第3話「魔王復活」
世界のどこかで、一匹の鹿が走った。
深い森だった。王都から遠く、人の足がほとんど入らない場所に古い木々が立ち並び、その枝葉の下では獣や鳥、魔物たちがそれぞれの暮らしを続けている。朝の光が葉の隙間から細く差し込み、風が枝を揺らしていた。いつもと変わらない森の朝だった。
鹿が突然、顔を上げた。耳が何もない空間へ向き、前脚が落ち葉を掻く。次の瞬間、鹿は身を翻して走り出した。
一匹が駆け出すと、群れも後を追った。枝の上にいた鳥たちが一斉に羽ばたき、草むらに潜んでいた小さな獣たちも姿を消していく。縄張りを争っていた魔物たちまで互いへの威嚇をやめ、同じように森の外を目指した。
鳴き声の消えた森には、踏み荒らされた草と揺れる枝だけが残った。
しばらくして、大地が揺れた。
地面に細い亀裂が走り、その隙間から黒い魔力が滲み出した。煙のように揺らめきながら地を這い、草の葉へ触れる。触れられた草は少しずつ色を失い、木々は枝を軋ませた。長い年月をかけて根を張った大樹からも葉が落ち始め、朝の光を受けていた森の緑が静かに失われていった。
その向こうから、一つの影が歩いてくる。
人の形をしていたが、人ではない。
影が近づくにつれて空気が重くなり、逃げ遅れた魔物たちは身を伏せた。普段なら自分より大きな相手にも牙を剥く獣でさえ、その場で身体を震わせるだけだった。
影は彼らへ目を向けなかった。
枯れていく木々の間を、影はゆっくり進んだ。ときおり足を止め、木々の向こうへ顔を向ける。
やがて木々の向こうに、小さな村が見えてきた。
畑では農夫が土を耕し、家々の間を子供たちが走っている。母親が子供を呼ぶ声が聞こえ、それに誰かの笑い声が重なった。
その声が届いたところで、影の足が止まった。
遠くから村を見つめる。
畑で鍬を振るう者がいる。開け放した窓の向こうでは家族が食卓を囲み、遊び疲れた子供が親の手を握って歩いていた。どこにでもある朝が、そこには続いていた。
影は動かず、村の朝を見つめていた。
やがて村人の一人が、その姿に気づいた。
「……何だ、あれ」
声を聞いた者が振り返り、その隣にいた者も同じ方角を見る。一人、また一人と視線が集まり、村にざわめきが広がっていった。
影が歩き出した。
ゆっくりと近づいてくるだけだった。それなのに、村人たちは誰に言われるまでもなく後ずさった。
「逃げろ!」
誰かの叫びをきっかけに、人々が一斉に動いた。母親たちは子供の手を取って家へ走り、父親たちは家族を庇うように前へ出る。転んだ子供を近くにいた大人が抱き上げ、あちこちから泣き声が聞こえ始めた。
影は走らなかった。
村の入口まで歩き、そこで足を止める。
その視線の先に、子供を抱いた母親がいた。
母親は怯えながらも、腕の中の子供を胸へ強く抱き寄せている。影の視線は母親の腕から、服を掴む子供の小さな手へ移った。戸を閉める音と泣き声が続くあいだも、その顔は動かなかった。
やがて口から小さな声が漏れた。
「……どうして」
問いかけられた者はいない。村人たちは、その一言の意味も分からないまま息を詰めていた。
影が手を上げた。
大地が震え、畑に亀裂が走った。土が大きく盛り上がり、家々の壁が軋み、窓ガラスが砕ける。地面を走った黒い魔力が畑へ入り込むと、実りかけていた作物から色が失われ、周囲の木々にも同じ変化が広がっていった。
悲鳴を上げながら、人々が逃げていく。
影は追わなかった。
壊れていく村を前にしても、その表情は動かなかった。逃げていく親子の背へ一度だけ目を向け、それから目を伏せた。
影はそれ以上手を上げず、村に背を向けた。足音が遠ざかったあとには、色を失った畑と傾いた家々が残された。
それを境に、世界の各地で異変が起こり始めた。
森が枯れ、川の水が濁った。山に棲んでいた魔物たちは住処を捨て、人の暮らす土地にも得体の知れない魔力が流れ込む。逃げ遅れた者は倒れ、家を失った者たちは別の土地を求めて歩き始めた。
その被害を受けたのは、人間だけではなかった。魔族も獣も魔物も、その力から逃れることはできない。敵であるか味方であるかにかかわらず、生命のある場所へ等しく力は届き、森も川も畑も、そこに暮らす者たちも少しずつ傷ついていった。
やがて人々は、その存在を一つの名で呼ぶようになった。
混沌の魔王。
かつての魔王たちは国を奪い、人を従えようとした。混沌の魔王は命令も要求も口にしない。ただ世界を歩き、その力が及んだ場所を壊していった。
何を求めているのか。何を憎んでいるのか。それを知る者はいなかった。
人々が恐れたのは、目の前に現れる魔王の力だけではなかった。
あれが世界にいる限り、世界そのものが静かに壊れていく。
その様子を、遥かな場所から見つめる者たちがいた。
昼も夜もなく、風も音もない白い空間。そこは神々のいる場所だった。
地上の景色が映し出されている。枯れた森、濁った川、住む場所を失って逃げる人々。その中を、一つの影が歩き続けていた。
神々は黙ってそれを見ていた。
やがて、一柱が口を開く。
「……止められないのですか」
すぐに答える者はいなかった。
神々は地上へ降りることができない。どれほど大きな力を持っていても、世界そのものに定められた境界を越えることは許されておらず、それを破れば、この世界の形そのものが崩れてしまう。
地上では、人々が逃げていた。
母親が子供の手を握り、父親が家族を庇っている。傷ついた者へ別の誰かが手を伸ばし、恐怖に震えながらも誰かを置いていこうとはしない。壊れていく世界のあちこちに、そうした営みがまだ残っていた。
一柱の神が、その光景を見つめた。
「……まだ、終わっていない」
別の神が静かに尋ねる。
「では、どうするのです」
しばらく言葉が途切れた。
境界を越えられない神々に残された道は、地上にいる者へ力を託すことだけだった。
「地上にいる者へ、我々の力を……」
その言葉に、異を唱える神はいなかった。
白い空間には、いまも地上の光景が映っていた。
神々は、その一つ一つを見渡した。
泣く者、戦う者、誰かを守ろうとする者。そして、すでに生を終えた者。神々の意識は、生と死の境にある無数の魂へ広がっていった。
その中に、冷たい小さな手を最後まで離さなかった女の魂もあった。




