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神々に願った、たった一つの愛  作者: 狹霧
第10章 「遠く離れて、近づいた心」
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第57話「たまには、母親にも休みが必要」

朝、かすみが目を覚ますと、隣の部屋から包丁の音が聞こえていた。

一定の間隔でまな板を叩くその音が誰のものなのか、眠気の残る頭で考えるまでもない。譲だ。かすみは布団の中でしばらく耳を澄ませていたが、やがて掛け布団を押し退けて起き上がった。

台所へ行くと、思った通り譲が朝食の支度をしていた。食卓では、朝早くから遊びに来たルビアが湯飲みを手にしている。まな板の上で野菜を切っていた譲の手が、かすみの足音に気づいて止まる。

「おはよう、かすみ」

「おはよう」

「まだ寝ててもよかったのに」

「譲だけ台所に立ってるの、なんか嫌だから」

「なんだそれ」

譲が小さく笑う。その隣へかすみも笑いながら入り、切り終えた野菜を鍋へ移した。譲が次の野菜へ手を伸ばす間に、かすみは火加減を見る。何をしてほしいとも、次に何をするとも言わない。それで困ったことは、もうずいぶん長いことなかった。

暮らし始めた頃は、逆だった。かすみが包丁を握り、譲が隣で野菜を洗っていた。いつの間にか、二人が台所に並ぶ位置が入れ替わっている。そのことに気づいたのは、今朝が初めてだった。

朝食を終えれば、今日は冒険者の仕事へ向かう。早く片づけば帰りに買い物をして、家へ戻ったら夕食を作る。特別な予定など何もない一日なのに、かすみはこういう日のほうが好きだった。

「今日はどこまで行く?」

「依頼次第かな。早く終わったら、帰りに買い物していこう」

「じゃあ、わたしが荷物持つ」

「いつもぼくが持ってるじゃん」

「今日はわたし」

「じゃあ、帰りに重いもの買おうか」

「それは嫌」

二人で笑っていると、食卓のルビアもつられるように口元を緩めた。

二人はいつも一緒だった。家事も冒険者としての仕事も、食事も、何気ない買い物も、どちらか一人だけで済ませようという発想がそもそもあまりない。外へ出るならもう一人もついていく。それを約束したことなど一度もないのに、長い時間をかけて二人の暮らしはそういう形になっていた。

ルビアには、その近さが悪いものには見えなかった。むしろ、ようやく手に入れたものなのだろうと思っている。

それでも、いつも同じ景色を二人で見る必要まではない。ほんの少し離れて、それぞれ違うものを見て、それからまた同じ家へ帰ってくる。そんな時間があってもいいのではないかと、以前から考えていた。

朝食の片付けが終わった頃、ルビアはかすみに声をかけた。

「ねえ、かすみ」

「なに?」

「今度、温泉行かない?」

「温泉?」

「うん。ネブラ州に、いいところがあるんだって」

かすみは手を止めた。

ネブラ州。温泉。旅行。

頭の中でそれぞれの言葉を並べているうちに、視線は自然と譲へ向かっていた。

「譲も行く?」

あまりにも迷いのない言葉に、譲が目を瞬かせる。ルビアは予想通りの答えを聞いたように、くすりと笑った。

「そう言うと思った」

「だって、いつも一緒だし」

「うん。知ってる」

ルビアは笑ったまま、かすみを見た。

「でも今回は、かすみと二人で行きたいな」

すぐには返事が出なかった。かすみが隣を見ると、譲もこちらを見ている。

「ぼくは大丈夫だよ」

「……ほんと?」

「うん。たまにはぼくも、ザルグレスたちと出かけてみようかな」

「それなら、いいかも」

そう答えたあとも、かすみの目はもう一度だけ譲へ向かった。

何か心配なことがあるわけではない。譲なら一人でも困らないし、今回はザルグレスたちもいる。それなのに、旅行という言葉を聞いた瞬間、自分の行き先に譲がいないということを考えていなかった。そのことのほうが、かすみには少し妙だった。

「たまには母親にも休みが必要でしょ」

ルビアの声に、かすみは目を丸くした。やがて、その言葉を自分の中で確かめるように小さく笑う。

「……じゃあ、行こうかな」

「決まりだね」

その日のうちに、それぞれ旅の準備を始めた。

かすみとルビアはネブラ州へ。譲はザルグレスとアウストラリスとともに、東の大陸の北端へ向かう。そこは冥界に最も近いと言われている土地だった。

出発の朝、荷物を背負ったかすみが玄関を出ると、隣ではルビアがすでに準備を終えて待っていた。

「忘れ物ない?」

「大丈夫」

答えながら、かすみは譲を見る。

「じゃあ、行ってくるね」

「うん。気をつけて」

「譲もね」

見送る側に立つのは、譲にとって初めてのはずだった。それなのに、玄関で誰かの背中を見送った朝を、なぜか知っている気がした。

いつもなら、ここから二人で同じ方向へ歩いていく。

今日は、かすみの隣にルビアがいる。

二人で歩き始め、家から何歩か離れたところで、かすみは一度だけ振り返った。譲はまだ玄関先に立っている。目が合うと、小さく手を振った。

かすみも手を振り返し、前を向く。

「楽しみだね」

隣からルビアの声がした。

「うん」

返事をして、しばらく歩いたところで、かすみは何気なく隣を見た。

ルビアがいる。

もちろん、それで正しい。今日はルビアと二人で旅行へ行くのだから、隣に譲がいないことに何の不思議もない。

かすみは何も言わず、また前を向いた。

港へ続く道は見慣れた道で、遠いわけでもないのに、今日はいつもより少しだけ長く感じられた。


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