第63話「帰る場所、待つ人」
旅を終える朝、ネブラ州には薄い霧が残っていた。宿の窓から見える山々も白い湯けむりの向こうにぼんやりと霞み、昨日まで歩いた温泉街もまだ眠りの中にいるようだった。
かすみは荷物をまとめながら、買った土産物を一つずつ確かめていた。菓子、茶葉、調味料。どれも小さなものばかりで、旅の荷物を重くするほどではない。最後に譲へ渡すつもりの袋を手に取り、ほかの土産とは少し離して荷物の上へ置いた。
「忘れ物はない?」
戸口からルビアが尋ねた。
「大丈夫」
かすみは荷物を背負い、もう一度部屋を見回した。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
二人は宿を出た。
朝の温泉街にはまだ人が少なく、軒先から立ちのぼる湯気が細い道をゆっくり流れている。かすみは歩きながら、何度か後ろを振り返りそうになった。旅が終わることを惜しんでいるのかと思ったが、どうも違う。
振り返っても、そこに譲はいない。
そんな当たり前のことを考えている自分に気づくたび、かすみは前を向いた。
帰れば会える。
そのことを思うと、背負った荷物の重さまで少し軽くなったような気がした。
一方、東の大陸でも譲たちは帰路についていた。
北端の大地を離れ、来た道を南へ戻っていく。荒涼とした土地が少しずつ遠ざかっていくのを、譲は時々振り返りながら眺めていた。
「結局、思ったより長くいたな」
ザルグレスが言った。
「景色が珍しかったからね」
譲は答え、遠くに広がる大地へ目を向けた。
冥界に最も近いと呼ばれる場所。風の冷たさも、何もない土地の広さも、荒野の中にぽつりと広がっていた湖も、来る前には知らなかったものばかりだった。もうしばらく来ることはないかもしれない。
「また来るか?」
アウストラリスが尋ねた。
譲は少し考えた。
「……うん。今度は、かすみも連れてきたいかな」
ザルグレスとアウストラリスが顔を見合わせた。
「何だよ」
譲が苦笑すると、ザルグレスは肩をすくめる。
「いや、何でもない」
譲は二人の反応を不思議に思いながら、それ以上は聞かなかった。
三人はまた歩き始めた。
数日後。
五人が再び顔を合わせたのは、夕方だった。
「おかえり」
ルビアが声をかける。
「ただいま」
ザルグレスが答え、アウストラリスも続いた。
「ただいま」
最後に譲がそう言った。
かすみは少し遅れて譲を見る。
「……おかえり、譲」
「ただいま、かすみ」
同じ言葉を、森でも言った。あのときは「おかえり、ゆずるくん」だった。いつから名前を呼ぶ声が変わっていたのか、かすみには思い出せない。変えようと思って変えたわけではなかった。
ほんの短い言葉だった。今までにも何度となく交わしてきたはずの言葉なのに、かすみはそのまま譲を見ていた。
ルビアの言葉を思い出していた。
――帰ったら、ちゃんと譲の顔を見てみなさい。
言われたとおり、改めて見る。
見慣れた顔だった。
見慣れた目があり、見慣れた表情がある。聞こえてくる声も変わっていない。旅へ出る前と同じ譲が、いつもと同じように自分の前に立っている。
何も変わっていないはずだった。
それなのに、かすみは視線を逸らせなかった。
「……どうしたの?」
譲が尋ねる。
「え?」
「ずっとぼくのこと見てるから」
指摘された途端、かすみは慌てて視線を外した。
「……ごめん。なんとなく」
「なんとなく?」
「うん」
譲は少し笑った。
「変なの」
その笑い方も、いつもと同じだった。
だからこそ、かすみは余計に分からなくなった。
自分は何を確かめようとしていたのだろう。譲の顔を見れば何かが分かるような気がしていたのに、そこにいたのは旅に出る前と何一つ変わらない譲だった。
変わったものがあるとすれば、それを見る自分のほうなのかもしれない。
その頃、譲もまた、かすみを見ていた。
温泉へ行っていたのだと聞いている。少し日焼けしたようにも見える。手にはいくつかの荷物があり、旅から帰ってきたばかりなのだと分かる。
それだけだった。
それだけなのに、姿を見ているうちに、旅の間ずっと胸のどこかに残っていたものが静かになっていく。
会いたかった。
湖のそばで口にした言葉を思い出す。
実際に会えば、自分が何を感じるのか知りたいと思っていた。ところが目の前にかすみがいる今、答えらしいものは何も浮かばない。ただ、帰ってきてよかったと思った。
「旅行、どうだった?」
譲が尋ねる。
「楽しかったよ」
「温泉は?」
「すごく気持ちよかった」
「そう」
かすみが少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、譲もつられるように笑いそうになった。
「譲たちは?」
「ぼくたちも楽しかったよ」
そこで会話が途切れた。
話したいことはもっとある。
旅の途中で見た景色。泊まった宿。食べたもの。譲には湖のことも話したかった。かすみに見せたいと思った景色があったことも、いつか一緒に行きたいと思ったことも、話そうと思えばいくらでも言葉は見つかるはずだった。
かすみにも話したいことはあった。温泉のこと、ルビアと歩いた街のこと、食べた料理のこと。譲が喜びそうだと思って選んだものもある。
離れているときには、帰ったら話そうと思っていた。
目の前に本人がいると、なぜか言葉が出てこなかった。
かすみが思い出したように荷物を開いた。
「そうだ。これ」
小さな袋を取り出し、譲へ差し出す。
「譲に」
「ぼくに?」
「うん。開けてみて」
譲が袋を開く。
中にはネブラ州で買った調味料が入っていた。
「これ……」
「料理に使えるんだって」
譲は袋の中を見たあと、少し驚いた顔でかすみを見た。
「覚えててくれたんだ」
「……うん」
かすみは小さく頷いた。
旅先で店に並んでいるものを見たとき、最初に浮かんだのが譲だった。料理をする譲なら使えるだろうと思った。ただそれだけのつもりで買ったものだったのに、こうして本人の手へ渡すと、選んでいたときの自分まで見透かされたような気がして少し落ち着かなかった。
譲は袋を大切そうに持った。
「今度、一緒に使おうか」
「うん」
それだけで、二人の間にあった妙な固さが少しほどけた。
夕食までの時間、五人は旅の話をして過ごした。ザルグレスが北端の風の強さを話せば、ルビアがネブラ州の温泉について話す。アウストラリスは珍しい植物の話をし、かすみは買ってきた土産物を見せた。
何度も笑い声が起こった。
久しぶりに五人で過ごす時間は穏やかで、旅へ出る前と何も変わらないように思えた。
かすみも笑った。譲も笑った。
それでも二人は、ときどき相手を見ていた。
誰かが話している最中に何気なく目を向けると、向こうもこちらを見ていることがある。そのたびにどちらかが先に視線を戻した。ほんの数日前なら、そんなことを気にしたかどうかさえ分からない。
やがて日が暮れた頃、ザルグレスが立ち上がった。
「そういえば、帰る前に頼まれていたものを買ってなかった」
「我も付き合おう」
アウストラリスが続く。
ルビアも立ち上がった。
「じゃあ、あたしも行こうかな」
かすみが三人を見る。
「三人で行くの?」
「ついでに夕食のものも買ってくるよ」
「じゃあ、お願い」
三人は連れ立って外へ出ていった。
扉が閉まる。
それまで部屋を満たしていた話し声が途切れ、急に静けさが戻ってきた。
残ったのは、かすみと譲だけだった。
二人とも、すぐには何も言わなかった。
数日前までなら、同じ家にいてこんな沈黙が生まれても気にしなかったはずだった。かすみが本を読み、譲が料理をしていることもあった。互いに別のことをして、長い間ひと言も話さないことさえある。
それでも相手がそこにいることは当たり前で、沈黙を埋めようなどとは思わなかった。
今も同じ部屋にいる。
同じかすみと、同じ譲だった。
なのに、何も話さない時間の中で、相手がそこにいることばかりが気になった。
かすみは膝の上で手を組んだ。
譲は窓の外へ目を向けた。
何か話そうと考えながら、かすみは譲を見る。
ほとんど同じ瞬間に、譲も振り向いた。
目が合った。
旅へ出る前なら、それだけのことだった。
今度は、どちらもすぐには逸らさなかった。




