第56話「跪く戦神」
戦場から、音が消えていた。
つい先ほどまで二本の聖剣と四つの武器がぶつかり、魔法が飛び交っていた場所とは思えないほどの静けさだった。かすみも動かず、ザルグレスも動かない。二人の視線の先では、譲が何が起きているのか分からないような顔で空中に浮かんでいる。
ザルグレスは、その少年から目を離せなかった。四本の手に握った武器の重さだけが、急にはっきりと感じられた。
戦うつもりもなく、かすみを見つけて喜んでいる。その無防備な姿を前に、自分の力を置く場所さえ分からなかった。
恐怖している。
そのことを認めるのに、ためらいはなかった。
長い年月を生き、数え切れないほどの強者と刃を交えてきた。どれほど強い相手でも、戦えば少しずつ輪郭が見えた。先ほどまで戦っていたかすみもそうだった。
譲には、その手掛かりさえなかった。比べようとしても、比べるための物差しそのものが見つからない。
勝てるのか。
そんな問いすら浮かばなかった。
問いにするためには、少なくとも相手のいる場所が見えていなければならない。
ザルグレスは、ゆっくりと四本の腕を下ろした。
巨大な剣が手から離れ、大地へ落ちた。重い音が静かな戦場に響く。続いて槍が落ち、戦斧が転がり、最後の刃もその手を離れた。
四本の手が空になる。
ザルグレスは自分の手を見つめた。
強者を求め、何千年ものあいだ武器を握り続けてきた手だった。
その手を下ろし、ザルグレスは膝をついた。
「……え?」
かすみが目を見開いた。
譲も驚いたようにザルグレスを見下ろしている。
遠見の水晶の前でも、誰も言葉を発することができなかった。
各国の精鋭部隊を次々と退けた大悪魔。
かつて神々と戦い、その末に封印された戦神。
そのザルグレスが自ら武器を捨て、一人の少年の前に膝をついている。
ザルグレスは深く頭を下げた。
「……我は、お前に従う」
先ほどまで戦場を揺らしていた声とは違っていた。相手を挑発する響きも、自らの力を誇示するような荒々しさもない。
「我は、かつて戦神と呼ばれた。武神とも、闘神とも呼ばれた。長い年月、我は強さを求めて戦い続けた」
譲は何も言わずに聞いている。
「だが、お前を見て分かった。我が知っていた強さというものが、世界のすべてではなかった」
ザルグレスは顔を上げた。
その目には、まだ畏れが残っていた。
同時に、別のものもあった。
神の座を捨ててまで求め、天界、人間界、魔界を渡り歩いても見つけられなかったもの。その果てがどこにあるのかさえ分からないまま戦い続けてきた男が、初めて自分の知る強さの外側を見ていた。
「だから我は、お前に忠誠を誓う」
譲は、しばらくザルグレスを見つめていた。
突然現れた男が、突然自分の前に跪き、忠誠を誓うと言っている。戸惑いはしているらしい。それでも譲はやがて小さく頷いた。
「……分かった」
短い返事だった。
ザルグレスは、もう一度深く頭を下げる。
「ありがとう、ございます」
その言葉に、かすみが少し驚いた顔をした。
先ほどまで自分と互角に武器をぶつけ合っていた男と同じ人物とは思えないほど、素直な言葉だった。
譲は少し考えるようにかすみを見た。
それから、ザルグレスへ視線を戻す。
「じゃあ、お願いがある」
「何なりと」
譲は迷わなかった。
「どんな敵からも、絶対にかすみを守って」
ザルグレスは一瞬だけ、かすみへ目を向けた。
二本の聖剣を手に、自分と互角に戦った勇者がそこにいる。
すぐに視線を譲へ戻した。
「……承知した」
ザルグレスは立ち上がらず、そのまま身体の向きをかすみへ変えた。
「一つだけ、お二人に伝えておきたいことがある」
「何?」
かすみが首を傾げる。
ザルグレスは周囲へ目を向けた。
この戦場で起きていることは、今も遠見の水晶を通して世界中へ映されている。そこで少し声を落とした。
「我の本当の名は……ザルグレスではない」
譲とかすみが黙って彼を見る。
「我の真名は――朧」
「朧……」
譲が、その名を口にした。
「はい」
朧は頷いた。
「だが、この名はお二人だけが知っていればいい。人前では、これまで通りザルグレスと呼んでくれ」
「分かった」
「うん。そうするね」
二人が頷く。
朧は譲とかすみの顔を見た。
世界中の人々が見ているのは、大悪魔ザルグレスが一人の少年へ忠誠を誓う姿だった。その名の内側にもう一つの名前があることを知ったのは、目の前にいる二人だけだった。
譲が改めて朧を見る。
「じゃあ……ザルグレス」
「はい」
「これから、かすみを守ってね」
「……承知した」
朧は深く頭を下げた。
やがて朧は頭を上げた。
その視線が、かすみへ向く。
『……いや』
何事もなかったように、かすみは地上へ降りた譲のそばに立っている。
つい先ほどまで自分と戦っていた勇者だ。
二本の聖剣で四本の武器を捌き、魔法を正面からぶつけても退かなかった。自分と互角に戦えるだけの力を持っている。
朧は黙ってかすみを見た。
『俺と互角に戦える勇者が苦戦する相手なんて、そうそういねえぞ』
そこまで考えて、少し間があいた。
『……これ、俺の仕事なくね?』
口には出せなかった。
つい今しがた、どんな敵からも絶対にかすみを守ると約束したばかりなのだから。
朧は何もなかったように姿勢を正した。
「……かしこまりました」
譲はそんな内心を知るはずもなく、かすみも何も言わない。
やがて譲が、かすみの手を取った。
「かすみ」
「なに?」
「次は、一人で行かないで」
かすみは少し目を見開いてから、小さく頷いた。
「……うん。ごめんね」
四本の腕を持つ大悪魔は、二人の前に静かに立っていた。




