第46話「変わり始めた距離」
辺境の街へ移り住んでから、長い年月が流れていた。
二人の生活は相変わらず穏やかだった。朝になれば一緒に起きて食事をし、依頼があれば二人で街を出る。何もない日は家で過ごし、庭ではアウストラリスが昼寝をしている。譲がその背中に乗って遊ぶこともあれば、ルビアがふらりと訪ねてくることもあった。
そんな日々が、何年も積み重なっていった。
譲の姿は変わらない。古代の秘薬を飲んだ身体は、この家へ来た頃とほとんど同じままだった。
けれど、かすみには分かる変化があった。
以前の譲は、かすみがそばにいることを何度も確かめていた。少し離れれば振り返り、姿が見えなくなれば探し、「ママ」と呼んでは返事を待った。今でも、ときどき同じことをする。
ただ、それは少しずつ減っていた。
様々な人と出会い、冒険者として依頼をこなし、ときには失敗もした。知らない街へ出かけることもあり、アウストラリスと暮らし、ルビアと笑って過ごす時間も増えた。かすみの隣だけにあった譲の世界は、いつの間にかその外側へも広がっている。今では、知らない場所へ一人で足を踏み入れることもできる。
それでも、帰る場所は変わらなかった。
ある日の夕方、依頼を終えた二人は街へ戻る道を歩いていた。夕焼けが空を赤く染め、遠くの山々まで薄い橙色に包まれている。
「今日は疲れたね」
かすみが言うと、譲は隣を歩きながら笑った。
「うん。でも楽しかった」
「そう?」
「ママと一緒だったから」
いつもの言葉だった。
けれど、そのあと譲は黙った。
かすみが横を見る。
「どうしたの?」
「……ううん。何でもない」
「そう?」
「うん」
二人はまた歩き始めた。
しばらくすると、譲が空を見上げた。夕焼けの中を、何羽かの鳥が山の向こうへ飛んでいく。
「綺麗だね」
「うん」
「ママ」
「なに?」
譲はそこで言葉を止めた。
これまで何度、この人をそう呼んできただろう。
寂しいときも、怖いときも、嬉しいときも、ただ返事をしてほしいときも、「ママ」と呼べばかすみは振り向いた。その声を聞けば、そこにいると分かった。自分を置いていかないことも、また明日になれば会えることも、少しずつ信じられるようになった。
だから今でも、この呼び方は好きだった。
それなのに最近、「ママ」と呼んだあとに、以前とは違う何かが胸に残ることがある。
嫌になったわけではない。呼びにくくなったわけでもない。
ただ、昔の自分と今の自分が、まったく同じではないことだけは分かっていた。
「ゆずるくん?」
「……ごめん。何でもない」
「変なの」
かすみが笑うと、譲もつられて笑った。
家へ帰ると、いつものように夕食を作り、二人で食卓を囲んだ。特別なことは何もない一日だった。
食事の途中、譲は向かいに座るかすみをじっと見ていた。
「どうしたの?」
「……ママは、ずっと変わらないね」
「そうかな?」
「うん」
かすみは少し考え、それから譲を見る。
「ゆずるくんも変わらないよ」
「ぼくは……」
譲は自分の手を見た。
手の大きさも、身体も、顔も、あの頃とほとんど変わっていない。
けれど、この家へ来たばかりの頃には知らなかったことを、今はたくさん知っている。一人でも歩ける場所が増えた。知っている人も増えた。失敗したことも、楽しかったことも、自分で決めたこともある。
「ぼくの中は、変わったと思う」
かすみは優しく頷いた。
「うん」
「分かる?」
「分かるよ」
譲は少し笑った。
食事が終わると、二人で食器を片付けた。
譲は皿を洗い場へ運びながら、ふと口を開く。
「ねえ」
「なに?」
「ぼく……ずっとママって呼んでたよね」
「うん」
「これからも、そう呼んでいい?」
かすみは少し驚いたように譲を見た。
けれど、すぐに笑った。
「もちろんだよ」
「……そっか」
「ゆずるくんがそう呼びたいなら、それでいいんだよ」
「ありがとう」
譲は笑った。
その夜、二人は庭へ出ていた。
アウストラリスは少し離れたところで横になり、頭上には無数の星が浮かんでいる。
「綺麗だね」
かすみが呟く。
「うん」
譲は空を見上げ、それから隣にいるかすみへ目を向けた。
長い年月を一緒に過ごしてきた。
何度も同じ食卓を囲み、何度も一緒に街を歩き、冒険へ出た。嬉しいことがあれば一緒に喜び、寂しいときにはそばにいてくれた。
譲はかすみの横顔を見た。
「……かすみ」
かすみが振り向いた。
「……え?」
声にした譲自身が、いちばん驚いていた。
今、自分は何と呼んだのだろう。
いつもなら、考えるまでもなく「ママ」と呼んでいる。それなのに、今は別の言葉が口から出た。
「……かすみ」
もう一度、名前を呼んだ。
かすみは何も言わず、譲を見つめている。
その沈黙が少し長く感じられて、譲は不安になった。
「……嫌だった?」
「ううん」
かすみはゆっくり首を横に振った。
「嫌じゃないよ」
「本当?」
「うん」
かすみは微笑んだ。
「ただ……少し驚いただけ」
「そっか」
譲も笑った。
不思議だった。
怖くはなかった。悪いことをしたとも思わない。ただ、ずっと自分の中にあった言葉が、今になって自然に出てきたような気がした。
「かすみ」
もう一度呼ぶ。
「うん」
今度は、かすみも自然に返事をした。
譲はその声を聞きながら、また夜空を見上げた。
以前は「ママ」と呼んで返事があるだけで安心した。その呼び方には、自分を見つけてくれた人、抱きしめてくれた人、自分に帰る場所をくれた人との時間が詰まっている。
だから、「ママ」という呼び方を嫌いになったわけではない。これからもそう呼びたいと思う。
けれど、今「かすみ」と呼んだことも、同じように大切に思えた。
二つがどう違うのかは、まだ譲には分からない。
「ねえ、かすみ」
「なに?」
「これからも、ずっと一緒にいてくれる?」
かすみは迷わなかった。
「うん」
かすみは譲を見た。
「ずっと一緒にいるよ」
「……ありがとう」
譲は笑った。
少し離れたところで、アウストラリスが静かに目を開けた。二人の会話が聞こえていたのかもしれない。けれど何も言わず、また目を閉じた。
夜風が庭を通り抜ける。
「……ゆずるくん」
「なに?」
かすみは少しだけ迷った。
昼の庭で、小さな手が小指を差し出してきた日のことを思い出した。譲は、あの日のことを何も覚えていない。
「ううん。何でもない」
「そっか」
二人は並んで夜空を見上げた。
同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、同じ道を歩いてきた。譲の姿は変わらなくても、その年月まで止まっていたわけではない。
「ママ」と呼べば、今でも安心する。
「かすみ」と呼んでも、不思議なくらい自然だった。
かすみは隣にいる譲を見る。初めて出会った頃から、見た目はほとんど変わっていない。それでも、話し方も、考え方も、周囲を見る目も少しずつ変わってきた。
そして今、自分を呼ぶ声にも、もう一つの呼び方が加わった。
「かすみ」
「うん」
譲がもう一度呼ぶ。
かすみは笑った。
「なに?」
「……おやすみ」
「おやすみ、ゆずるくん」
二人は並んで家へ戻っていった。
庭に残ったアウストラリスは、静かにその背中を見送っていた。




