第61話「姉にしか話せないこと」
ネブラ州で迎える三日目の朝、かすみは目を覚ましてから、しばらく天井を眺めていた。
昨日までなら、起きるとすぐにその日の予定を考えていた。どこへ行こう、何を食べよう。知らない町で一日を過ごすことが楽しく、考えているだけでも自然と身体を起こせた。
今朝、最初に浮かんだのは別のことだった。
帰ったら、何から話そう。
かすみは布団の中で小さく息を吐いた。
「……なんでだろ」
「何が?」
隣から声がした。
「起きてたの?」
「今起きたとこ」
ルビアが身体を起こす。
「何か考えてた?」
「ううん」
「また?」
かすみは苦笑した。
「またって何?」
「昨日も同じこと言ってたから」
「……そうだっけ」
「そうだよ」
ルビアは笑った。
朝食を済ませたあと、二人は宿の庭へ出た。
朝の風が木々の間を抜け、葉を揺らしている。昨日までと変わらない穏やかな時間だった。急いで出かける必要もなく、好きなだけのんびりしていられる。
それなのに、かすみは庭を歩いては立ち止まり、また歩いた。
ルビアは腕を組み、その様子を目で追った。
しばらくして、かすみのほうから口を開いた。
「ねえ、ルビア」
「ん?」
「ちょっと聞いてほしいことがある」
「いいよ」
二人は庭の端にあるベンチへ腰を下ろした。
かすみは膝の上で手を重ねたまま黙っていた。話したくて声をかけたはずなのに、何から話せばいいのか分からない。隣のルビアは急かすことも、先回りして尋ねることもせず、ただ待っていた。
「……譲のことなんだけど」
ようやく名前を口にすると、かすみの視線が膝の上へ落ちた。
「うん」
「旅行に来て、楽しいの」
「うん」
「ルビアと一緒なのも楽しいし、温泉も気持ちいい。町を歩くのも面白い」
自分の指を見ながら、かすみは続ける。
「なのに、何をしてても譲のことが浮かぶの」
ルビアは小さく頷いて、続きを促した。
「昨日も料理を食べてたら、これ譲が好きそうだなって思ったし、お店に行ったら、これを見せたらどういう顔するかなって考えてた」
「うん」
「帰ったら話したいことも、どんどん増えてく」
かすみは少し困ったように笑った。
「わたし、おかしいのかな」
「どうして?」
「だって、たった数日離れてるだけなのに」
言ってしまえば、本当にそれだけだった。
何年も会えないわけではない。どちらかが危険な場所へ行っているわけでもない。数日経てば、また顔を合わせる。
その数日が、こんなに長い。
「……今まで、こんなことなかったの」
「譲と離れたこと?」
「うん」
「再会してから?」
「うん」
かすみは頷いた。
「ずっと一緒だったから」
口にしてみると、その短い言葉の中に、思っていた以上にたくさんの時間があった。
前の人生では親子だった。あの頃の自分は母親で、譲は幼い息子だった。今の二人に血の繋がりはない。
それでも再び出会ってから、いつの間にか同じ家で暮らし、家事をして、仕事へ出かけ、同じ食卓で食事をするようになった。
何でもない一日を、いくつも重ねてきた。
あまりにも自然だったから、考える必要がなかった。
譲が自分にとって何なのか。
かすみは初めて、そのことを考えていた。
「ねえ、ルビア」
「なに?」
「わたしと譲って……」
そこから先が出てこない。
少し迷って、ようやく尋ねた。
「どう見える?」
ルビアはすぐには答えなかった。庭の木々へ一度目を向け、それからかすみを見る。
「仲がいい」
「それだけ?」
「それ以上を、聞きたい?」
かすみは指先で膝をなぞった。
自分から尋ねておきながら、何を言ってほしかったのか分からない。ルビアはそんなかすみを見て、少しだけ笑った。
「あたしが決めつけることじゃないと思う」
「……そっか」
「かすみがどう思っているか。それが一番大事じゃない?」
かすみは俯いた。
自分が、どう思っているか。
譲は大切だ。それだけなら迷うことはない。一緒にいると安心する。声を聞けば落ち着く。何かあれば一番に伝えたくなる。離れてみて初めて、いないというだけで日々のあちこちに小さな空白ができることも知った。
それでも、まだ何かが残る。
大切だから。それだけで全部を説明してしまうと、どこか違う気がした。
「……昔は、母親だったんだよね」
かすみがぽつりと言った。
「うん」
ルビアは静かに頷く。
「だから、今でもどこかで、そういう気持ちが残ってるんだと思ってた」
「そうかもしれないね」
「でも……」
かすみはそこで言葉を止めた。
庭を抜けてきた風が、膝の上に置いた指先を撫でていく。
「今の譲は、昔のあの子とは違う」
自分の口から出た言葉を聞いた途端、胸のあたりがわずかに騒いだ。
「わたしも、昔のわたしじゃない」
ルビアは口を挟まなかった。その沈黙があったから、かすみはもう少しだけ先まで話せた。
「今のわたしは、譲と一緒にいるとき、昔とは違う気持ちになることがある」
ルビアは少し待ってから、静かに尋ねた。
「昔とは違う気持ちって、たとえばどんなとき?」
かすみは膝の上の指を見た。思い浮かぶことは、いくつもあった。
朝、台所で包丁を動かしている譲の背中。「なんだそれ」と笑う声。買い物の荷物を、いつも当たり前のように持ってくれること。
それから、ザルグレスと戦ったあとのこと。
「譲が、ザルグレスに、『どんな敵からも、絶対にかすみを守って』って頼んだの。そのあと、わたしの手を取って、『次は、一人で行かないで』って」
「うん」
「わたし、『ごめんね』としか言えなかった。……でもね、あのとき、嬉しかったの。心配させて申し訳ないのとは、ちょっと違う嬉しさだった」
言葉にすると、今まで曖昧だったものが急に近くへ寄ってきたような気がした。
母親だった頃には知らなかったもの。
今の自分だから感じているもの。
そこまで分かったのに、その先にある言葉だけが見つからない。
口には出さなかったことが、もう一つあった。
あの日の昼、庭で、小さな手が小指を差し出した。「大きくなったらね、ママと結婚する!」。笑って、「約束ね」と答えた。その同じ日の夜に、あの子は連れていかれた。
「大きくなったあなたも見てみたい」とも言った。「楽しみにしてる」と。
見られなかった「大きくなったあの子」を、今の譲の中に見ているのなら、それは母親の気持ちのはずだった。けれど、あの約束まで一緒に思い出してしまう。
あの子の言葉に、わたしが応えようとしているだけなのかもしれない。
そうではないと言い切れるだけのものを、かすみはまだ持っていなかった。
譲には言えない。言えば、あの子の言葉を理由にしてしまう。知らない人生を、また押しつけることになる。
「でも、それが何なのか……まだ分からない」
「ちょっと意地悪な質問、してもいい?」
ルビアが言った。
「うん」
「譲が、かすみ以外の誰かを一番に選ぶ日が来たら、どう思う?」
かすみは答えようとして、言葉に詰まった。
ご飯を食べて、眠って、誰かと笑って。そう願ったのは、自分だった。その願いが叶うのなら、喜ぶのが当たり前のはずだった。
「……喜ぶと思う」
そう言った声は、思っていたより小さかった。
ルビアは何も言わず、隣に座ったまま、かすみの肩へそっと寄り添った。
「分からなくてもいいんじゃない?」
「……いいのかな」
「うん。急いで名前をつけなくても、その気持ちはなくならないから」
かすみは黙っていた。
庭を風が通り抜け、木の葉が重なり合って音を立てる。少し前までなら気にならなかったその音を聞きながら、かすみは自分の中にあるものを無理に言葉へ押し込めるのをやめた。
しばらくして、小さく笑った。
「ルビアに話してよかった」
「あたしだから?」
「うん」
「どうして?」
かすみは少し照れたように視線を逸らした。
「……お姉ちゃん……みたいだから」
ルビアは一瞬だけ目を丸くした。
それから、柔らかく笑う。
「じゃあ、姉として一つだけ言っておく」
「なに?」
「帰ったら、ちゃんと譲の顔を見てみなさい」
かすみは顔を上げた。
「顔?」
「うん。今までと同じ顔に見えるかどうか」
その言葉を、かすみはすぐには飲み込めなかった。
今までと同じ顔。
毎朝見て、同じ食卓で向かい合い、出かければ隣にあった顔。あまりにも見慣れていたから、見るということさえ意識したことがない。
その顔を、帰ったらもう一度見る。
今までと同じように見えるのか。
かすみには、まだ分からなかった。
「……うん」
それでも頷いた。
「帰ったら、ちゃんと見てみる」
膝の上に置いていた手から、いつの間にか力が抜けていた。
帰る日はまだ先なのに、さっきまでより少しだけ、その日が待ち遠しかった。




