第49話「大悪魔の伝説」
ザルグレスが神の座を捨ててから、さらに長い年月が流れた。
戦いを重ねるたび、その名を知る者が増えていった。
「あの男が、また現れた」
「ザルグレスだ……」
「どうして、あんなに戦い続けるんだ?」
かつてのザルグレスは、人間界を守る神だった。邪悪な存在が現れれば討ち、力尽くでは倒せないものが現れれば魔界へ落とす。人々が彼の姿を目にするのは、自分たちを脅かす何かが現れたときだった。
今は違う。
神としての役目を離れたザルグレスは、強者を求めて戦場を渡り歩いていた。天界であろうと、人間界であろうと、魔界であろうと関係ない。強い存在がいると聞けばそこへ向かい、自らの力をぶつける。その戦いに、以前のような「人々を守る」という理由はなかった。
ある時、人間界で、ひときわ強大な存在とザルグレスが激突した。
二つの力がぶつかるたび、大地が揺れた。空気を震わせる衝撃は戦場の周囲だけには収まらず、遠く離れた町にまで届いた。窓が鳴り、建物が軋む。何が起きているのかも分からない人々は、揺れが来るたびに身を縮め、ただそれが収まるのを待つしかなかった。
長い戦いの末、ザルグレスが勝った。
やがて地響きが止まり、静けさが戻った。
戦いのあとにも、人々は生きていた。
けれど、彼らの目に安堵はなかった。
ザルグレスが歩き出すと、道を塞いでいた者たちが黙って左右へ退いた。誰も礼を言わない。声をかける者もいない。ただ、その姿が通り過ぎるまで息を潜めるように見送っていた。
ザルグレスは何も言わず、その視線の中を歩いていった。
人々の記憶には、かつて自分たちを守ってくれた神の姿が残っている。
邪悪な存在の前に立ち、人々が無事であることを確かめれば、何も求めず天界へ帰っていった戦神。
その記憶と、今、目の前で強大な力を振るい、大地を震わせた男の姿を同じものとして受け入れることは難しかった。
「もう、あいつは神じゃない」
誰かの言葉が、旅人や商人によって町の外へ運ばれた。
そうして、いつしかザルグレスには新しい名が付けられた。
大悪魔。
かつて神だった存在へ、人々が与えた名前だった。
「あれは大悪魔だ」
「世界を滅ぼすために戦っている」
「いずれ、この世界そのものを壊すに違いない」
噂は人から人へ渡るたびに形を変えた。
けれど、本当のところを知る者はいない。
ザルグレスが世界を滅ぼそうとしているのか、人間を憎んでいるのか、それともまったく別のものを求めているのか。本人に尋ねた者も、その答えを聞いた者もいなかった。
人々が知っていたのは、ただ戦い続ける男と、そのあまりにも強大な力だけだった。
そして、その力が及ぼす影響は、次第に一つの世界だけでは収まらなくなっていった。
天界でも戦う。
人間界でも戦う。
魔界でも戦う。
ザルグレスにとっては強者がどこにいるかという違いでしかなかったが、三つの世界に生きる者たちにとって、その戦いはそう簡単なものではなかった。ひとたび彼が力を振るえば大地が揺れ、周囲にまで衝撃が及ぶ。それほどの戦いが、場所を変えながら繰り返されていった。
ついに神々も、ザルグレスの存在を無視できなくなった。
「このままでは、世界そのものがもたない」
かつて同じ神として彼と並んでいた者たちは、その力をよく知っていた。
戦神だった頃から、ザルグレスは強かった。数多くの邪悪な存在を打ち倒し、他の神々では容易に退けられない相手とも戦ってきた。その力が今では、神としての役目に縛られることなく、ザルグレス自身の望みに従って振るわれている。
戦いを重ねるたび、三つの世界の均衡そのものが揺らいでいく。
神々は決断した。
ザルグレスを止めなければならない。
一柱の神だけでは届かない。
複数の神々が力を合わせ、ザルグレスを封じるための力を集めた。
やがて、ザルグレスの前に神々が立った。
かつて、自分も並んでいた者たちだった。
「ザルグレス。もう戦いをやめろ」
「断る」
「お前の力は、世界を壊す」
ザルグレスは、目の前に集まった神々を一柱ずつ見渡した。
見覚えのある顔もある。
かつて同じ天界に立ち、同じ世界を守っていた神々だった。
それでも、ザルグレスの顔に迷いはなかった。
「だったら、俺を止めてみろ」
戦いが始まった。
神々の力が次々とザルグレスへ襲いかかる。ザルグレスはそれを真正面から受け、押し返し、神々の中へ踏み込んだ。一柱の力を退ければ別の力が襲い、避けた先にはすでに次の神が待っている。
一対一の戦いではない。
それでも、ザルグレスは退かなかった。
何度も攻撃を受け、身体に傷が増えていく。足元が揺らぎ、倒れそうになっても踏みとどまる。押し返されれば再び踏み込み、自らを封じようとする神々へ向かって力を振るった。
神々も退かなかった。
かつて共にいた者を相手にしていても、ここで止めなければならない。
世界を守るためだった。
これ以上、三つの世界の均衡を崩させるわけにはいかなかった。
戦いは長く続いた。
やがて、神々が幾重にも重ねた封印の力が、少しずつザルグレスの身体を捉え始めた。
最初に鈍ったのは腕だった。
動かそうとすると、そこにあるはずのない何かに引き留められる。力を込めて振りほどこうとすれば、別の封印が重なり、今度は脚の動きまで奪われていく。
それでもザルグレスは力を振るおうとした。
けれど、身体が動かない。
腕を持ち上げようとしても、まるで見えない鎖に幾重にも縛られているようだった。
「……そうか」
悔しさより先に、奇妙な静けさがあった。求めていたのは、自分を押し返す力だった。今、その力は一人の強者ではなく、かつての仲間たちの手によって自分を捉えている。
封印が閉じる最後の瞬間まで、ザルグレスは見えない鎖を引きちぎろうと腕へ力を込めた。
神々の力がさらに重なる。
かつて戦神として天界に立っていた身体が、少しずつ封印の中へ閉じ込められていった。
最後には、その存在そのものが神々の力によって人間界へ移された。
封じられた場所は、人間界にある小さな祠だった。
人々が暮らす場所から少し離れた、目立たない場所に建つ祠。大勢の人間が訪れる場所でもなければ、豪華な祭壇が置かれているわけでもない。
そこへ、かつて戦神と呼ばれた存在が閉じ込められた。
封印が完成すると、周囲から戦いの音が消えた。
大地を揺らす衝撃もない。
空気を震わせていた力も感じられない。
人間界の片隅にある小さな祠だけが、何事もなかったようにそこに残された。
時が流れた。風が吹けば、屋根に積もった枯葉が落ちた。雨の日には石段を水が流れ、春になれば名もない草が隙間から伸びる。祠は何も語らず、封じられたザルグレスも長い眠りの中にいた。
ザルグレスを実際に見た者たちは老い、その話を聞いた者たちも、やがて次の世代へ言葉を残していった。
そのたびに、少しずつ失われていくものがあった。
かつてザルグレスが神として人間界を守っていたことを知る者は減っていった。人々を救っても感謝を求めず、戦いが終われば天界へ戻っていた戦神の姿を語れる者もいなくなった。
やがて残ったのは、一つの恐ろしい伝説だった。
世界を滅ぼそうとした大悪魔。
長い年月の中で、それが人々の知るザルグレスになっていった。
本当の彼を知る者は、もういない。
かつて神として人間界を守っていたことも、強者を求めて戦い続けた理由も、神の座を捨てたときに何を考えていたのかも、伝説の中には残らなかった。
人間界の静かな森には、小さな祠がある。
その中に、ザルグレスは封じられていた。




