第45話「家族が増えました」
アウストラリスが二人の家へやって来てから、しばらくの時間が経った。
最初の頃は、街の人々も落ち着かなかった。何しろ、街の外れにある小さな家の庭に、神話に語られる神龍がいる。朝、家の前を通った人が庭から突き出した巨大な翼を見つければ驚いて足を止め、子どもたちが遠くから庭を覗いていれば、大人たちは慌ててその手を引いて連れて帰った。
けれど、当のアウストラリスは周囲の反応を気にする様子もなく、庭に身体を横たえて空を眺めていることが多かった。
「……暇だ」
ある日、横になったままそう呟くと、家の中からかすみが出てきた。
「どうしたの?」
「何もすることがない」
「じゃあ、ゆっくりしてればいいよ」
「それでいいのか?」
「いいんだよ」
かすみは笑った。
「ここでは、無理して何かをする必要はないから」
アウストラリスは少し考えた。
「……なるほど」
そう答えると、また地面へ身体を横たえた。
そこへ譲が走ってくる。
「アウストラリス!」
「どうした、主様」
「今日も乗っていい?」
「好きにするといい」
「やった!」
譲は慣れた様子でアウストラリスの背中へよじ登っていく。
「ママ!」
「なに?」
「見て!」
「今日も楽しそうだね」
「うん!」
「落ちないようにね」
「大丈夫!」
アウストラリスが少し身体を起こす。
「この高さでいいか?」
「もうちょっと!」
「分かった」
巨大な身体がさらに持ち上がる。
「わあ!」
譲の声が庭に響いた。
かすみは笑いながら二人を見守っていた。
朝食の時間になると、かすみは二人分の料理を食卓へ並べ、それから庭へ大量の肉を運んでいく。
「アウストラリス、今日はこれ」
「……これは?」
「今日のご飯」
「我のために?」
「うん」
「毎日これほどの量を?」
「アウストラリス、大きいからね」
アウストラリスは目の前に置かれた肉をしばらく見つめた。
「……ありがたい」
「どういたしまして」
そこへ譲も庭へ出てくる。
「アウストラリス、ご飯?」
「そうだ」
「おいしい?」
「うむ」
「よかった!」
譲が嬉しそうに笑う。
その顔を見ていたアウストラリスの表情も、わずかに柔らかくなった。
「主様」
「なに?」
「主様は、よく笑うようになったな」
「そうかな?」
「以前よりも、ずっとだ」
譲は少し考えてから、かすみを見た。
「ママがいるから」
「そうか」
「それに……アウストラリスもいる」
アウストラリスが目を瞬く。
「我も?」
「うん」
譲は笑った。
「一緒にいると楽しいから」
アウストラリスは少しのあいだ黙っていた。
「そうか」
今度の声は、先ほどよりもわずかに柔らかかった。
昼になると、譲はアウストラリスの背中に乗って遊び、かすみは庭からその様子を眺めていた。ときには三人で街へ出ることもある。
そのたびに、最初の頃は人々が驚いた。
「神龍だ!」
「逃げろ!」
「待って!」
かすみが慌てて声を上げる。
「この子は大丈夫だから!」
「この子!?」
街の人々が唖然とする。
アウストラリスも少し複雑そうな顔をした。
「……我は子供ではないのだが」
「ふふっ。分かってるよ」
「ならばよい」
そんなやり取りを重ねるうちに、街の人々も少しずつアウストラリスに慣れていった。
ある日には、店の主人が遠巻きに肉を差し出した。
「神龍様、よかったら……」
「我に?」
「はい」
アウストラリスは差し出された肉をしばらく見つめた。
「……感謝する」
店主は驚いたように瞬きをしたあと、顔をほころばせた。
「いえいえ」
それから、似たようなことが少しずつ増えていった。
そして、ルビアも時々家へ遊びに来るようになった。
「こんにちはー!」
「ルビア!」
譲が玄関へ走っていく。
「お、今日も元気だね」
「うん!」
ルビアは庭へ目を向けた。
「アウストラリスも元気?」
「うむ」
「すっかり馴染んだね」
「そうか?」
「うん。最初は神龍が庭にいるのを見て、どうなることかと思ったけど」
ルビアは笑った。
「今じゃ完全にこの家の生活に混ざってるじゃん」
アウストラリスは庭を見回した。
「……そうなのかもしれんな」
「でしょ?」
そのとき、譲がルビアの袖を引いた。
「ルビア、一緒に遊ぼう」
「いいよ。何する?」
「アウストラリスに乗る!」
「あたしも?」
「うん!」
ルビアは苦笑した。
「じゃあ、ちょっとだけね」
譲とルビアがアウストラリスの背中へ乗る。
かすみは地上からその様子を眺めていた。
「楽しそうだね」
「勇者殿も乗るか?」
アウストラリスが尋ねる。
「いいの?」
「家族なのだろう?」
かすみは少し驚いたあと、笑った。
「うん。じゃあ、あとで乗せてもらおうかな」
「承知した」
譲が嬉しそうに笑う。
「みんな一緒!」
「そうだね」
夕方になり、ルビアが帰る時間になった。
「じゃあ、今日は帰るね」
「うん。また来てね、ルビア」
「もちろん」
ルビアは玄関の前で振り返った。
庭にはアウストラリスがいて、その近くにはかすみと譲がいる。少し前までなら、誰も想像しなかったような光景だった。
「……本当に、家族が増えたんだね」
ルビアが笑う。
かすみも頷いた。
「うん」
「なんか、いいね」
「わたしもそう思う」
「じゃあ、またね」
「またね、ルビア」
「またな」
「またね!」
ルビアが街へ戻っていく。
夜になり、夕食を終えた譲は庭へ出て、アウストラリスの隣に座った。かすみもその隣へ腰を下ろす。
三人で並んでいると、譲が空を見上げながら口を開いた。
「今日は楽しかったね」
「うん」
「ルビアも来たし」
「そうだね」
「アウストラリスもいる」
「うむ」
譲は二人を見る。
「一緒にいるのって、いいね」
かすみは譲の頭を撫でた。
「うん」
アウストラリスも二人を見つめていた。
長い年月を生きてきた彼にとって、誰かと暮らすことは考えたこともなかった。人間の家の庭で眠ることも、誰かに食事を用意してもらうことも、子供を背中に乗せて遊ぶことも知らなかった。
今では朝になればかすみが庭へ出てきて、ほどなく譲が背中へよじ登ってくる。食事の時間になれば自分のための肉が用意され、街へ出れば、以前なら逃げていた人々が少しずつ声をかけるようになった。ルビアが遊びに来れば譲と一緒に騒ぎ、かすみはその姿を見て笑っている。
アウストラリスは、隣にいる二人へ顔を向けた。
「勇者殿」
「なに?」
「主様」
「ん?」
少しのあいだ言葉を探す。
「……我は、この家に来てよかったと思っている」
二人は顔を見合わせた。
「わたしも」
「ぼくも」
アウストラリスは目を閉じた。
庭を抜ける夜風に、木々の葉が静かに揺れていた。




