第2話「奪われた息子」
その夜も、いつもと変わらない夜だった。
夕食を終えると、母親は眠そうにしている息子の手を引いて部屋へ戻った。昼間、庭を歩き回った疲れが残っていたのだろう。少年はベッドへ入るとすぐに欠伸をした。それでも眠る前には母親の顔を見上げ、いつものように小さな声で呼んだ。
「ママ」
「なに?」
「寝るまでいて」
「ええ」
母親はベッドの脇に椅子を置いた。少年は布団へ潜り込み、目を閉じる。髪を撫でているうちに、ほどなく穏やかな寝息が聞こえてきた。昼間は庭を歩き回っていた少年も、いまは母親の手の下で静かに眠っている。
母親はしばらくその顔を眺め、頬へかかった髪をそっと払った。
「おやすみ」
少年は答えない。母親は立ち上がり、音を立てないように部屋を出た。
廊下にはいくつかの灯りが残されていた。窓の外には月が浮かび、庭を薄い銀色に照らしている。屋敷の中もすでに眠りにつく時間を迎え、昼間には絶えず聞こえていた人の声もなくなっていた。
その静けさの中で、何かが倒れる音がした。
母親は足を止め、耳を澄ませた。それきり音は続かない。誰かが物を倒しただけだろうと歩き出しかけたとき、遠くで短い悲鳴が上がった。
振り返る。
今度は聞き間違いではなかった。複数の足音が廊下を走り、怒鳴り声がそれを追う。さらに別の声が重なり、つい先ほどまでの静けさを踏み散らしていった。
「何が……」
喉の奥がひきつり、息を呑んだ。確かめに向かうという考えは浮かばない。母親は来た道を、息子の部屋へ向かって駆け戻った。
扉を開けると、少年はまだ眠っていた。
母親はベッドへ駆け寄り、その身体を抱き上げる。
「起きて」
少年がゆっくりと目を開けた。
「……ママ?」
「大丈夫よ」
声の震えを悟られまいと、母親は唇を噛んだ。
「ママがいるから」
何が起きているのか分からない少年は、眠そうな目で母親を見つめ、その首へ腕を回した。
廊下から足音が近づいてきた。一人ではない。
母親は少年を抱く腕に力を込めた。
足音が扉の向こうで止まる。
次の瞬間、扉が開いた。
見知らぬ男たちが入ってきた。
「来ないで……!」
母親は少年を抱いたまま反射的に後ずさった。男の一人がこちらへ手を伸ばしたため、少年を自分の背中へ隠す。
「何をするつもりなの?」
返事はなかった。
男は足を止めず、さらに近づいてくる。母親は距離を取ろうと後ろへ下がったものの、やがて背中が壁に触れた。それ以上は下がれない。
少年が母親の服を強く掴んだ。
「ママ……?」
「大丈夫」
母親は振り返り、少年の顔を見た。
「大丈夫だから」
少年の背を撫でようとした指が震え、服の上で止まった。
男の手が伸びてくる。母親は少年を抱き直し、その身体を胸へ押しつけた。
「この子には触らないで!」
伸ばされた腕を必死に振り払おうとしたものの、力では敵わなかった。腕を掴まれ、引かれる。
「離して!」
少年が泣き始めた。
「ママ!」
「大丈夫だから!」
母親は少年を抱いたまま逃れようとする。
「怖くないからね。ママがいるから……」
少年は母親の服を握り、母親も少年を離さなかった。男たちの目的は分からない。背へ回した腕をきつく締め、服を掴む小さな指の感触だけを離すまいとした。
別の男の手が少年へ伸びた。
「嫌!」
咄嗟に身体を捻った拍子に、少年の身体が腕から滑りかけた。母親は慌てて抱き直そうとしたが、その腕を掴まれる。
ほんの一瞬だった。
少年の身体が、母親の腕から引き離された。
「いや!」
母親は手を伸ばした。少年も泣きながら母親へ手を伸ばしている。
「ママ!」
伸ばした指先が触れた。
母親はその小さな手を掴んだ。ほんの一瞬、それでも確かに握ることができた。
「離さないで!」
母親は叫び、少年の手を握りしめた。
男の手がその指を一本ずつ引き離していく。
「お願い……!」
最後に残ったのは小指だった。
昼間、約束を交わした小指。
それも離れた。
少年が遠ざかっていく。
「ママ!」
「待って!」
母親はもう一度手を伸ばした。少年もこちらへ手を伸ばしている。指先ほどだった隙間が一歩、二歩と広がり、手は届かなくなった。
「ママ!」
「ここにいる!」
少年を連れ去った男たちの足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。母親はすぐに部屋を飛び出し、そのあとを追った。
何度も息子を呼んだ。返ってくるのは泣き声だけだった。
廊下を曲がり、階段を駆け下り、扉を押し開ける。走っても足音は遠ざかり、息を吸うたび胸が痛んだ。息子を呼ぶ声も掠れていく。
「待って……!」
少年の泣き声だけを頼りに、母親は走り続けた。
やがて、その声が途切れた。
母親の足も止まった。
少し前まで響いていた泣き声が、どこにもない。母親は荒い息のまま、廊下の左右を見回した。
「……どこ?」
返事はない。
「ねえ……」
耳を澄ませても、あの泣き声は聞こえなかった。
母親は再び歩き出した。廊下を抜け、屋敷の外へ出ると、月明かりが地面を白く照らしていた。
その先に、何かが見えた。
足が止まる。
月明かりの中に、小さな輪郭が伏していた。母親は一歩、また一歩と近づき、見覚えのある衣服に気づいた。
膝から力が抜けた。
「……え?」
そこにいたのは、息子だった。
少年は地面に横たわっていた。
母親は駆け寄り、その傍らに膝をついた。
「ねえ」
肩へ触れる。
動かない。
「起きて」
もう一度、身体を揺らす。
それでも動かない。
「ねえ……」
母親は少年を抱き起こし、腕の中へ収めた。
いつもなら、眠くなると首へ腕を回して頬を肩へ寄せてくる。抱き上げれば何の疑いもなく身体を預け、母親が歩くたびに小さな重みが腕の中で揺れていた。
今は何も返ってこない。
「……どうして?」
震える指で少年の頬へ触れた。
冷たかった。
指が止まる。
「……嘘」
母親は首を振った。
「嘘よ」
もう一度、頬へ触れる。
やはり冷たい。
母親は少年を強く抱きしめた。
自分の背後の気配も痛みも、そんな事など、どうでもよかった。
「起きて……お願いだから……」
何度名前を呼んでも、少年は目を開けなかった。眠っているときと変わらない顔をしている。その顔を見つめているうちに、昼間のことが一つずつ浮かんできた。
庭で花を見ていたこと。自分の手を握って「ママの手」と言ったこと。「あったかい」と笑ったこと。小指を絡めて、約束したこと。
母親は少年の手を探した。
見つけた小さな手を、両手で包む。
冷たい。
昼間、この手は確かに温かかった。握り返せば握り返してくれた。小さな指には柔らかな丸みがあり、自分の指を離すまいと一生懸命に力を込めていた。
母親はその手を自分の頬へ押し当てた。
「……ごめんね」
涙が落ちた。
「ごめんね……」
何度謝っても返事はなかった。視界の縁が暗くなり、指先の感覚が薄れても、母親はその手を離せなかった。
「ママ、ここにいるよ」
届くはずのない言葉を繰り返す。
「ずっといるから……」
母親は少年を抱きしめた。
月明かりが二人を照らし、冷たい夜風が吹き抜けていく。母親の呼吸は浅くなり、少年を抱く腕にも力が入らなくなっていた。それでも、その身体を地面へ戻そうとはしなかった。
やがて身体がゆっくりと傾き、そのまま少年の隣へ倒れ込んだ。
最後に感じたのは、冷たい小さな手だった。
母親は残された力でその手を握り、指を絡めた。
昼間と同じように。
少年が握り返すことはなかった。
母親は涙に濡れた顔を少年へ寄せる。
「……大好きよ」
掠れた声に、答えはなかった。
母親の目が閉じても、その手は最後まで少年の手を握っていた。
月明かりの下で、二人は寄り添うように横たわっていた。昼間と変わらない噴水の音が、握り返されない手のそばまで届いていた。




