第58話「ネブラ州、湯けむりの休日」
船がネブラ州へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
山あいに広がる町のあちこちから、薄い湯けむりが立ちのぼっている。風には硫黄の匂いが混じり、通りに並ぶ木造の建物には温泉宿の看板が掛けられていた。人通りはあるものの騒がしさはなく、山に囲まれた町には、外から来た者まで自然と歩みを緩めてしまうような静けさがあった。
「思ってたより静かだね」
かすみが辺りを見回す。
「いいじゃん。たまにはこういうところも」
隣でルビアが笑った。
二人が泊まる宿は、町の奥にある小さな旅館だった。華やかな飾りこそないものの、長い年月を経た木造の建物には古びたというより馴染んだ趣があり、庭には一本の大きな木が枝を広げている。
部屋へ荷物を置くと、かすみはすぐに窓を開けた。山から下りてきた風が入り込み、歩いて火照った頬を撫でていく。
「気持ちいい……」
「でしょ?」
「うん」
二人はそのまま縁側に座った。
何かをするでもなく、庭を眺めながら湯飲みを手にして過ごす。普段なら、この時間にも何かしら用事があった。冒険者の依頼へ出ていることもあれば、家事が残っていたり、夕食の買い物へ行ったりすることもある。
ところが今日は、急いで済ませるものも、帰るまでに終わらせておくものもない。
何もしなくていい時間というものが、かすみには少し不思議だった。
「かすみ、暇?」
「ううん」
「本当に?」
「うん。なんか……何もしないのも悪くないね」
「それでいいんだよ」
ルビアは湯飲みを傾けながら、満足そうに笑った。
夕方になると、二人は温泉へ向かった。
湯船に身体を沈めた途端、かすみの肩から力が抜ける。温かな湯が首もとまで満ちてくるのを感じながら、思わず長い息を吐いた。
「……これはいい」
「でしょ?」
「ルビア、よく知ってたね」
「前に一度来たことがあるの」
「そうなんだ」
露天風呂の向こうには、夕暮れの山々が連なっていた。赤みを帯びていた空が少しずつ紫へ変わり、遠くの稜線もやがて夜の色へ溶けていく。
かすみは肩まで湯に浸かったまま、その移り変わりを眺めていた。
こういう景色を見つけると、いつもなら隣にいる誰かへ何気なく話しかけている。綺麗だね、とか、あの山はどこまで続いているんだろう、とか。答えが欲しいわけでもない、とりとめのない話をして、それからまた同じ景色を見る。
何気なく顔を横へ向けると、そこにはルビアがいた。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
「そう?」
ルビアはそれ以上聞かなかった。
夕食には、山の幸を使った料理が並んだ。焼いた魚に山菜、温泉卵。かすみは一つずつ箸を進めていたが、ふと目の前の料理に目を留めた。
「これ、譲が好きそう」
口にしてから、かすみ自身がわずかに目を瞬かせた。
向かい側では、ルビアが静かに笑っている。
「そうだね」
「……なんか、思い出すね」
「いつも一緒だからね」
「うん」
かすみはもう一口食べた。
美味しい。ルビアと向かい合って食べる夕食も楽しく、旅行へ来たことを後悔しているわけでもない。
それでも料理を見れば譲の好みを考え、景色を見れば隣へ言葉を投げようとする。
食後、二人は宿の庭を歩いた。
町の明かりが少ないせいか、夜空には普段より多くの星が見える。湯けむりの向こうにも細かな光が散らばり、庭に立つ大きな木の枝の隙間からも、いくつもの星が覗いていた。
「綺麗だね」
ルビアが空を見上げる。
「うん」
かすみも同じように顔を上げた。
しばらく二人とも何も言わなかった。葉を揺らす風の音が時折聞こえるくらいで、夜の町は静まり返っている。
やがて、かすみが小さく口を開いた。
「譲たち、今頃どこにいるかな」
「さあ。まだ旅の途中じゃない?」
「そっか」
それだけ言って、また空を見る。
「心配?」
ルビアが尋ねた。
「ううん。してない」
かすみはすぐに答えた。
「ザルグレスもアウストラリスもいるし、譲は強いから」
「だよね」
「うん」
答えながら、自分の中を確かめた。本当に心配はしていなかった。譲が怪我をするとも、帰ってこないとも思っていない。母親の気持ちなら、こういう夜は「無事でいてほしい」という形をしているはずだった。
今、胸にあるのはそれではなかった。
会いたい。
東の大陸の北端。冥界に最も近いと言われる場所。
どんな景色なのだろう。譲は今、何を見ているのだろう。
そこまで考えたところで、かすみは自分がまた譲のことを考えているのに気づき、小さく笑った。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「今日それ、二回目だよ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
ルビアも笑った。それ以上、何も聞かなかった。
その夜、布団に入ってからも、かすみはなかなか眠れなかった。
隣ではルビアがもう眠っている。障子の向こうからは夜風に揺れる木の葉の音が聞こえ、ときおり枝同士が触れ合う微かな音も混じった。
かすみは目を閉じた。
いつもなら、この時間にはもう一つの気配が近くにある。眠る前に何か話す日もあれば、何も話さないままそれぞれ眠ってしまう日もある。朝になれば声が聞こえ、起きれば顔を合わせる。それを特別なことだと思ったことはなかった。
今日は、その気配がない。
ただそれだけのことなのに、いつもより葉擦れの音がよく聞こえた。
かすみは一度、寝返りを打った。
明日は何をしよう。
せっかくルビアと二人で来たのだから、もっといろいろな場所を見てみたい。そんなことを考えているうちに、意識はゆっくりと眠りへ沈んでいった。
翌朝、窓の外には白い湯けむりが漂っていた。
「おはよう、かすみ」
「おはよう、ルビア」
「よく眠れた?」
「……うん」
ほんの少し間を置いてから、かすみは笑った。
「今日はどこ行こうか」
「昨日より楽しそうじゃん」
「せっかく来たんだから、いっぱい遊ばないと」
「そうこなくちゃ」
二人は笑いながら宿を出た。
朝の町には昨日と同じように湯けむりが立ちのぼっている。その白い煙の間を抜けながら、かすみはルビアと並んで歩いていった。
ネブラ州で過ごす休日は、まだ始まったばかりだった。




