第1話「小さな手」
約百年前。
王都から少し離れた場所に、一軒の侯爵邸があった。白い石造りの壁に囲まれた広い庭には季節の花々が植えられ、中央では古びた噴水が静かに水を落としている。
朝になれば鳥の声が聞こえ、昼には木々の葉が風に揺れ、夕暮れには西の空から差し込む光が庭を淡く染める。侯爵家としては、ごくありふれた穏やかな暮らしだった。
屋敷には、一人の母親と幼い息子が暮らしていた。
少年はまだ幼く、自分の身の回りにあるものをほとんど知らない。花の名前を教えてもらえば、分かった顔で頷く。次に同じ花の前を通る頃には、もう一度その名を尋ねた。新しいものを見つけるたびに目を輝かせ、母親のところへ駆けていった。
その日も少年は部屋の床に座り、積み木を一つずつ積み上げていた。高くなるにつれて顔は真剣になり、最後の一つを乗せようとした瞬間、それまで積み上げてきたものが崩れ落ちた。少年は散らばった積み木の中から一つを拾い、何事もなかったようにまた積み始める。
扉が開き、母親が部屋を出ようとした。
「ママ」
呼ばれて、母親が振り返る。
「どうしたの?」
「どこ行くの?」
「お庭に行こうと思っているの」
「ぼくも行く」
母親は微笑み、少年の前まで戻ってくると、いつものように手を差し出した。少年はその手を見るなり嬉しそうに笑って自分の手を重ねる。大人の手の中に小さな手が収まり、二人は並んで部屋を出た。
廊下を歩いて玄関を抜けると、柔らかな風が吹いてきた。花々が揺れるたび、少年は足を止める。赤い花の名を尋ね、次には白い花を指差した。母親が答えると、少年は分かった顔で頷く。先ほど聞いた名を忘れてまた尋ねても、母親は初めて聞かれたときと同じ声で答えた。
庭の奥まで来たところで、少年が立ち止まった。
「どうしたの?」
「……待って」
母親も足を止めた。少年は少し遅れて駆け寄ると、母の手をぎゅっと握り直す。
「これがいい」
「これ?」
「ママの手」
母親は少年を見た。
「そんなに好きなの?」
「好き」
迷いのない答えだった。母親が握り返すと、少年は二人の手を見ながら小さく呟いた。
「……あったかい」
母親は何も言わず、その手を包み込んだ。
ベンチに腰を下ろすと、少年は母親の隣で庭を眺めていた。二人の間にあった肩一つぶんの隙間はいつの間にか消え、少年は身体を預けるように寄りかかってくる。母親が髪を撫でると、少年は目を細めた。
「眠いの?」
「まだ」
「そう?」
「まだ寝ない」
そう答えた直後、小さな欠伸がこぼれた。母親が笑う。
「眠そうじゃない」
少年は少し恥ずかしそうに顔を伏せ、それでも母親から離れようとはしなかった。
「……ママといるから」
母親の手が止まった。
「うん。いるわよ」
少年は返事を確かめるように母親を見上げ、それから膝へ頭を乗せた。母親は風に乱れた髪を指先で整え、同じところを何度も撫でる。少年の呼吸は、手の動きに合わせるように穏やかになっていった。
「ママ」
「なあに?」
「大好き」
母親は膝の上にある少年の顔を見下ろした。
「ママも大好きよ」
「ほんと?」
「本当」
少年は少し考えてから、もう一度尋ねる。
「ずっと?」
母親は微笑んだ。
「ずっとよ」
少年は目を閉じた。けれど、何かを思い出したらしく、すぐに身体を起こした。
「ママ」
「今度は何?」
「ぼく、大きくなったらね」
「うん」
「ママと結婚する!」
母親は目を丸くし、思わず笑った。
「ふふっ……」
「なんで笑うの?」
「嬉しいのよ」
「嬉しい?」
「ええ」
少年は母親の顔を真剣に見つめ、小さな小指を差し出した。
「じゃあ、約束」
母親はその小指へ自分の小指を絡める。
「約束ね」
少年の指には、子供らしい柔らかな丸みがあった。それでも握る力だけは一生懸命で、母親の指を離すまいとするように絡みついている。
「絶対だよ」
「ええ」
「絶対だからね」
「分かったわ」
ようやく安心したのか、少年は嬉しそうに笑った。
夕方が近づき、二人は屋敷へ戻った。少年は帰り道まで「まだ歩ける」と言い張っていたものの、しばらくすると母親の服を掴んだ。
「ママ」
「どうしたの?」
「抱っこ」
「歩けるんじゃなかったの?」
「……ちょっと疲れた」
母親は笑いながら少年を抱き上げた。少年はすぐに首へ腕を回し、頬を肩へ寄せる。
「重くない?」
「全然」
「ほんと?」
「本当よ」
少年の腕から力が抜け、目が閉じた。屋敷へ向かって歩いていると、耳元から小さな声が聞こえてくる。
「ぼく、大きくなりたくない」
母親は少年の背中を撫でながら尋ねた。
「どうして?」
「ずっと抱っこしてほしいから」
母親は少し笑った。
「それは困ったわね」
「なんで?」
「大きくなったあなたも見てみたいもの」
少年は黙って考えていた。
「ママより大きくなる?」
「そうね。ママより大きくなってほしいわ」
「じゃあ大きくなる」
「楽しみにしてる」
母親がそう言うと、少年は小さく頷き、それきり眠ってしまった。
部屋へ戻った母親は、少年をベッドへ寝かせた。乱れた髪を整えて布団を掛けても目を覚ますことはなく、穏やかな寝息だけが聞こえている。
母親がベッドから離れようとしたとき、少年の手が動いた。
眠ったまま何かを探すように指先が揺れ、その指が母親の指に触れると、小さな手がそっと握った。
母親は足を止めた。
少年の瞼は閉じたままだった。母親はその手を振りほどかず、ベッドの脇へ椅子を置いて静かに腰を下ろした。窓の外では夕暮れが夜へ変わり、庭の花々が暗がりの中へ沈んでいく。噴水の水が落ちる音だけは、昼間と変わらなかった。
母親は握られた手へ目を落とした。
庭を歩いたときも、小指を絡めて約束したときも、抱き上げたときも、この手はためらわず母親を求めてきた。眠ってなお、その指は同じ場所を探し当てている。
母親がそっと指を絡め返すと、少年の手が眠りの中でわずかに動いた。母親は声を立てずに笑った。
「おやすみ」
少年から返事はない。月明かりがベッドの端まで伸びても、小さな指は母親の指に絡んだままだった。窓の外では、噴水が昼間と同じ音を立てていた。




