」
目を開けた。
――そう思った。
けれど、そこには瞼もなければ身体もなかった。
どこまでも白い。上も下も分からず、足元を確かめようとしても足はなく、手を伸ばそうとしても手はない。それでも、自分がここにいるということだけは分かった。
白い空間には何もない。それなのに、自分の中に残された記憶だけが、輪郭を失わずに浮かんでいた。
悲しい。
その言葉が浮かぶより早く、途切れていた記憶が押し寄せた。
夜。暗い廊下。自分を呼ぶ小さな声。腕の中から奪われていった身体。届かなかった指先。
目の前に残された息子の遺体。冷えきった小さな手を握り、名を呼び続けた。やがて叫び声だけが残り、自分が何をしているのかさえ分からなくなった。
「……あの子は?」
声が出た。
声が白い空間へ響いたとき、自分がもう死んでいることを知った。
白い空間の向こうに、いくつもの光が浮かんでいた。光はゆっくりと輪郭を持ちはじめ、やがて人の姿となって女の前に立つ。
神々だった。
それが神々だと分かっても、女の目は彼らの顔を追わなかった。
「あの子は……?」
一歩も動けないまま、女はもう一度尋ねた。
神々はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで分かってしまった。
本当は、もう分かっていた。あの夜、最後に握った手は冷たく、どれほど呼んでも目を開けなかった。誰かに、違うと言ってほしかった。
「あの子は……」
言葉が続かなかった。
もう動かない。もう笑わない。
その事実だけが、遅れて胸の中へ沈んでいく。
「……そう、ですか」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
涙は出なかった。胸元へ手を当てようとして、手も胸も、鼓動さえないことを思い出す。内側を引き裂く痛みだけが、死ぬ前と少しも変わらず残っていた。
もっと早く気づいていれば。
もっと強ければ。
もっと、あの子を離さなければ。
考えるたびに、あの夜が鮮明になる。
伸ばされた手と、一本ずつ離されていった指。最後まで残った小指。そして、冷えきった小さな手を握りながら、何もできなかった自分。
「……ごめんね」
返事のない白い空間に、自分の声だけが残った。
神々は何も言わない。女は顔を上げられず、もう一度、小さく唇を動かした。
しばらくして、一柱の神が口を開いた。
「あなたに、お願いがあります」
女はゆっくりと顔を上げた。
その言葉とともに、白い空間へ地上の景色が浮かび上がった。
森、街、村。そこに暮らしていた人々。
けれど、穏やかな景色はほとんど残っていなかった。大地は枯れ、人々は住んでいた場所を捨てて逃げている。崩れた家のそばで泣く者がいて、傷ついた者を背負って歩く者もいた。
その中に、一人の子供がいた。
泣きながら母親の手を握っている。
母親はその子を抱きしめ、何かから守ろうとするように背中を丸めていた。
女の視線が、そこで止まった。
見知らぬ親子だった。
それなのに、目を逸らすことができなかった。
あの子にも、こんな小さな手があった。
自分の指を握るだけで精一杯だった、小さな手。
「混沌の魔王によって、この世界は壊れ始めています」
神の声がした。
「私たちは、地上へ直接降りることができません」
女は何も答えなかった。
神々の言葉の先にある役目を、女はようやく察した。
「だから、私が代わりに……?」
「はい」
短い返事を聞いても、女は地上を見つめたまま動けなかった。息子一人を守れなかった自分に、差し出せるものなどない。
あの夜、自分にできたのは抱きしめることだけだった。手を伸ばし、離さないようにすることだけだった。それさえ最後には叶わなかった。
そんな自分が、今度は誰かを守る。
ひどく遠い話のように思えた。
「……私には、無理です」
声にしたことで、その拒絶が自分のものになった。
神々は否定しなかった。
「なぜ、そう思うのですか」
「私は……」
言葉が止まった。
逃げたかったわけではない。
守りたかった。
何があっても、自分の腕の中に置いておきたかった。
それでも、守れなかった。
「大切な人を、たった一人を守れなかったからです」
言葉のあとに、離れていった指の感触がよみがえった。
もし、もう一度あの夜へ戻れたなら。
もし、あと少しだけ力があったなら。
もし、自分がもっと強かったなら。
考えても何も変わらない。分かっていても、あの夜にできたはずのことを一つずつ数えるのをやめられなかった。
神々は何も言わなかった。
女もしばらく黙っていた。
やがて、もう一度地上へ目を向ける。
逃げる者の手を別の誰かが引き、傷を負った者が、倒れた隣人の肩を支えていた。
そして、子供を抱きしめる母親がいる。
女はその姿を見つめた。
また失うかもしれない。伸ばした手が、今度も届かないかもしれない。その怖さを抱えたまま、女は子供を抱きしめる母親を見つめ続けた。
「あの人たちにも、大切な人がいるんですよね」
「はい」
「だったら……」
女は言葉を探した。
腕の中の子供へ回された母親の手に、あの夜の自分の手が重なった。このまま世界が壊れれば、同じように子供を奪われる者が増えていく。女は白い景色の中にいる親子から、目を離さなかった。
「……私と同じ思いをする人を、増やしたくありません」
声は震えていた。
今度は、言葉を引っ込めなかった。
「私があの子を守れなかったことは、たぶん、これからもずっと消えません」
女は地上を見たまま続ける。
「だから……せめて、これから守れる人がいるなら」
ほんの少しだけ、笑った。
「その人を守りたいです」
神々の光が静かに揺れ、女の輪郭を淡く照らした。
けれど、女の中には一つだけ、どうしても消すことのできない願いが残っていた。
しばらく迷ってから、神々へ尋ねる。
「……あの子は?」
「あなたの息子も、すでに新しい生を歩むことが決まっています」
その言葉を聞いた瞬間、女は息をすることさえ忘れたように動かなくなった。
「……本当に?」
「はい」
「……会えるでしょうか」
「その可能性はあります」
女は目を閉じた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「だったら……いつかあの子に会いたい。もう一度、あの子を愛したい。あの子のために生きたい。今度こそ守れる力が欲しい」
「……一生を、あの子に捧げたい。たとえ世界を敵に回しても、あの子と一緒に生きられるなら、それ以外は何もいりません」
あの小さな手を、もう一度握りたい。冷たい手ではなく、温かい手を。
それが母親としての、最後の願いだった。
神々から淡い光が降りてくる。
光は女の魂を包み、白い空間が少しずつ遠ざかっていった。
女は、その光の中で一度だけ振り返った。
もう何もない。
掌のない場所へ、小さな手が重なったような気がした。
かつて自分の指を握り、「あったかい」と笑ってくれた手。
「……大きくなってね」
一度、言葉が途切れた。
「ママも、頑張るから」
その言葉を最後に、女の魂は白い空間から消え、新しい命へ向かっていった。
遠い世界のどこかで、一人の女の子が産声を上げた。
新しい人生に与えられた名は――かすみ。
息子を抱いた記憶は失われても、小さな手を求める願いは、新しい命の奥に残っていた。




