第62話「二人に話した想い」
東の大陸の北端で迎えた朝は、思っていたより静かだった。
風は冷たかったが、空には雲が少ない。譲たちは宿を出ると昨日とは別の道へ入り、荒れた大地の先にあるという小さな湖を目指した。
「本当に何もないな」
ザルグレスが周囲を見回す。
「昨日からそればかり言ってない?」
「だって本当にないだろう」
「まあ、確かに」
譲は笑った。
三人で歩く時間は穏やかだった。目的地へ着けば景色を眺め、途中で珍しいものを見つければ足を止める。急ぐ理由もなければ、何かを成し遂げる必要もない。ただ知らない土地を歩いていく、それだけの旅だった。
湖へ着く頃には昼近くになっていた。
荒れた土地の中に水だけが静かに広がり、澄んだ水面には青い空がそのまま映っている。風が渡るたびに細かな波が走り、映っていた雲が崩れては、風が止むとまた一つにつながっていった。
「綺麗だな」
アウストラリスが呟いた。
「うん」
譲も湖を眺めた。
気づくと、両手の指で小さな四角を作り、空をその中に収めていた。なぜそんなことをしたのか、自分でも分からない。譲は黙って指をほどいた。
綺麗だと思った。そして、その景色を自分一人のものとして見ていられたのは、ほんのわずかな間だった。
かすみなら、この景色を見て何と言うだろう。
思い浮かべてから、譲は自分でもおかしくなって苦笑した。
「またか」
「え?」
「いや。最近、何か考えていることが多いように見える」
譲は答えずに湖へ目を戻した。アウストラリスもこちらを見ている。二人とも理由を問い詰める様子はなく、話したくなければそれで構わないという顔をしていた。
だからなのか、譲は少しだけ話してみようと思った。
「……少し、聞いてほしいことがある」
「いいぞ」
ザルグレスが湖の近くに腰を下ろした。アウストラリスもその隣へ座り、譲は二人の向かいに腰を下ろす。
しばらく水面を眺めた。何から話せばいいのか自分でも分からなかった。胸の中には確かに何かがあるのに、それに名前をつけようとすると、途端に輪郭が曖昧になる。
「かすみのことなんだけど」
二人は何も言わず、続きを待っていた。
「離れてみて、変なんだ」
「何が?」
「何を見ても、かすみならどうするかなって考えてしまう」
言いながら、譲はまた苦笑した。
「料理を見てもそうだし、景色を見てもそう。何か面白いものがあれば、見せたくなる」
「いつものことじゃないのか?」
ザルグレスにそう尋ねられ、譲は首を横に振った。
「……たぶん、違う」
答えてから、自分の言葉に自分で戸惑った。
今までだって、かすみは大切だった。それを疑ったことなど一度もない。
「かすみは、ぼくにとってずっと大切な人だった」
譲にとって、かすみは母親だった。
自分を討伐するために来たはずなのに、最後には剣を下ろし、引き取って育ててくれた人。なぜなのか自分でも分からないまま、初めからかすみには母親のようなものを感じていた。そばにいたくて、甘えたくて、離れたくなかった。
かすみのそばにいると安心した。優しくされると、ずっと昔にも同じ温かさを知っていたような気がした。顔も声も思い出せないはずの母を、かすみの中に探していたのかもしれない。
やがて守りたいと思うようになり、幸せでいてほしいとも願った。
そこまでは、自分でも分かっていた。
「今は……それだけじゃない気がする」
湖を渡った風が水面を撫で、譲の前で小さな波紋を広げていった。重なっていた空の形が崩れ、揺れながら別々の色を見せている。
「かすみは、ぼくを引き取って育ててくれた。母になってくれた。なんでか分かんないけど……かすみを母親として見ることに、何の疑問もなかった」
ザルグレスもアウストラリスも黙って聞いている。
「でも、今は違う」
口にしてみると、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
親子でなければならない理由はない。血がつながっていたわけではなく、引き取られて親子になった。森で「息子」と呼ばれたのも、そういう意味だと思っている。それでも譲にとって、かすみが母親だったことまで消えるわけではない。
朝になれば同じ食卓につきたい。出かけるなら隣を歩きたい。面白いものを見つけたら見せたいし、美味しいものがあれば一緒に食べたい。
かすみから感じる母の優しさ。自分の奥深くに残っている、優しい母の記憶。顔も姿もはっきりとは思い出せないのに、温かさだけは消えずに残っている。
自分が求めているものは、本当にそれだけなのだろうか。
昔の記憶が、かすみを求めているだけなのだろうか。
そこまで考えると、譲は続きを口にできなくなった。
「……それに気づいたら、少し怖くなった」
「怖い?」
アウストラリスが静かに尋ねる。
「うん」
譲は頷いた。
「ぼくの中にある気持ちが、昔の記憶のものなのか、今のものなのか分からなくなって」
「だから悩んでいるのか」
「そう」
ザルグレスはしばらく考えていた。やがて湖へ目を向けたまま口を開く。
「昔の気持ちと今の気持ちが、同じでなければならない理由なんてないだろう」
譲が顔を上げた。
「同じ相手でも、今の自分がどう感じるかは変わる。時間も、自分自身も変わっているんだからな」
アウストラリスも頷く。
「大切に思う気持ちが変わったからといって、昔の気持ちが嘘になるわけではない」
譲は何も言わなかった。
昔の自分は、母になってくれたかすみが好きだった。そばにいるだけで安心して、甘えられることが嬉しくて、離れれば不安になった。あの気持ちを今になって別のものへ置き換える必要はない。
母親として大切だった。
それは今も変わらない。
その一方で、今の自分が今のかすみに抱いているものまで、昔と同じ名前で呼ばなければならない理由もなかった。
二つはどちらも自分の中にある。
そう考えると、今まで一つに重なって見えていたものが、ほんの少しだけ分かれて見えた。どこからどこまでが昔の気持ちで、どこからが今の気持ちなのかは分からない。
それでも、すべてを同じものだと思わなくてもいいのだと知っただけで、胸の奥にあった息苦しさが少し薄れた。
「……ぼくは」
言いかけて、止まる。
「かすみと一緒にいると、安心する」
それは昔から変わらない。
「でも、最近はそれだけじゃなくて……」
その先になると、やはり言葉が見つからなかった。
かすみが笑っていると嬉しい。自分へ向けて笑ってくれたときは、もっと嬉しい。他の誰かと親しげに話している姿を見れば、理由もなく落ち着かなくなることがある。
今までは一つ一つを気に留めなかった。かすみが大切だから、かすみが好きだから。それだけで済ませてきた。
離れてみて初めて、その一つ一つが同じ場所から生まれたものではないのかもしれないと思った。
「……離れている間に、会いたくなった」
それだけは迷わず口から出た。
ザルグレスもアウストラリスも笑わなかった。答えを求めることも、譲の代わりに名前をつけることもしない。
だから譲は、そのまま続けることができた。
「帰ったら、かすみの顔を見たい」
湖の向こうへ視線を向ける。
「それで、自分が何を感じるのか……ちゃんと知りたい」
「それでいいんじゃないか」
ザルグレスが言った。
「答えを急ぐ必要はない」
「うん」
アウストラリスも頷いた。
「帰れば、嫌でも分かるさ」
譲は二人を見て、小さく笑った。
「ありがとう」
三人はしばらく湖のそばで過ごし、それから来た道を宿へ戻った。
夕方、部屋へ戻った譲は明日のために荷物をまとめ始めた。ここを出れば、あとは帰るだけだった。
帰れば、かすみに会える。
そう考えた途端、畳んでいた服の上で手が止まった。
会える。
ただそれだけのことが嬉しかった。
母親だったかすみを求めていた気持ちは、今も自分の中にある。あの温かさを失いたくないと思う自分もいる。甘えたい気持ちも、そばにいると安心する気持ちも消えてはいない。
その隣に、いつからあったのか分からない別のものがある。
譲は畳みかけていた服を持ったまま、しばらく動かなかった。
それが何なのか、今ここで決める必要はない。
明日、帰る。
そして、かすみの顔を見る。
そのとき自分の中に何が生まれるのかを、今度は「母親だから」という一つの言葉だけで隠さずに見てみようと思った。
今はまだ、それだけでよかった。




