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神々に願った、たった一つの愛  作者: 狹霧
第11章 「強さの、その先へ」
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第66話「久しぶりの来訪者」

昼下がりの風が、開け放たれた窓から部屋の中へ入り込んでいた。

机の上に広げられた書類の端がかすかに持ち上がり、譲はめくれそうになるたび指先で押さえた。庭では木々が葉を鳴らし、その向こうから鳥の声が聞こえてくる。何かを急ぐ必要もなく、書類の残りも多くはない。そんな午後だった。

「かすみー? 譲ー? いるー?」

玄関の方から明るい声が響いた。

譲は書類から顔を上げた。聞き間違えるはずがない。

「ルビア?」

椅子を引いて立ち上がり、玄関へ向かう。

扉を開けると、旅装姿のルビアが立っていた。肩には荷物を掛け、靴や裾には街道を歩いてきたらしい細かな砂埃が付いている。長旅の途中なのだろう。それでも譲を見つけると、疲れを感じさせない笑顔を見せた。

「譲いた。よかった。かすみは?」

「久しぶりだね。かすみは買い物に出てるよ」

「うん、久しぶり。かすみは留守かぁ」

少し残念そうに言ってから、ルビアは肩の荷物を持ち直した。

「近くまで依頼で来てたから、ちょっと寄ってみようかなって。急に来ちゃったけど、大丈夫だった?」

「もちろん。むしろ嬉しいよ」

「よかった」

二人が話していると、廊下の奥から足音が近づいてきた。

「……誰だ?」

現れたザルグレスが、玄関に立つルビアを見る。

「ザルグレス。久しぶり」

「ルビアか」

「あいかわらずだね」

「何がだ」

「挨拶が短いところ」

「必要なことは言った」

「そういうところ」

ルビアが笑う。

ザルグレスはわずかに眉を動かした。その反応まで以前と変わらないように見えたのだろう。ルビアも笑ったままだったが、ふと何かに気づいたように口を閉じた。

何かを確かめるように、ザルグレスを見る。

「……何だ?」

「ううん」

「何かあるなら言え」

「いや、本当に大したことじゃないんだけど」

ルビアは少し考えてから言った。

「前より、周りを見るようになったね」

ザルグレスは黙った。

「そうか?」

「うん」

「自分では分からない」

「じゃあ、あたしの勘違いかも」

そう言ってルビアは笑ったが、ザルグレスの中にはその言葉だけが残った。

何を指してそう言われたのかは分からない。思い返してみると、以前なら目に入っても意味を持たなかったものを、近頃は立ち止まって見ることが増えていた。

町を歩けば、店先に並べられた商品が気になる。何に使うのか分からない道具があれば、通り過ぎたあとで振り返ることもある。道端で誰かが馬の世話をしていたときには、なぜ脚を触り、なぜ蹄を確かめるのか分からないまま、その手元をしばらく眺めていた。

以前の自分なら、戦いに必要なのか、強くなるために役立つのかを考え、必要でなければそれで終わりだった。今は役に立つかどうかより先に、何をしているのだろうと思うことがある。その理由を、ザルグレス自身もうまく説明できなかった。

「ところで、今回の依頼は何なんだ?」

考えていても答えは出そうになく、ザルグレスは話題を変えた。

ルビアが肩に掛けていた荷物を持ち直す。

「商人たちの護衛だよ」

「商人?」

「うん。少し遠くの町まで商品を運ぶんだって。それと、今回は御者も頼まれてるの」

「御者……」

「馬車を操る仕事」

「それは分かる」

「分かるんだ」

「馬車を見たことくらいはある」

「乗ったことは?」

「ある」

「じゃあ、御者をしたことは?」

「……ない」

ルビアが楽しそうに笑った。

「じゃあ、いい機会かもね」

「何がだ?」

「御者の仕事、見てみる?」

ザルグレスは答えなかった。

馬車そのものなら何度も見ている。乗ったこともある。人間が馬を使い、荷物や人を運ぶための道具だということくらい知っていた。

御者が何をしているのかは知らない。馬を前へ進ませ、目的地まで道を走らせる。それだけなら、自分にもできそうに思えた。

ところが、先ほど思い出した馬の世話をする男の手つきが頭に浮かんだ。なぜ脚を見るのか。なぜ蹄に触れるのか。長い道を走らせるときには何を見るのか。荷物を積んだ馬車は、人だけを乗せたときと何が違うのか。馬が疲れているかどうかを、御者はどうやって知るのだろう。

一つ浮かぶと、その後ろから別の疑問が出てくる。どれも戦いとは関係がなく、知ったところで自分が強くなるわけでもない。それでもザルグレスは、いつの間にかその答えを知りたいと思っていた。

「……面白そうだな」

口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。

ルビアも目を丸くする。

「やっぱり興味あるんじゃん」

「そうらしい」

「自分のことなのに?」

「我にも分からない」

また、分からないと言った。以前なら、その言葉を口にするのは好きではなかった。分からないなら知ればいい。できないならできるようになればいい。目の前に越えられないものがあれば、越えるための力を手に入れる。それで済むと思っていた。

今は少し違う。分からないから見てみたい。何の役に立つのか分からなくても、知ってみたい。

そんな理由で何かを選んだことが、自分にはどれほどあっただろう。

「じゃあ、一緒に来る?」

ルビアが言った。

ザルグレスは顔を上げた。

「我が?」

「興味あるんでしょ?」

「……まあ、そうだな」

「だったら見に来ればいいじゃん。護衛も一人増えるし、商人たちに迷惑をかけなければ問題ないよ」

ザルグレスはすぐには返事をしなかった。行ってみたいと思っている。その事実を自分の中で確かめてから、譲へ視線を移した。

「主殿」

「うん?」

「……ルビアに同行しても、いいか?」

譲は少しだけ目を細めた。

ザルグレスが自分から何かを望むことは、決して多くない。まして戦いとは直接関係のない旅へ行きたいと言い出したのは、譲にも珍しく思えたのだろう。

「もちろん」

返事はすぐだった。

「感謝する」

「ルビアの仕事を手伝うことになるなら、迷惑をかけないようにね」

「ああ」

「それと」

譲が少し笑う。

「帰ってきたら、旅の話を聞かせて」

ザルグレスは一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした。

「……我の話を?」

「うん。ザルグレスが見たものを聞きたい」

ザルグレスは黙った。

これまで戦いから戻れば、何を倒したのかを聞かれることはあった。どれほど強かったのか、どんな力を持っていたのか、どう戦ったのか。自分自身も、それ以外を話す必要があるとは考えてこなかった。

見たものを聞きたい――譲が求めているのは、戦果ではないらしい。

「……何を話せばよい?」

「何でもいいよ。ザルグレスが面白いと思ったこととか、初めて知ったこととか」

「そのようなものでよいのか」

「そのほうが聞きたいかな」

ザルグレスは妙な気分になった。

まだ出発さえしていないのに、自分が何を見るのかを考えている。

「分かった」

やがて出発の時間になった。

外へ出ると、街道の脇に馬車が停められていた。荷台には木箱や布に包まれた荷物が積まれ、商人たちが最後の準備をしている。

ルビアが御者台へ向かう。

「じゃあ、行こっか」

「ああ」

ザルグレスも馬車へ向かった。

何を見ることになるのかは、まだ分からない。御者の仕事も、商人たちの旅も、自分がそこに興味を持った理由さえ、うまく説明できなかった。

それでも、自分から行ってみたいと思った。

馬車がゆっくり動き出す。

ザルグレスは一度だけ振り返った。

家の前では、譲がこちらを見送っている。

――帰ってきたら、旅の話を聞かせて。

何を話すことになるのだろう。

今はまだ、何も浮かばない。

ザルグレスは譲へ小さく頭を下げ、前を向いた。

街道は遠くまで続いていた。


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