第57話「たまには、母親にも休みが必要」
朝、かすみが目を覚ますと、隣の部屋から包丁の音が聞こえていた。
一定の間隔でまな板を叩くその音が誰のものなのか、眠気の残る頭で考えるまでもない。譲だ。かすみは布団の中でしばらく耳を澄ませていたが、やがて掛け布団を押し退けて起き上がった。
台所へ行くと、思った通り譲が朝食の支度をしていた。食卓では、朝早くから遊びに来たルビアが湯飲みを手にしている。まな板の上で野菜を切っていた譲の手が、かすみの足音に気づいて止まる。
「おはよう、かすみ」
「おはよう」
「まだ寝ててもよかったのに」
「譲だけ台所に立ってるの、なんか嫌だから」
「なんだそれ」
譲が小さく笑う。その隣へかすみも笑いながら入り、切り終えた野菜を鍋へ移した。譲が次の野菜へ手を伸ばす間に、かすみは火加減を見る。何をしてほしいとも、次に何をするとも言わない。それで困ったことは、もうずいぶん長いことなかった。
暮らし始めた頃は、逆だった。かすみが包丁を握り、譲が隣で野菜を洗っていた。いつの間にか、二人が台所に並ぶ位置が入れ替わっている。そのことに気づいたのは、今朝が初めてだった。
朝食を終えれば、今日は冒険者の仕事へ向かう。早く片づけば帰りに買い物をして、家へ戻ったら夕食を作る。特別な予定など何もない一日なのに、かすみはこういう日のほうが好きだった。
「今日はどこまで行く?」
「依頼次第かな。早く終わったら、帰りに買い物していこう」
「じゃあ、わたしが荷物持つ」
「いつもぼくが持ってるじゃん」
「今日はわたし」
「じゃあ、帰りに重いもの買おうか」
「それは嫌」
二人で笑っていると、食卓のルビアもつられるように口元を緩めた。
二人はいつも一緒だった。家事も冒険者としての仕事も、食事も、何気ない買い物も、どちらか一人だけで済ませようという発想がそもそもあまりない。外へ出るならもう一人もついていく。それを約束したことなど一度もないのに、長い時間をかけて二人の暮らしはそういう形になっていた。
ルビアには、その近さが悪いものには見えなかった。むしろ、ようやく手に入れたものなのだろうと思っている。
それでも、いつも同じ景色を二人で見る必要まではない。ほんの少し離れて、それぞれ違うものを見て、それからまた同じ家へ帰ってくる。そんな時間があってもいいのではないかと、以前から考えていた。
朝食の片付けが終わった頃、ルビアはかすみに声をかけた。
「ねえ、かすみ」
「なに?」
「今度、温泉行かない?」
「温泉?」
「うん。ネブラ州に、いいところがあるんだって」
かすみは手を止めた。
ネブラ州。温泉。旅行。
頭の中でそれぞれの言葉を並べているうちに、視線は自然と譲へ向かっていた。
「譲も行く?」
あまりにも迷いのない言葉に、譲が目を瞬かせる。ルビアは予想通りの答えを聞いたように、くすりと笑った。
「そう言うと思った」
「だって、いつも一緒だし」
「うん。知ってる」
ルビアは笑ったまま、かすみを見た。
「でも今回は、かすみと二人で行きたいな」
すぐには返事が出なかった。かすみが隣を見ると、譲もこちらを見ている。
「ぼくは大丈夫だよ」
「……ほんと?」
「うん。たまにはぼくも、ザルグレスたちと出かけてみようかな」
「それなら、いいかも」
そう答えたあとも、かすみの目はもう一度だけ譲へ向かった。
何か心配なことがあるわけではない。譲なら一人でも困らないし、今回はザルグレスたちもいる。それなのに、旅行という言葉を聞いた瞬間、自分の行き先に譲がいないということを考えていなかった。そのことのほうが、かすみには少し妙だった。
「たまには母親にも休みが必要でしょ」
ルビアの声に、かすみは目を丸くした。やがて、その言葉を自分の中で確かめるように小さく笑う。
「……じゃあ、行こうかな」
「決まりだね」
その日のうちに、それぞれ旅の準備を始めた。
かすみとルビアはネブラ州へ。譲はザルグレスとアウストラリスとともに、東の大陸の北端へ向かう。そこは冥界に最も近いと言われている土地だった。
出発の朝、荷物を背負ったかすみが玄関を出ると、隣ではルビアがすでに準備を終えて待っていた。
「忘れ物ない?」
「大丈夫」
答えながら、かすみは譲を見る。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん。気をつけて」
「譲もね」
見送る側に立つのは、譲にとって初めてのはずだった。それなのに、玄関で誰かの背中を見送った朝を、なぜか知っている気がした。
いつもなら、ここから二人で同じ方向へ歩いていく。
今日は、かすみの隣にルビアがいる。
二人で歩き始め、家から何歩か離れたところで、かすみは一度だけ振り返った。譲はまだ玄関先に立っている。目が合うと、小さく手を振った。
かすみも手を振り返し、前を向く。
「楽しみだね」
隣からルビアの声がした。
「うん」
返事をして、しばらく歩いたところで、かすみは何気なく隣を見た。
ルビアがいる。
もちろん、それで正しい。今日はルビアと二人で旅行へ行くのだから、隣に譲がいないことに何の不思議もない。
かすみは何も言わず、また前を向いた。
港へ続く道は見慣れた道で、遠いわけでもないのに、今日はいつもより少しだけ長く感じられた。




