第67話「御者という仕事」
翌朝、ザルグレスは宿の窓から差し込む淡い光で目を覚ました。
町はまだ完全には動き始めていない。遠くで荷車の車輪が石畳を擦り、厩のほうから馬の鼻息が時折聞こえてくる。
普段なら、こんな時間に目を覚ましてもそのまま寝直していただろう。これまで彼にとって朝とは、戦いがあるなら支度をし、何もなければ急いで起きる必要もない、ただそれだけの時間だった。
今日は眠気より先に身体が動いた。
宿を出て厩へ向かうと、ルビアが一頭の馬の前に立っていた。毛並みに手を滑らせ、首筋へ触れたあと、耳の動きや呼吸を確かめている。
「早いね」
「ルビアこそ」
「あたしはいつもこんな感じ。御者の仕事は、馬が元気じゃないと始まらないから」
そう言って、ルビアは馬の首筋を軽く撫でた。
ザルグレスも同じように手を伸ばす。掌に触れた身体は大きく、朝の冷えた空気の中でも温かかった。戦場で向き合ってきた魔物とは違い、こちらを敵とも味方とも判断する様子はなく、触れられるまま静かに立っている。
「何を見ている?」
「いろいろ。歩き方とか、食欲とか、呼吸とか。昨日と違うところがないかを見るの」
「見ただけで分かるのか?」
「全部は分からないよ。でも、毎日見てれば小さな違いには気づける」
ザルグレスは馬の顔を見た。
昨日から同じ馬車で旅をしていた。それでも、この馬の耳がどのように動き、どんな呼吸をしていたのかまでは覚えていない。
そのとき、荷物を抱えた商人が厩へ入ってきた。中年の男で、旅装はところどころ擦れている。抱えてきた木箱を馬車のそばへ置くと、紐を引いて緩みを確かめ、荷札へ目を落とした。それが済むと次の箱にも同じことを繰り返す。
「そんなに念入りに見るのか」
ザルグレスが尋ねると、商人は作業の手を止めずに笑った。
「そりゃ見るさ。中身が壊れてたら困るからな」
「武器でもないのに?」
「武器じゃないからこそ、だよ」
商人は箱を軽く叩いた。
「これが届くのを待ってる人がいる。向こうには向こうの都合がある。俺が雑に扱えば、その人たちが困るんだ」
ザルグレスは木箱へ目を落とした。
外から見れば、どこにでもある箱だった。何が入っているのかさえ知らない。商人の言葉を聞いても、その先で待っているという人間の顔は浮かばなかった。
ただ、この箱がここにあるだけで終わるものではないことは分かった。
ザルグレスはそれ以上尋ねず、荷物を積んでいく商人の手元をしばらく見ていた。
準備が整うと、ルビアが御者台へ腰を下ろした。ザルグレスも隣へ座り、馬車は朝の町を抜けていく。冷たい空気が頬を撫で、街道の両側に広がる畑には夜露が残っていた。
しばらく進んだところで、ルビアが手綱を差し出す。
「やってみる?」
ザルグレスは少し驚いたものの、そのまま受け取った。
「これだけでいいのか?」
「強く引きすぎないで。馬が嫌がったら、ちゃんと分かるようにしてあげて」
手綱を握る。
昨日、御者の手元を見ていたときには簡単そうに思えた。ところが自分で握ってみると、剣や槍とはまるで違う。武器なら力を込めれば、その力はそのまま動きになる。手綱は強く引けばいいわけではなく、指先へ余計な力を入れるだけで馬の首がわずかに動いた。
ザルグレスは手の力を緩める。
馬の歩調が戻った。
「……難しいな」
「でしょ?」
ルビアは楽しそうだった。
街道を進んでいると、前方に長い上り坂が見えてきた。傾斜に差しかかるにつれて馬の足取りが少しずつ遅くなる。
ザルグレスはその脚を見る。
「この程度なら、もう少し速くできる」
「できるけど、しないで」
「なぜだ?」
「少し疲れてるから」
ザルグレスは坂を見上げた。
「勢いをつければ登れる」
「登れるよ。でも、そのあとも走らなきゃいけないでしょ?」
ルビアは馬の耳を見ながら続ける。
「今日だけなら無理をさせても進める。でも旅は今日だけじゃない。今進めることと、進ませていいことは違うよ」
ザルグレスは手綱を握ったまま黙った。
戦いでは、力を出せば状況を変えられることが多かった。敵が強ければ、それを上回ればいい。速さが足りなければ、さらに速く動けばいい。自分にできることを、できる限りやる。それを疑ったことはほとんどない。
馬を見た。
息を切らしているわけでも、歩けなくなっているわけでもない。もっと速く走らせることも、おそらくできる。
だから走らせる。
昨日までなら、その二つの間に何かがあるとは考えなかっただろう。
ザルグレスは手綱を少し緩めた。
馬は歩調を変えず、一歩ずつ坂を上っていく。
「そうそう」
隣でルビアが笑った。
それ以上は何も言わなかった。
坂を越えたところで、先ほどの商人が荷台から御者台へ顔を出した。
「助かったよ。馬を休ませながら進めたほうが、結局は早く着くからな」
「そうなのか?」
「そうさ。旅は一人でやるもんじゃないからな」
商人はそれだけ言うと、荷台へ戻っていった。
ザルグレスは手綱を持ったまま、その背中を見送った。
一人でやるものではない。
これまで彼は、一人で戦えることを強さだと思っていた。誰かの助けを必要とせず、自分の力だけで敵を倒せるなら、それほど確かなものはない。
この旅では、その考えだけではどうにもならないことが次々に現れる。
馬の体調はルビアや御者のほうがよく分かる。荷物については商人が知っている。どの道を通り、どこで休ませるべきなのかにも、それぞれ知っている者がいる。
ザルグレスはその誰よりも強い。
その事実と、自分より彼らのほうが知っていることがあるという事実は、何も矛盾していなかった。
以前なら、そう認めることに少しくらい苛立ったかもしれない。
今は商人の言葉を聞いて、そういうものなのかと思っただけだった。
午後になると、休憩のため馬車を止め、荷物を積み直すことになった。
ザルグレスも荷台へ上がり、木箱を持ち上げる。彼にとっては何の重さも感じないような箱だったが、勝手に置こうとすると商人から声が飛んだ。
「そこ、少しだけ右」
言われたとおりに動かす。
「そう、それでいい」
「これで何が変わる?」
「道が悪いところで倒れにくくなる」
ザルグレスは置いた箱と、その隣の箱を見比べた。
わずかに位置が変わっただけに見える。ところが商人は次の箱との隙間を確かめ、揺らしてから頷いた。
言われてみれば単純なことだった。
荷物を持ち上げるだけなら、自分一人で全部運べる。馬車が動かなくなれば押すこともできるだろう。それほどの力を持っていても、どこに箱を置けば崩れにくいのかは、尋ねなければ分からなかった。
「次は?」
ザルグレスが尋ねる。
商人が少し驚いた顔をしたあと、別の箱を指した。
「じゃあ、そいつをこっちへ頼む」
「ああ」
作業を終える頃には、太陽が西へ傾き始めていた。
再び走り出した馬車の荷台で、ザルグレスは端に腰を下ろし、街道の先を眺めていた。
戦うために出た旅ではない。
朝から剣を抜いてもいない。
それでも退屈ではなかった。
厩で見た馬の耳、荷札を確かめていた商人の手、初めて握った手綱の感触。自分なら気にも留めなかったようなことを、誰かが当たり前のように知っている。
知らないことが見つかるたび、次は何なのだろうと思う。
御者台のルビアへ目を向けた。
「明日も、我がやってもいいか?」
口にしてから、ザルグレス自身が少しだけ驚いた。
ルビアは何も言わず、振り返って笑いながら頷いた。
夕暮れが近づく頃、馬車は宿場へ入った。
馬が止まると商人たちは荷物を下ろし始めたが、ザルグレスはすぐには荷台へ向かわなかった。朝と同じように馬のそばへ立ち、その身体を見る。
耳の動き。
呼吸。
脚の運び。
朝にルビアから教えられたことを、一つずつ思い返す。
すべて分かるわけではない。
それでも朝より呼吸が深く、立っている脚にも少し重さがあるように見えた。
「……疲れているのか」
馬が鼻を鳴らした。
ザルグレスは首筋へ手を置いた。朝と同じ温かさが掌に伝わってくる。
「今日は、よく走ったな」
馬の首を一度撫でる。
「明日も頼む」
少し離れたところで、ルビアがその様子を見ていた。
ザルグレスが振り返ると、ルビアは何も言わず、ただ笑っていた。




