第48話「堕天」
それから、長い年月が流れた。
ザルグレスは変わらず、神として戦い続けていた。天界に邪悪な存在が現れれば戦い、人間界に災いをもたらすものが現れれば地上へ降り立つ。
幾度となく戦い、幾度となく勝利し、戦いが終われば人々が無事であることを確かめて天界へ戻る。その繰り返しだった。
初めのうち、ザルグレスはそれに何の疑問も抱かなかった。戦うことは自分に与えられた役目であり、目の前の敵を倒せば人々が救われる。それ以上の理由を求めたこともなければ、必要だと思ったこともない。
けれど、戦いを重ねるほどに、説明のつかない感覚が胸の内に残るようになっていった。
目の前に現れる邪悪な存在は、人間たちにとって恐ろしいものだった。姿を見ただけで逃げ出す者もいれば、その力によって町を失い、命を奪われる者もいる。神々でさえ容易には対処できないほどの力を持つものもいた。
それでも、ザルグレスにとっては、最後には倒すことのできる相手だった。
ある戦いを終えたザルグレスは、倒れた存在を見つめていた。周囲には激しい戦いの跡が残り、大地は深く抉れ、建物の一部も崩れている。少し離れた場所では、身を寄せ合っていた人々が恐る恐る顔を上げ始めていた。
生きている。
今回も守ることができた。
本来なら、それで十分だった。
ザルグレスは倒れた相手を見つめたまま、しばらく動かなかった。戦いの直後だというのに、胸の内には勝利したときの高揚もなければ、強敵を退けたという満足もない。あるのは、何度も味わってきたものと同じ、妙な物足りなさだった。
「……またか」
低い声が漏れた。
勝った。人間たちも守った。神としての役目も果たした。これまで何度も繰り返してきたことと何も変わらない。
それなのに、何かが足りなかった。
もっと強い相手と戦いたい思いがいつ芽生えたのか、自分でも分からない。初めは、より強い敵から人々を守るには、それ以上の力が必要だと考えていたのかもしれない。いつしか望みは、その理由を置き去りにしていた。
自分の力をすべてぶつけても届かないほどの相手がいるのなら、戦ってみたい。どれほど力を振るっても押し返され、今まで知ることのなかった自分の限界を思い知らされるような戦いを経験してみたい。
人々を守るためではないその思考を持ったまま、人々の感謝を受け取ることはできなかった。
自分が、そういう相手と戦ってみたいのだ。
一度そこまで考えてしまうと、もう以前と同じようには戦えなかった。
ザルグレスは天界へ戻った。
神々が集う場所には、これまで数え切れないほど腰を下ろしてきた自らの座がある。戦いを終えるたびに戻ってきた場所であり、次に自分の力が必要とされるときまで待つ場所でもあった。
その日、ザルグレスは座らなかった。
自らの座を前にして、立ったまま見つめていた。
「俺は……何のために戦っている?」
誰かに問いかけたわけではない。
答えを求めたわけでもなかった。
それまでなら、考える必要さえなかった問いだった。
神として与えられた役目は分かっている。邪悪な存在を討ち、人間界を守る。長い年月、そうしてきた。それを間違っていると思ったこともなければ、今になって否定したいわけでもない。
ただ、それだけでは満たされなくなっていた。
戦いのたびに勝ち、敵を倒し、人々を守って天界へ戻る。その繰り返しの中で、いつしか敵を見る目まで変わっていた。人々にとってどれほど危険な存在なのかではなく、自分とどこまで戦えるのかを考えるようになっている。
強い相手を前にすると、胸が躍った。
思いがけず容易に倒せば、物足りなさが残った。
戦場で気づいてしまった望みは、天界へ戻っても消えなかった。
自分はもう、守るためだけに戦っているのではない。
これまで出会ったことのない強者がどこかにいるのなら、その存在を探し出したい。
神として与えられた役目とは関係のない、自分自身の望みだった。
その思いは、もう押し込めておくことができなかった。
やがてザルグレスは、神々の前に立った。
「俺は、神の座を捨てる」
その言葉が落ちたあと、誰もすぐには口を開かなかった。
神であることをやめる。それは役目の一部を放棄するという話ではない。長い年月そこにあり続けた自らの立場そのものを捨て、神としての在り方から離れるということだった。
「なぜだ」
神の一柱が尋ねた。
ザルグレスはすぐには答えなかった。
背後には、自らの座がある。
そこへ戻れば、これまでと同じように生きていくことができる。邪悪な存在が現れるのを待ち、戦い、勝ち、人々を守る。何千年と続けてきたことを、これからも続ければいい。
けれど、ザルグレスはその座へ戻らなかった。
「俺はもう、守るためだけに戦っているんじゃない」
神々の間に緊張が走った。
「その望みのために、これまで守ってきたものを傷つけることになってもか」
「俺は、自分が求めるものを探す。もっと強い奴と戦いたい。それだけだ」
それ以上、言い訳をするつもりはなかった。
人間を守ることが嫌になったわけではない。神々を憎んだわけでもない。ただ、与えられた役目の中に留まり続けることより、自分の中に生まれた望みを選んだ。
ザルグレスは神々へ背を向けた。
その先に、自らの座がある。
一度だけそこへ目を向けると、今度こそ振り返らずに歩き出した。
堕天。
神だった存在が、その座から落ちる。
かつて神として天界に存在していたザルグレスは、誰かに追われたのではなく、自らの意思でそこを去った。
それからの彼は、強者を求めて各地を彷徨うようになった。
天界だけではない。人間界にも足を運び、かつては倒しきれない邪悪な存在を追いやるためにしか訪れなかった魔界へも、自らの意思で足を踏み入れるようになった。
探しているものは変わらない。
自分より強い存在。
あるいは、自分のすべてをぶつけなければ勝てない相手。
強者がいると聞けば、その場所へ向かった。実際に相手を前にすれば、その力を確かめるために戦う。勝てば、また別の強者を探した。
以前なら戦いが終わるたびに天界へ帰っていたが、今のザルグレスには戻るべき座がない。次の相手がいる場所へ向かうことが、そのまま彼の旅になっていた。
人間界では、その姿を見ただけで逃げ出す者も現れるようになった。
かつて人々を守るために地上へ降りていた神が、今では自ら戦う相手を探して歩いている。相手が強ければ、どこであろうと戦った。天界でも、人間界でも、魔界でも、その違いはザルグレスにとって次第に意味を持たなくなっていった。
ある戦いを終えたとき、ザルグレスは荒れた大地の上で息を整えていた。
目の前には、先ほどまで死力を尽くして戦っていた相手が倒れている。
決して弱い相手ではなかった。
何度も攻撃を受け、身体には傷が残っている。久しく感じることのなかった痛みもあった。戦いの途中では、自分の攻撃を真正面から受け止められた瞬間さえあった。
それでも、最後に立っていたのはザルグレスだった。
荒い息が静まっていく。
倒れた相手を見下ろす。
あれほど求めていたはずの戦いだった。
「まだ足りねぇ」
ザルグレスは、遠巻きに自分を見る目が、救いを待つものから怯えるものへ変わったことにも気づいていた。足を止めれば、もう一度役目の中へ戻れるのかもしれない。
それでも、相手を打ち据えた一撃の感触が、腕に残っていた。次はもっと強い者に会えるかもしれない。その期待が、戻る場所のない足を先へ運んだ。
ザルグレスは歩き出した。
次にどこへ行くのかは決めていない。ただ、自分より強い存在がいるのなら、そこへ行く。
神の座を捨てた彼は、天界、人間界、魔界の三つの世界を渡り歩きながら、自分が求める強さを探し続けた。
かつては人々を守るために振るわれていた力が、今ではザルグレス自身の望みに従って振るわれている。彼が戦いを求めて三つの世界を行き来するたび、その圧倒的な力に巻き込まれるものも増えていった。
そうして戦いの日々が重なるにつれ、三つの世界の均衡は、少しずつ狂い始めていった。




