第59話「冥界に最も近い大地」
東の大陸を北へ進むほど、空が広くなっていった。
街道の両側に続いていた木々はいつの間にか疎らになり、なだらかな丘の向こうには乾いた岩山が幾重にも連なっている。風を遮るものがほとんどないため、歩いているだけで衣服の裾が絶えず煽られた。
譲は風に目を細めながら、その景色の中を歩いていた。
「本当に、こんなところまで来るとはな」
隣を歩くザルグレスが遠くの山を見ながら言う。
「来たことなかった?」
「ない。わざわざ用事もないのに北の果てまで来る理由がないからな」
「ぼくも同じだよ」
譲が言うと、後ろからアウストラリスが口を挟んだ。
「なら、今回はいい機会だったということだ」
「そういうこと」
譲は笑った。
今回の旅には、大きな目的があるわけではない。せっかくなら普段行かない場所へ行ってみよう。そんな話をしているうちに、東の大陸の北端まで足を延ばすことになった。
そこは、冥界に最も近い大地と呼ばれている。
三人は道中の町で何度か足を止めた。小さな食堂を見つければ昼食を取り、宿があれば早めに休む。ザルグレスが気になる店を見つければ立ち寄り、アウストラリスが珍しいものに目を留めれば、三人で眺めながら好きなことを言い合った。
特別なことは何も起こらない。それが譲には心地よかった。
普段の暮らしとは少し違う土地を、誰かに急かされることもなく歩いていく。決められた予定もない。見つけたものについて話し、疲れれば休み、また歩きたくなったら歩く。それだけで一日は思ったより早く過ぎていった。
夕方近く、道の向こうに白いものが見えた。
遠目には低い雲のようだったものが、近づくにつれて形を変えていく。地面のあちこちから噴き出した蒸気が風に流され、岩肌を白く覆っていた。
「温泉か?」
ザルグレスが目を細める。
「この辺りは地下の熱が強いらしい」
アウストラリスが答えた。
「ネブラ州とは、また違うんだな」
「ネブラ州?」
譲が聞き返した。
「いや、かすみたちが今いるところだ」
譲の足が一度だけ止まった。
「……そうだったね」
すぐにまた歩き出す。
「どうした?」
「ううん。なんでもないよ」
ザルグレスはそれ以上聞かなかった。
北へ進むにつれて、空気は冷たくなった。陽が傾けば岩山の影が長く伸び、日が沈んだあとは昼間と同じ風が別のもののように冷たく感じられる。
その夜、三人は小さな集落にある宿へ泊まった。
食堂には、この土地で採れた野菜と肉を使った料理が並んでいた。
「腹が減ったな」
席につくなり、ザルグレスが言った。
「昼からずっと歩いてたからね」
譲も腰を下ろす。
アウストラリスが料理を取り分け、三人は食事をしながら明日の話をした。このまま進めば北端まではもう遠くない。天気さえ崩れなければ、昼過ぎには目的の場所まで行けそうだった。
話を聞きながら料理へ箸を伸ばしていた譲の手が、ふと止まった。
焼いた肉に、少し癖のある香草が添えられている。
その香草を見ているうちに、家の食卓が浮かんだ。
かすみなら、たぶん最初に匂いを嗅ぐ。それから少し首を傾げて、「これ何?」と聞くだろう。知らない料理を見つけたときの、ほんの少し興味深そうな顔まで簡単に思い出せた。
「……」
「主殿?」
「え?」
「食べないのか?」
「食べるよ」
譲は箸を動かし、肉を口へ運んだ。
美味しかった。
香草の癖も肉によく合っている。もう一口食べても味は変わらないのに、先ほど浮かんだ食卓だけは、なぜかそのまま頭に残っていた。
食事を終えて部屋へ戻り、三人はそれぞれ布団に入った。
窓の外では風が鳴っている。岩山から吹き下ろしてくる風なのか、ときおり窓が小さく震えた。普段暮らしている場所では聞いたことのない音だった。
譲は目を閉じる。
今日は長い一日だった。知らない土地を歩き、知らない景色を見て、ザルグレスとアウストラリスといろいろな話をした。気づけば夕方になっていたくらいなのだから、楽しかったのだと思う。
眠ろうとすると、昼間には気にならなかったことが一つずつ浮かんできた。
朝になれば、かすみが先に起きていることがある。自分が先なら朝食を作り始め、しばらくすれば足音が近づいてくる。食事をしていれば向かいから声が聞こえ、出かければ気づいたときには隣を歩いている。
譲は目を開けた。
暗い天井がある。
いつもの天井ではない。当たり前のことなのに、しばらく見つめてしまった。
ここは東の大陸の北端に近い土地で、かすみがいるのは遠く離れたネブラ州。それだけのことだった。
もう一度、目を閉じる。
窓が風に鳴った。
しばらくすると、また鳴った。
譲は眠れないまま、その音を何度も聞いた。
翌朝、宿を出ると、昨日までの風が嘘のように空は澄んでいた。遠くに連なる山々の輪郭までくっきりと見え、その向こうへ行けば、もう北端は近い。
「行くか」
ザルグレスが言った。
「うん」
譲は荷物を背負い、二人とともに北へ向かって歩き始めた。
その先にあるのは、冥界に最も近い大地。さらに向こうには、まだ一度も見たことのない景色がある。
譲は前を向いて歩いた。
風が吹くたび、三人分の衣服が揺れる。
その中に聞き慣れたもう一人分の足音がないことを、譲は歩きながら何度も聞いていた。




