第60話「離れて、初めて」
ネブラ州での二日目は、朝から空が高かった。
宿を出ると、通りのあちこちから白い湯気が立ちのぼっている。昨日より人通りも多く、土産物を並べた店からは呼び込みの声が聞こえ、朝の町には昨日とは違う賑わいがあった。
「今日はどこから行く?」
かすみが尋ねる。
「まずは向こうの通り。昨日、気になる店があったでしょ?」
「そうだった」
二人は並んで歩き始めた。
店先には、この土地で作られた菓子や調味料、乾物などが所狭しと並んでいる。かすみはその中から一つの瓶を手に取った。蓋を開けるわけにもいかず、貼られたラベルを眺める。
「これ、何に使うんだろう」
「店の人に聞いてみたら?」
「そうする」
店員に尋ねると、料理に使う調味料だと教えてくれた。合う食材や使い方の説明を聞いているうちに、かすみの頭には出来上がった料理より先に、それを作っている譲の姿が浮かんだ。
これを持って帰ったら、何か作るだろうか。
そう思いながら、もう一度瓶を見る。
「買う?」
ルビアが聞いた。
「……うん」
「自分用?」
かすみは少し考えた。
「譲にも使ってもらいたい」
「そっか」
ルビアはそれだけ言った。
瓶を袋へ入れてもらい、二人は次の店へ向かった。菓子を買い、珍しい茶葉を見つけ、気になるものがあれば立ち止まる。そうして旅館へ戻る頃には、かすみの両手からいくつもの袋がぶら下がっていた。
「ずいぶん増えたね」
「……ほんとだ」
「自分のもの、少なくない?」
「そうかも」
言われて初めて、かすみは袋を見下ろした。
何を買ったのか一つずつ思い返してみる。調味料、菓子、茶葉。そのほかにもいくつかあるが、半分以上は帰ったあとに渡すつもりで選んだものだった。
買っているときには気づかなかった。
かすみは袋を見たまま、少し笑った。
昼食は昨日とは別の店に入り、窓際の席へ案内された。
料理が運ばれてくる。
「いただきます」
「いただきます」
ルビアと向かい合って食べながら、昨日入った温泉のことや、これから行く場所、朝に買った土産物の話をした。話題はいくらでもあり、会話が途切れて困ることもない。
料理を一口食べたとき、かすみの箸がわずかに止まった。美味しい、と口にしかけて気づく。いつもならその一言に返事をくれる相手が、今はここにいない。
かすみは何も言わず、また箸を動かした。
食後、二人は温泉へ向かった。
湯に身体を沈めると、歩き回っていた身体からゆっくりと力が抜けていく。露天風呂の向こうには昨日と同じ山々が見えていたのに、かすみには少し違う景色のように思えた。
「かすみ」
「ん?」
「眠そう」
「ちょっとね」
「寝てもいいよ」
「温泉で寝たら危ないでしょ」
「それもそうだね」
二人で笑った。
かすみは湯船の縁に身体を預け、目を閉じた。
湯の音がする。風が木々を揺らし、遠くから人の話し声が届いてくる。その一つ一つを聞いているうちに、そこに混じっていない声のことを考えていた。
目を開ける。
隣にはルビアがいる。
ルビアと二人で過ごす時間は楽しい。こうして旅行へ誘ってもらえたことも嬉しい。それなのに身体のどこかが、いつもの声を待っている。
かすみはもう一度、山を見た。
その日の夜、宿へ戻ると、買った土産物を一つずつ取り出して整理した。
「これは譲に渡して……これは……」
そこまで口にして、手が止まった。
並べられた土産物を見る。
まだ帰る日ではない。渡すのは先のことで、明日もここで過ごす。それなのに自分は、買ったときから帰ったあとのことばかり考えている。
かすみは瓶を一つ手にしたまま、しばらく眺めていた。
同じ頃、東の大陸の北端では、譲が岩場に腰を下ろしていた。
夕暮れの光が荒涼とした大地を横から照らし、長い影を岩肌へ落としている。ザルグレスとアウストラリスは少し離れたところで、明日の道について話していた。
譲は二人の声を聞きながら、遠くを眺めていた。
目の前に広がっているのは、どこを見ても知らない景色だった。岩の形も、地面の色も、吹いてくる風の匂いも、普段暮らしている土地とは違う。
そんな場所にいるのに、ふとした瞬間、頭に浮かぶのは見慣れたものばかりだった。
朝の台所。並んだ食器。出かける前に交わす短いやり取り。帰ってきたときの「おかえり」と「ただいま」。
どれも特別な出来事ではない。
「主殿」
「うん?」
ザルグレスがこちらを見ていた。
「明日は少し早く出るぞ」
「分かった」
譲は岩場から立ち上がり、二人のところへ戻った。
三人で宿へ向かう途中、道端に小さな花が咲いていた。
譲は足を止めた。
荒れた土地の岩の隙間から、小さな花が一輪だけ顔を出している。名前も知らない花だった。
しばらく眺めているうちに、何となく思った。
こういうものを見つけたら、いつもなら話していた。
ただ、それだけだった。
名前を知っているか尋ねるかもしれない。知らなければ二人で勝手なことを言いながら眺めて、そのまま忘れてしまうのかもしれない。
それだけのことが、今はずいぶん遠くにあった。
その夜も、譲はなかなか眠れなかった。忘れているものなどない。むしろ逆で、忘れられないものが一つだけ、何度も頭へ戻ってきた。
同じ頃、ネブラ州の宿でも、かすみはまだ眠れずにいた。
窓の外から入ってくる夜風が障子をわずかに揺らしている。かすみは布団の中で寝返りを打ち、明日のことを考えた。
明日になれば、またルビアと出かける。
きっと楽しい。
そう思っているのに、その先まで考えてしまう。
帰ったら、最初に何を話そう。
温泉のこと。買ったもののこと。今日見た景色のこと。料理のことも話したい。思い返してみれば、譲に話したいことはいくつもあった。
かすみは目を閉じた。
話したいことを一つ思い出すたび、その向こうに譲の顔が浮かぶ。
離れるまで、こんなことを考えたことはなかった。
毎日隣にいたから、話したいと思う前に話せた。見せたいと思う前に同じものを見ていた。帰りたいと思うより先に、二人で同じ家へ帰っていた。
今は、そのどれもできない。
かすみは眠りにつくまで、帰ったら話そうと思うことを胸の中で一つずつ並べていた。




