第53話「怒れる勇者」
夜になっていた。
静かな部屋で、譲は眠っていた。布団の中で小さく身体を丸め、規則正しい寝息を立てている。その傍らには、かすみが座り、声をかけることもなく寝顔を見つめていた。
しばらくして、かすみは手を伸ばした。指先で髪に触れ、そのままゆっくりと撫でる。
「……楽しみにしてたのにね」
返事はない。
譲は眠ったまま、触れられたことにも気づいていない。
お茶会の話をするたびに嬉しそうにしていた。当日には何を話そう、どんなお茶が出るのだろうと考えて、あと何日なのか何度も尋ねてきた。
そして今日、中止を知らされた。
「……残念だね」
そう言って俯いた譲の顔を、かすみは覚えている。
髪を撫でていた指が止まった。
穏やかな寝顔だった。
その顔を見つめているうちに、かすみの表情から少しずつ柔らかさが消えていく。
「……譲を悲しませた」
声は小さかった。
かすみは立ち上がった。
胸の奥に押し込めていたものが、沸々と熱を持ち始めていた。世界が混乱していることも、貴族たちがお茶会を中止せざるを得なかったことも分かっている。
それでも、譲はあんなに楽しみにしていた。
眠っている譲を起こさないよう足音を抑え、かすみは部屋を出ようとした。扉に手をかけたところで足を止め、一度だけ振り返る。
「少しだけ、行ってくるね」
返事はなかった。
譲は変わらず眠っている。
かすみは扉を静かに閉めた。
家の外へ出た瞬間だった。
辺境の空気が大きく震えた。
かすみの身体から放たれた巨大な魔力が一気に周囲へ広がり、庭の草木が同じ方向へなぎ倒されるように揺れた。地面に転がっていた小石が細かく震え、近くにいた者たちは突然の異変に足を止める。
「なんだ……?」
誰かが空を見上げたときには、もうそこにかすみの姿はなかった。
凄まじい速度で、ザルグレスのいる場所へ向かっていた。
地上を走っているのか、空を飛んでいるのかさえ目では追えない。夜の中を巨大な魔力反応だけが移動し、彼女が通り過ぎたあとには草木が激しく揺れていた。
「待っててね、譲」
その声も、すぐに遠ざかっていった。
ザルグレスの復活による混乱が続く世界で、ほどなく新たな異変が観測された。
「なんだ、あの速度は!?」
各国で魔力の動きを監視していた魔導師たちが、一斉に反応した。
「魔力反応が急速に移動している!」
「どこへ向かっている!?」
記録を取る間にも位置が変わる。照合を続けていた魔導師の一人が、その進路に気づいて息を止めた。
「……ザルグレスのところだ」
その報告が伝わると、各地に緊張が走った。
神々によって封印されていた大悪魔が復活し、すでにいくつもの精鋭部隊が敗れている。そのザルグレスへ向かって、正体不明の巨大な魔力が信じられない速度で近づいている。
各国が状況を見守る中、世界各地の遠見の水晶が次々と起動していった。
遠く離れた場所で起きている出来事を映し出す魔導具。その水晶の向こうに、広大な戦場が映し出される。
中央には、すでに一人の男が立っていた。
ザルグレス。
かつて戦神と呼ばれ、今では大悪魔として恐れられている存在だった。
遠見の水晶にその姿が映ると、各地で見守っていた人々の声が小さくなった。
「……あれが、ザルグレス」
「神々に封印された大悪魔……」
古い文献や伝説の中でしか知らなかった存在が、今は一人の男としてそこに立っている。
そのとき、水晶の端に別の姿が映った。
「なんだ……?」
「誰だ、あれは?」
戦場へ向かって、一人の女性が凄まじい速度で近づいてくる。
初めは小さかった姿が、見る間に大きくなっていく。
長い髪が激しい風を受けて後ろへ流れ、細身の身体が一直線に戦場を目指している。迷うような動きは一度もなく、視線もただ一か所へ向けられていた。
ザルグレス。
水晶に映る女性の顔が、次第にはっきりしていく。
そして、その顔を知る者が声を上げた。
「勇者……かすみ?」
その名前が出た途端、各地でざわめきが広がった。
歴代最強と呼ばれる勇者。
そのかすみが、大悪魔ザルグレスへ向かっている。
かすみは速度を緩めなかった。
普段なら穏やかな表情を浮かべている顔に、今はその面影がない。ザルグレスのいる場所だけを見据えた目は鋭く、怒りを隠そうともしていなかった。
やがて、かすみの身体が戦場へ迫る。
地面へ降り立った瞬間、足元から土埃が広がった。
その向こうで、ザルグレスが顔を上げる。
かすみも動かない。
二人の視線が重なった。
かつて神として戦い、今では大悪魔と呼ばれる男――戦神ザルグレス。
そして、歴代最強と呼ばれる勇者――かすみ。
遠見の水晶の前で、誰もが二人を見ていた。




