第65話「遠く離れて、近づいた心」
三人が買い物から戻ってきたあとも、五人はしばらく旅の話をしていた。
ザルグレスが買ってきたものを並べ、アウストラリスが食材を片付ける。ルビアは温泉で見つけた店の話をして、かすみが笑いながら相槌を打った。譲も北の土地で見た景色を話し、ときどきザルグレスが横から補足する。
いつもの時間だった。
ただ、かすみと譲は、ときどき目が合った。
そのたびに、どちらからともなく小さく笑ってしまう。
以前なら、そんなことを気にもしなかった。
やがて皆がそれぞれの部屋へ戻ると、かすみは一人で窓辺に立った。
少し開いた窓から、夜の風が入り込んでくる。昼間のぬくもりをまだわずかに残した空気が頬を撫で、髪を揺らした。
ネブラ州で過ごした数日間を思い返す。
温泉も楽しかった。町を歩くのも、ルビアと話すのも楽しかった。けれど、頭の片隅にはいつも譲がいた。
この料理を食べたら、きっと譲はこう言う。
この景色を見せたら、きっと喜ぶ。
帰ったら、これを渡そう。
気づけば、そんなことばかり考えていた。
「……会いたかったんだ」
口にしてみると、不思議なくらいすんなりと胸に落ちた。
旅が嫌だったわけではない。ルビアと過ごす時間を早く終わらせたかったわけでもない。
ただ、譲に会いたかった。
その気持ちは帰ってきた今も消えていない。むしろ顔を見たことで、曖昧だったものがかえってはっきりしてしまった。
「かすみ?」
声に振り向くと、譲がいた。
「まだ起きてたんだ」
「うん。譲も?」
「ぼくも少し眠れなくて」
譲が隣まで来る。
二人は並んで窓の外を眺めた。
何も話さなかった。
けれど、その沈黙は以前とは違っていた。言葉がなくても平気だった頃の静けさではない。互いに何かを言おうとして、それでも簡単には口にできずにいる。
そんな沈黙だった。
「……かすみ」
「なに?」
「ぼく、帰ってきてからずっと考えてた」
「何を?」
譲は少しだけ迷ってから、かすみを見る。
「離れていた間のこと」
かすみの胸が、わずかに高鳴った。
「ぼく、どこにいても、かすみのことを考えてたんだ」
「わたしも」
「景色を見ても、食事をしてても、何かを見つけても……かすみならどうするかなって」
「わたしも同じだった」
二人とも少し笑った。
笑ったあと、また静かになる。
「……不思議だね」
かすみが呟く。
「うん」
「ずっと一緒にいたのに、離れてみないと分からなかった」
「ぼくもそう思う」
かすみは窓の外へ視線を戻した。
「昔は、譲はわたしの子供だった」
「うん」
「そのことは、今でも大切に思ってる」
「ぼくも」
「でも……今の譲は、あの頃の譲じゃない」
譲はかすみの顔を見ながら聞いていた。
「わたしも、昔のわたしじゃない」
「……うん」
かすみは一度、言葉を探すように黙った。
昔の記憶を失くしたいわけではない。あの頃、譲を息子として愛していたことまで別のものにしたいわけでもなかった。
ただ、今目の前にいる譲を見たときに生まれる気持ちは、それだけでは説明できない。
「だから、今こうして譲のことを考えてる気持ちを、昔と同じものだと思うのは違うんだと思う」
言葉にしてしまうと、少し怖かった。
けれど、譲は否定しなかった。
「ぼくも、同じことを考えてた」
譲はゆっくりと息を吐いた。
「昔のかすみを大切に思う気持ちは、今も変わらない。でも、今のかすみを見てると……それだけじゃないって思う」
かすみは譲の視線を受け止めた。もう逃げる理由はなかった。
「わたしも」
小さな声だった。
それでも、譲には届いた。
「……離れてる間、何度も会いたいって思った」
「ぼくも」
かすみは窓の外へ目を向けた。夜の暗がりに、昼の庭が重なった。
「ずっと、あの子を探してた」
「……うん」
「会いたくて、それだけで歩いてきたの。会えたときは、もう他には何もいらないと思った」
かすみは譲を見た。
「でも、この数日、会いたかったのは……今の譲だった」
胸の奥には、まだ昼の庭の約束が残っている。消えたわけではない。それでも今、会いたいと思ったのは、あの子ではなく、目の前にいる譲だった。
「帰ったら、譲に話したいことがいっぱいあるって思った」
「ぼくも、かすみに話したいことがあった」
「……今も?」
「うん」
譲は少し照れたように笑った。
「今なら、言える気がする」
かすみは身じろぎもせずに待った。
譲は一度だけ息を整える。
「ぼくは、かすみが好き」
静かな声だった。
けれど、その言葉は少しも曖昧ではなく、まっすぐに届いた。
かすみは譲を見つめていた。
驚いたわけではなかった。
むしろ、その言葉をどこかで待っていたのだと、聞いて初めて分かった。
それから、ゆっくり笑った。
「……わたしも、譲が好き」
言葉にした瞬間、胸の奥にあったものが静かになった。
ずっとそこにあったものを、ようやく二人で認めたような感覚だった。
かすみは少し迷ってから、譲の手へ自分の手を重ねた。
「……手、つないでもいい?」
「うん」
譲が手を握る。
指先が触れ、自然に指が絡む。
二人とも、照れた。
これまでにも互いの手を取ることはあった。迷子にならないように手をつないだことも、安心させるために握ったこともある。
けれど今は、その意味が違う。
同じ手なのに、触れ方まで変わったように感じた。
かすみは握られた手を見つめ、それから譲を見る。
「……なんか、変な感じ」
「ぼくも」
「でも、嫌じゃない」
「うん」
かすみは少しだけ身体を寄せた。
肩が触れる。
譲も離れない。
それだけで、十分だった。
それでも、かすみはもう一歩だけ近づいた。
「……譲」
「うん?」
かすみは返事の代わりに、そっと譲を抱きしめた。
譲の身体が一瞬だけ固まる。
それから、ゆっくりと腕がかすみの背中へ回った。
「……あったかい」
「かすみも」
二人はしばらく何も言わなかった。
腕の中にいる相手の体温を感じながら、かすみは目を閉じた。
昔のことを思い出す。
母親として抱きしめたこともあった。
譲にとっても、母を求める気持ちの中で抱きしめられた記憶は残っている。
けれど今は、そのどちらでもない。
昔の記憶を持ったまま、今の自分が今の譲を抱きしめている。
そのことが、かすみには嬉しかった。
やがて、かすみが顔を上げる。
「ネブラ州、いいところだったよ」
「うん」
「海も山もある。食べ物も美味しいし、温泉も、静かなところもあったよ」
譲は小さく相槌を打った。
かすみは少し考えるように譲を見た。
「いつか、あそこであなたと一緒に暮らしてみたい」
譲は目を瞬かせた。
「……うん」
それ以上の返事は、まだ出てこなかった。かすみも、それ以上は言わなかった。
「……明日、何食べようか」
譲は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「急に?」
「だって、朝ご飯作るでしょ?」
「そうだね」
「ネブラ州で買った調味料、使ってみたい」
「じゃあ、ぼくが何か作ろうか」
「一緒に作ろうよ」
「うん」
かすみは笑った。
つないだ手は、そのままだった。
明日になれば、いつものように朝が来る。
二人で食事を作り、仕事をして、帰ってくる。
きっと、見た目には何も変わらない。
それでも、もう二人は知っている。
隣にいる人を、ただ「いつも一緒にいる大切な人」と呼ぶだけでは足りないことを。
その夜、二人はしばらく手をつないだまま、明日の朝の献立について話していた。
遠く離れていた数日間があったからこそ、その何気ない時間が、以前より少しだけ愛おしくなっていた。




