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神々に願った、たった一つの愛  作者: 狹霧
第9章 「戦神ザルグレス」
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第53話「怒れる勇者」

夜になっていた。

静かな部屋で、譲は眠っていた。布団の中で小さく身体を丸め、規則正しい寝息を立てている。その傍らには、かすみが座り、声をかけることもなく寝顔を見つめていた。

しばらくして、かすみは手を伸ばした。指先で髪に触れ、そのままゆっくりと撫でる。

「……楽しみにしてたのにね」

返事はない。

譲は眠ったまま、触れられたことにも気づいていない。

お茶会の話をするたびに嬉しそうにしていた。当日には何を話そう、どんなお茶が出るのだろうと考えて、あと何日なのか何度も尋ねてきた。

そして今日、中止を知らされた。

「……残念だね」

そう言って俯いた譲の顔を、かすみは覚えている。

髪を撫でていた指が止まった。

穏やかな寝顔だった。

その顔を見つめているうちに、かすみの表情から少しずつ柔らかさが消えていく。

「……譲を悲しませた」

声は小さかった。

かすみは立ち上がった。

胸の奥に押し込めていたものが、沸々と熱を持ち始めていた。世界が混乱していることも、貴族たちがお茶会を中止せざるを得なかったことも分かっている。

それでも、譲はあんなに楽しみにしていた。

眠っている譲を起こさないよう足音を抑え、かすみは部屋を出ようとした。扉に手をかけたところで足を止め、一度だけ振り返る。

「少しだけ、行ってくるね」

返事はなかった。

譲は変わらず眠っている。

かすみは扉を静かに閉めた。

家の外へ出た瞬間だった。

辺境の空気が大きく震えた。

かすみの身体から放たれた巨大な魔力が一気に周囲へ広がり、庭の草木が同じ方向へなぎ倒されるように揺れた。地面に転がっていた小石が細かく震え、近くにいた者たちは突然の異変に足を止める。

「なんだ……?」

誰かが空を見上げたときには、もうそこにかすみの姿はなかった。

凄まじい速度で、ザルグレスのいる場所へ向かっていた。

地上を走っているのか、空を飛んでいるのかさえ目では追えない。夜の中を巨大な魔力反応だけが移動し、彼女が通り過ぎたあとには草木が激しく揺れていた。

「待っててね、譲」

その声も、すぐに遠ざかっていった。

ザルグレスの復活による混乱が続く世界で、ほどなく新たな異変が観測された。

「なんだ、あの速度は!?」

各国で魔力の動きを監視していた魔導師たちが、一斉に反応した。

「魔力反応が急速に移動している!」

「どこへ向かっている!?」

記録を取る間にも位置が変わる。照合を続けていた魔導師の一人が、その進路に気づいて息を止めた。

「……ザルグレスのところだ」

その報告が伝わると、各地に緊張が走った。

神々によって封印されていた大悪魔が復活し、すでにいくつもの精鋭部隊が敗れている。そのザルグレスへ向かって、正体不明の巨大な魔力が信じられない速度で近づいている。

各国が状況を見守る中、世界各地の遠見の水晶が次々と起動していった。

遠く離れた場所で起きている出来事を映し出す魔導具。その水晶の向こうに、広大な戦場が映し出される。

中央には、すでに一人の男が立っていた。

ザルグレス。

かつて戦神と呼ばれ、今では大悪魔として恐れられている存在だった。

遠見の水晶にその姿が映ると、各地で見守っていた人々の声が小さくなった。

「……あれが、ザルグレス」

「神々に封印された大悪魔……」

古い文献や伝説の中でしか知らなかった存在が、今は一人の男としてそこに立っている。

そのとき、水晶の端に別の姿が映った。

「なんだ……?」

「誰だ、あれは?」

戦場へ向かって、一人の女性が凄まじい速度で近づいてくる。

初めは小さかった姿が、見る間に大きくなっていく。

長い髪が激しい風を受けて後ろへ流れ、細身の身体が一直線に戦場を目指している。迷うような動きは一度もなく、視線もただ一か所へ向けられていた。

ザルグレス。

水晶に映る女性の顔が、次第にはっきりしていく。

そして、その顔を知る者が声を上げた。

「勇者……かすみ?」

その名前が出た途端、各地でざわめきが広がった。

歴代最強と呼ばれる勇者。

そのかすみが、大悪魔ザルグレスへ向かっている。

かすみは速度を緩めなかった。

普段なら穏やかな表情を浮かべている顔に、今はその面影がない。ザルグレスのいる場所だけを見据えた目は鋭く、怒りを隠そうともしていなかった。

やがて、かすみの身体が戦場へ迫る。

地面へ降り立った瞬間、足元から土埃が広がった。

その向こうで、ザルグレスが顔を上げる。

かすみも動かない。

二人の視線が重なった。

かつて神として戦い、今では大悪魔と呼ばれる男――戦神ザルグレス。

そして、歴代最強と呼ばれる勇者――かすみ。

遠見の水晶の前で、誰もが二人を見ていた。


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