第66話「久しぶりの来訪者」
昼下がりの風が、開け放たれた窓から部屋の中へ入り込んでいた。
机の上に広げられた書類の端がかすかに持ち上がり、譲はめくれそうになるたび指先で押さえた。庭では木々が葉を鳴らし、その向こうから鳥の声が聞こえてくる。何かを急ぐ必要もなく、書類の残りも多くはない。そんな午後だった。
「かすみー? 譲ー? いるー?」
玄関の方から明るい声が響いた。
譲は書類から顔を上げた。聞き間違えるはずがない。
「ルビア?」
椅子を引いて立ち上がり、玄関へ向かう。
扉を開けると、旅装姿のルビアが立っていた。肩には荷物を掛け、靴や裾には街道を歩いてきたらしい細かな砂埃が付いている。長旅の途中なのだろう。それでも譲を見つけると、疲れを感じさせない笑顔を見せた。
「譲いた。よかった。かすみは?」
「久しぶりだね。かすみは買い物に出てるよ」
「うん、久しぶり。かすみは留守かぁ」
少し残念そうに言ってから、ルビアは肩の荷物を持ち直した。
「近くまで依頼で来てたから、ちょっと寄ってみようかなって。急に来ちゃったけど、大丈夫だった?」
「もちろん。むしろ嬉しいよ」
「よかった」
二人が話していると、廊下の奥から足音が近づいてきた。
「……誰だ?」
現れたザルグレスが、玄関に立つルビアを見る。
「ザルグレス。久しぶり」
「ルビアか」
「あいかわらずだね」
「何がだ」
「挨拶が短いところ」
「必要なことは言った」
「そういうところ」
ルビアが笑う。
ザルグレスはわずかに眉を動かした。その反応まで以前と変わらないように見えたのだろう。ルビアも笑ったままだったが、ふと何かに気づいたように口を閉じた。
何かを確かめるように、ザルグレスを見る。
「……何だ?」
「ううん」
「何かあるなら言え」
「いや、本当に大したことじゃないんだけど」
ルビアは少し考えてから言った。
「前より、周りを見るようになったね」
ザルグレスは黙った。
「そうか?」
「うん」
「自分では分からない」
「じゃあ、あたしの勘違いかも」
そう言ってルビアは笑ったが、ザルグレスの中にはその言葉だけが残った。
何を指してそう言われたのかは分からない。思い返してみると、以前なら目に入っても意味を持たなかったものを、近頃は立ち止まって見ることが増えていた。
町を歩けば、店先に並べられた商品が気になる。何に使うのか分からない道具があれば、通り過ぎたあとで振り返ることもある。道端で誰かが馬の世話をしていたときには、なぜ脚を触り、なぜ蹄を確かめるのか分からないまま、その手元をしばらく眺めていた。
以前の自分なら、戦いに必要なのか、強くなるために役立つのかを考え、必要でなければそれで終わりだった。今は役に立つかどうかより先に、何をしているのだろうと思うことがある。その理由を、ザルグレス自身もうまく説明できなかった。
「ところで、今回の依頼は何なんだ?」
考えていても答えは出そうになく、ザルグレスは話題を変えた。
ルビアが肩に掛けていた荷物を持ち直す。
「商人たちの護衛だよ」
「商人?」
「うん。少し遠くの町まで商品を運ぶんだって。それと、今回は御者も頼まれてるの」
「御者……」
「馬車を操る仕事」
「それは分かる」
「分かるんだ」
「馬車を見たことくらいはある」
「乗ったことは?」
「ある」
「じゃあ、御者をしたことは?」
「……ない」
ルビアが楽しそうに笑った。
「じゃあ、いい機会かもね」
「何がだ?」
「御者の仕事、見てみる?」
ザルグレスは答えなかった。
馬車そのものなら何度も見ている。乗ったこともある。人間が馬を使い、荷物や人を運ぶための道具だということくらい知っていた。
御者が何をしているのかは知らない。馬を前へ進ませ、目的地まで道を走らせる。それだけなら、自分にもできそうに思えた。
ところが、先ほど思い出した馬の世話をする男の手つきが頭に浮かんだ。なぜ脚を見るのか。なぜ蹄に触れるのか。長い道を走らせるときには何を見るのか。荷物を積んだ馬車は、人だけを乗せたときと何が違うのか。馬が疲れているかどうかを、御者はどうやって知るのだろう。
一つ浮かぶと、その後ろから別の疑問が出てくる。どれも戦いとは関係がなく、知ったところで自分が強くなるわけでもない。それでもザルグレスは、いつの間にかその答えを知りたいと思っていた。
「……面白そうだな」
口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。
ルビアも目を丸くする。
「やっぱり興味あるんじゃん」
「そうらしい」
「自分のことなのに?」
「我にも分からない」
また、分からないと言った。以前なら、その言葉を口にするのは好きではなかった。分からないなら知ればいい。できないならできるようになればいい。目の前に越えられないものがあれば、越えるための力を手に入れる。それで済むと思っていた。
今は少し違う。分からないから見てみたい。何の役に立つのか分からなくても、知ってみたい。
そんな理由で何かを選んだことが、自分にはどれほどあっただろう。
「じゃあ、一緒に来る?」
ルビアが言った。
ザルグレスは顔を上げた。
「我が?」
「興味あるんでしょ?」
「……まあ、そうだな」
「だったら見に来ればいいじゃん。護衛も一人増えるし、商人たちに迷惑をかけなければ問題ないよ」
ザルグレスはすぐには返事をしなかった。行ってみたいと思っている。その事実を自分の中で確かめてから、譲へ視線を移した。
「主殿」
「うん?」
「……ルビアに同行しても、いいか?」
譲は少しだけ目を細めた。
ザルグレスが自分から何かを望むことは、決して多くない。まして戦いとは直接関係のない旅へ行きたいと言い出したのは、譲にも珍しく思えたのだろう。
「もちろん」
返事はすぐだった。
「感謝する」
「ルビアの仕事を手伝うことになるなら、迷惑をかけないようにね」
「ああ」
「それと」
譲が少し笑う。
「帰ってきたら、旅の話を聞かせて」
ザルグレスは一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした。
「……我の話を?」
「うん。ザルグレスが見たものを聞きたい」
ザルグレスは黙った。
これまで戦いから戻れば、何を倒したのかを聞かれることはあった。どれほど強かったのか、どんな力を持っていたのか、どう戦ったのか。自分自身も、それ以外を話す必要があるとは考えてこなかった。
見たものを聞きたい――譲が求めているのは、戦果ではないらしい。
「……何を話せばよい?」
「何でもいいよ。ザルグレスが面白いと思ったこととか、初めて知ったこととか」
「そのようなものでよいのか」
「そのほうが聞きたいかな」
ザルグレスは妙な気分になった。
まだ出発さえしていないのに、自分が何を見るのかを考えている。
「分かった」
やがて出発の時間になった。
外へ出ると、街道の脇に馬車が停められていた。荷台には木箱や布に包まれた荷物が積まれ、商人たちが最後の準備をしている。
ルビアが御者台へ向かう。
「じゃあ、行こっか」
「ああ」
ザルグレスも馬車へ向かった。
何を見ることになるのかは、まだ分からない。御者の仕事も、商人たちの旅も、自分がそこに興味を持った理由さえ、うまく説明できなかった。
それでも、自分から行ってみたいと思った。
馬車がゆっくり動き出す。
ザルグレスは一度だけ振り返った。
家の前では、譲がこちらを見送っている。
――帰ってきたら、旅の話を聞かせて。
何を話すことになるのだろう。
今はまだ、何も浮かばない。
ザルグレスは譲へ小さく頭を下げ、前を向いた。
街道は遠くまで続いていた。




