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神々に願った、たった一つの愛  作者: 狹霧
第8章 「二人の幸せ」
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第46話「変わり始めた距離」

辺境の街へ移り住んでから、長い年月が流れていた。

二人の生活は相変わらず穏やかだった。朝になれば一緒に起きて食事をし、依頼があれば二人で街を出る。何もない日は家で過ごし、庭ではアウストラリスが昼寝をしている。譲がその背中に乗って遊ぶこともあれば、ルビアがふらりと訪ねてくることもあった。

そんな日々が、何年も積み重なっていった。

譲の姿は変わらない。古代の秘薬を飲んだ身体は、この家へ来た頃とほとんど同じままだった。

けれど、かすみには分かる変化があった。

以前の譲は、かすみがそばにいることを何度も確かめていた。少し離れれば振り返り、姿が見えなくなれば探し、「ママ」と呼んでは返事を待った。今でも、ときどき同じことをする。

ただ、それは少しずつ減っていた。

様々な人と出会い、冒険者として依頼をこなし、ときには失敗もした。知らない街へ出かけることもあり、アウストラリスと暮らし、ルビアと笑って過ごす時間も増えた。かすみの隣だけにあった譲の世界は、いつの間にかその外側へも広がっている。今では、知らない場所へ一人で足を踏み入れることもできる。

それでも、帰る場所は変わらなかった。

ある日の夕方、依頼を終えた二人は街へ戻る道を歩いていた。夕焼けが空を赤く染め、遠くの山々まで薄い橙色に包まれている。


「今日は疲れたね」

かすみが言うと、譲は隣を歩きながら笑った。

「うん。でも楽しかった」

「そう?」

「ママと一緒だったから」

いつもの言葉だった。

けれど、そのあと譲は黙った。

かすみが横を見る。

「どうしたの?」

「……ううん。何でもない」

「そう?」

「うん」


二人はまた歩き始めた。

しばらくすると、譲が空を見上げた。夕焼けの中を、何羽かの鳥が山の向こうへ飛んでいく。

「綺麗だね」

「うん」

「ママ」

「なに?」


譲はそこで言葉を止めた。

これまで何度、この人をそう呼んできただろう。

寂しいときも、怖いときも、嬉しいときも、ただ返事をしてほしいときも、「ママ」と呼べばかすみは振り向いた。その声を聞けば、そこにいると分かった。自分を置いていかないことも、また明日になれば会えることも、少しずつ信じられるようになった。

だから今でも、この呼び方は好きだった。

それなのに最近、「ママ」と呼んだあとに、以前とは違う何かが胸に残ることがある。

嫌になったわけではない。呼びにくくなったわけでもない。

ただ、昔の自分と今の自分が、まったく同じではないことだけは分かっていた。

「ゆずるくん?」

「……ごめん。何でもない」

「変なの」

かすみが笑うと、譲もつられて笑った。

家へ帰ると、いつものように夕食を作り、二人で食卓を囲んだ。特別なことは何もない一日だった。

食事の途中、譲は向かいに座るかすみをじっと見ていた。

「どうしたの?」

「……ママは、ずっと変わらないね」

「そうかな?」

「うん」

かすみは少し考え、それから譲を見る。

「ゆずるくんも変わらないよ」

「ぼくは……」

譲は自分の手を見た。

手の大きさも、身体も、顔も、あの頃とほとんど変わっていない。

けれど、この家へ来たばかりの頃には知らなかったことを、今はたくさん知っている。一人でも歩ける場所が増えた。知っている人も増えた。失敗したことも、楽しかったことも、自分で決めたこともある。

「ぼくの中は、変わったと思う」

かすみは優しく頷いた。

「うん」

「分かる?」

「分かるよ」

譲は少し笑った。

食事が終わると、二人で食器を片付けた。

譲は皿を洗い場へ運びながら、ふと口を開く。

「ねえ」

「なに?」

「ぼく……ずっとママって呼んでたよね」

「うん」

「これからも、そう呼んでいい?」

かすみは少し驚いたように譲を見た。

けれど、すぐに笑った。

「もちろんだよ」

「……そっか」

「ゆずるくんがそう呼びたいなら、それでいいんだよ」

「ありがとう」

譲は笑った。

その夜、二人は庭へ出ていた。

アウストラリスは少し離れたところで横になり、頭上には無数の星が浮かんでいる。

「綺麗だね」

かすみが呟く。

「うん」

譲は空を見上げ、それから隣にいるかすみへ目を向けた。

長い年月を一緒に過ごしてきた。

何度も同じ食卓を囲み、何度も一緒に街を歩き、冒険へ出た。嬉しいことがあれば一緒に喜び、寂しいときにはそばにいてくれた。

譲はかすみの横顔を見た。

「……かすみ」

かすみが振り向いた。

「……え?」

声にした譲自身が、いちばん驚いていた。

今、自分は何と呼んだのだろう。

いつもなら、考えるまでもなく「ママ」と呼んでいる。それなのに、今は別の言葉が口から出た。

「……かすみ」

もう一度、名前を呼んだ。

かすみは何も言わず、譲を見つめている。

その沈黙が少し長く感じられて、譲は不安になった。

「……嫌だった?」

「ううん」

かすみはゆっくり首を横に振った。

「嫌じゃないよ」

「本当?」

「うん」

かすみは微笑んだ。

「ただ……少し驚いただけ」

「そっか」

譲も笑った。

不思議だった。

怖くはなかった。悪いことをしたとも思わない。ただ、ずっと自分の中にあった言葉が、今になって自然に出てきたような気がした。

「かすみ」

もう一度呼ぶ。

「うん」

今度は、かすみも自然に返事をした。

譲はその声を聞きながら、また夜空を見上げた。

以前は「ママ」と呼んで返事があるだけで安心した。その呼び方には、自分を見つけてくれた人、抱きしめてくれた人、自分に帰る場所をくれた人との時間が詰まっている。

だから、「ママ」という呼び方を嫌いになったわけではない。これからもそう呼びたいと思う。

けれど、今「かすみ」と呼んだことも、同じように大切に思えた。

二つがどう違うのかは、まだ譲には分からない。

「ねえ、かすみ」

「なに?」

「これからも、ずっと一緒にいてくれる?」

かすみは迷わなかった。

「うん」

かすみは譲を見た。

「ずっと一緒にいるよ」

「……ありがとう」

譲は笑った。

少し離れたところで、アウストラリスが静かに目を開けた。二人の会話が聞こえていたのかもしれない。けれど何も言わず、また目を閉じた。

夜風が庭を通り抜ける。

「……ゆずるくん」

「なに?」

かすみは少しだけ迷った。

昼の庭で、小さな手が小指を差し出してきた日のことを思い出した。譲は、あの日のことを何も覚えていない。

「ううん。何でもない」

「そっか」

二人は並んで夜空を見上げた。

同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、同じ道を歩いてきた。譲の姿は変わらなくても、その年月まで止まっていたわけではない。

「ママ」と呼べば、今でも安心する。

「かすみ」と呼んでも、不思議なくらい自然だった。

かすみは隣にいる譲を見る。初めて出会った頃から、見た目はほとんど変わっていない。それでも、話し方も、考え方も、周囲を見る目も少しずつ変わってきた。

そして今、自分を呼ぶ声にも、もう一つの呼び方が加わった。

「かすみ」

「うん」

譲がもう一度呼ぶ。

かすみは笑った。

「なに?」

「……おやすみ」

「おやすみ、ゆずるくん」

二人は並んで家へ戻っていった。

庭に残ったアウストラリスは、静かにその背中を見送っていた。

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