第64話「三人の買い物」
かすみは向かいに座る譲を見た。旅に出る前と何も変わらない。服も髪も、いつもの表情も同じだった。それなのに、数日前までとは少し違う人を見ているような気がする。もう、昔のあの子を見ているとは思えなかった。
「……譲」
「うん?」
「旅行、楽しかった?」
「うん。ザルグレスとアウストラリスと一緒だったからね。いろいろ見られたし、景色もすごかった」
譲は少しだけ笑った。
「でも、かすみがいたら、もっと楽しかったと思う」
かすみの指先がわずかに動いた。
特別な言い方をされたわけではない。譲も、ただ思ったことを口にしただけなのだろう。それでも、その言葉は聞いた瞬間に胸の奥へ落ちてきた。
「……わたしも」
「え?」
「わたしも、そう思った」
それだけ言って、かすみは視線を落とした。
温泉も食事も買い物も楽しかった。ルビアと二人で過ごす時間が嫌だったわけではない。むしろ久しぶりにゆっくりできて、旅としては十分すぎるほど楽しかった。
それなのに、何かを見つけるたびに譲のことを考えた。
これなら好きそうだとか、これを見せたらどんな顔をするだろうとか。食事をしていても、いつものように隣から感想が聞こえてこないことが妙に気になった。楽しい時間の中で、譲がいないということだけが、どこかに小さく残り続けていた。
かすみは顔を上げた。
視線が重なる。
旅へ出る前にも、何度も目を合わせてきた。互いの顔など、見慣れすぎているくらいだった。それでも今は、相手の目の中に何かを探してしまう。
そこにあるものが何なのか、まだ二人とも分からない。
「……わたしたち、ずっとそのままなんだと思ってた」
「ぼくも、そう思ってた」
「……ねえ、譲」
「うん」
「あなたから見て……今のわたしは、昔のわたしと同じに見える?」
譲はすぐには答えなかった。
考えるように、かすみの顔を見る。
目の前にいるかすみには、昔の母の面影を感じることがある。優しく笑う顔、自分を心配して叱るところ、触れられたときに感じる安心。それらには、ずっと前から知っていたような懐かしさがあった。
けれど、それだけではなかった。
「違うと思う」
その答えは、思っていたよりもまっすぐだった。
「もちろん、変わってない部分もあるよ。でも……今のかすみは、今のかすみだと思う」
かすみは小さく息を吐いた。
「そっか」
「かすみは?」
「……わたしも、そう思う」
かすみは少しだけ笑った。その笑顔には、安心と戸惑いが入り混じっている。
「だから困ってるの」
「ぼくも」
二人とも、それ以上は言わなかった。
かすみはテーブルの上に置かれている土産物へ目を向けた。
「……これね」
「うん?」
「帰ってきたら渡そうと思ってた」
「さっきの調味料?」
「うん。譲、料理するとき使えるかなって」
「使えるよ。ありがとう」
譲は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、かすみも笑う。
それだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなった。
そこで、かすみはふと気づいた。
離れていた数日間、何度も会いたいと思った。帰れば会えると考えるだけで嬉しかった。
今、その譲が目の前にいる。
それなのに、胸の奥はまだ落ち着かない。
会いたかった人に会えたのだから、それで満たされてもいいはずだった。なのに譲の顔を見ていると、今度は別のことを知りたくなる。
辺境の街へ来たばかりの頃は、朝に譲がいるだけで満たされた。失ったものが戻ってきた。あの朝に戻れた。そういう安心だった。
今は、戻りたいのではなかった。譲と、この先を見たい。
「……譲」
「うん」
「わたしたち、これからどうなるのかな」
譲は少し考えた。
少し前までの自分なら、そんなことを考える必要すらなかっただろう。かすみはかすみで、自分にとって大切な人。それだけで何も困らなかった。
今は違う。
だからといって、その違いを急いで形にする必要もないように思えた。
「分からない。でも、急いで決めなくてもいいんじゃないかな」
「……うん」
かすみは頷いた。
その答えを聞くと、胸の奥にあった緊張が少しだけほどけた。
名前をつけなくてもいい。
答えを急がなくてもいい。
ただ、今までとは違う何かが二人の間に生まれたことだけは、もう分かっている。それを否定する必要もなければ、昔の関係を消す必要もない。
昔の二人がいたから、今の二人がいる。
そのうえで今、目の前にいる相手を、もう一度見ようとしている。
やがて、扉の向こうから誰かの話し声が聞こえてきた。ザルグレスたちが戻ってくるらしい。
かすみが譲を見ると、譲もかすみを見ていた。
今度は、どちらも何も言わなかった。
少し前までなら、その沈黙に意味を探すことなどなかった。
今は違う。
答えはまだない。それでも、自分だけが迷っているのではないことは分かっていた。




