第44話「ドラゴンの忠誠」
アウストラリスは頭を下げたまま、二人を見つめていた。先ほどまで山全体を震わせるほどの威圧感を放っていた存在とは思えないほど、その巨体は低く伏せられている。
「本当に……我を殺さないのか?」
「ええ」
かすみは頷いた。
「もう戦うつもりはないんでしょ?」
「無論だ。我には、お前たちと戦う理由などない」
「だったら、わたしたちもあなたを殺す理由はないよ」
「……寛大なのだな」
アウストラリスはゆっくり息を吐いた。
その様子を見ていた譲が、かすみの袖を引く。
「ママ、このドラゴン、これからどうするの?」
「どうしようか」
かすみはアウストラリスへ目を向けた。
「ねえ、アウストラリス。あなたは、これからもここで暮らすの?」
「……そうなるだろう」
アウストラリスは周囲の山々を見渡した。
「我は長き時を、この地で過ごしてきた」
「ずっと一人で?」
「そうだ」
「寂しくないの?」
アウストラリスは黙った。
「……寂しい?」
「うん」
「考えたこともなかった」
譲は大きな身体を見上げた。
「ぼくは、一人でいるのは嫌だよ」
「お前もか?」
「うん」
譲はかすみを見る。
「ママと一緒にいる」
アウストラリスの視線が、譲からかすみへ移った。
「……一緒にいると、寂しくないのか」
「うん」
譲は笑った。
「だから、ぼくはママといる」
アウストラリスは何も答えなかった。
山の向こうへ目を向け、そのまましばらく動かない。自分が長い年月を過ごしてきた場所を、改めて見ているようにも見えた。
やがて二人へ向き直ると、巨大な身体をさらに低くした。
「ならば……我も、お前たちと共にいたい」
かすみが目を丸くする。
「え?」
「我はお前たちに敗れた。しかも、お前たちはまだ力を残していた。そして、お前たちはそんな我を殺さなかった」
「うん」
「ならば、この命をお前たちに預けよう」
「それって……」
「忠誠を誓う」
アウストラリスは深く頭を下げた。
「我、神龍アウストラリスは、お前たちに仕える」
譲が驚いた顔でかすみを見る。
「ママ、すごいね」
「うん……」
かすみは少し困ったように笑った。
「でも、仕えるって言われても……」
「何なりと命じてくれ」
「うーん……」
かすみが考えていると、譲が口を挟んだ。
「じゃあ、ぼくたちと一緒に暮らせばいいんじゃない?」
アウストラリスが譲を見る。
「共に暮らす?」
「うん」
「……我は人間ではないぞ」
「知ってるよ」
「ならば、なぜ?」
譲は少し考えた。
「一人でいるのが寂しいなら、一緒にいればいいと思うよ」
かすみも笑った。
「わたしも、それがいいと思う」
アウストラリスは黙ったまま二人を見つめた。
「……家族ということか?」
「うん。家族になろう」
かすみが答えると、アウストラリスはその言葉を確かめるように呟いた。
「家族……」
しばらくして、もう一度尋ねる。
「それは、主人と従者とは違うのか?」
「違うよ」
かすみは首を横に振った。
「命令する人と従う人じゃなくて、一緒に暮らす人」
「一緒に……暮らす」
「そう」
譲が笑う。
「ご飯を食べたり、遊んだりするんだよ」
「……なるほど」
アウストラリスは二人の顔を交互に見ながら、しばらく考えていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「では……その申し出を受けよう」
「よかった」
譲が笑った。
「じゃあ、今日から家族だね」
「家族……」
アウストラリスはもう一度その言葉を口にしてから、改めて頭を下げた。
「我は、お前たちを決して裏切らぬ」
「そんなにかしこまらなくていいよ」
かすみは笑う。
「普通に一緒に暮らそう」
「普通に……」
その言葉を、アウストラリスはしばらく口の中で確かめているようだった。
やがて三人は山を下り、辺境の街へ戻ることになった。
ところが、街の入り口へ近づいたところで、かすみは足を止めた。
「……大きすぎるね」
「うん……」
譲も隣で見上げる。
アウストラリスの巨体は街の建物よりもはるかに大きい。その姿が近づいてくるだけで、門の周辺にいた人々が次々と立ち止まった。
「ドラゴンだ!」
「神龍だ!」
「どうしてここに!?」
悲鳴が上がり、逃げ出す者まで現れる。
アウストラリスは翼を畳んだ。
「……やはり、我がここに来るべきではなかったか」
「大丈夫だよ」
かすみが前へ出た。
「わたしたちと一緒にいればいい」
「しかし……」
「そのうち慣れるよ」
譲もアウストラリスの前へ立った。
「怖くないよ」
「……お前は恐ろしくないのか?」
「うん」
譲は笑った。
「もう一緒に暮らすんだから」
アウストラリスは、その小さな身体をしばらく見つめていた。
三人はどうにか街の外れにある家まで戻った。
庭へ入ると、アウストラリスはゆっくり周囲を見回した。小さな家と庭、その向こうに続く森を順番に眺める。
「ここなら……我も過ごせそうだ」
「よかった」
かすみが笑った。
「ここがあなたの場所ね」
「感謝する」
アウストラリスは庭の端に身体を横たえた。
巨大な神龍が、小さな家の庭で静かに身体を休めている。
譲はその姿をしばらく眺めていたが、やがて近くまで歩いていった。
「ねえ、乗っていい?」
「……乗る?」
「うん」
アウストラリスは少し考えた。
「好きにするといい」
「やった!」
譲は嬉しそうに、その大きな身体へよじ登っていく。
「ママ!」
「なに?」
「見て!」
かすみは庭からその姿を見上げた。
「ふふっ。よかったね、ゆずるくん」
譲はアウストラリスの背中へ座り、楽しそうに笑っていた。
アウストラリスは首を少し動かし、自分の背に乗る小さな少年を見た。
「……不思議なものだ」
「何が?」
「我はこれまで、多くの者から恐れられてきた」
その視線は譲へ向いたままだった。
「だが、この少年は我を恐れない」
「うん」
「そして、お前も我を殺さなかった」
「そうだね」
アウストラリスはしばらく黙った。
譲はそんなことには気づかず、広い背中の上から庭を見回している。
「……これが、家族というものなのかもしれんな」
かすみは微笑んだ。
「きっと、そうだよ」
夕暮れが近づき、山の向こうの空が赤く染まり始めていた。
小さな家の庭では、神話に名を残す神龍が身体を横たえている。その背中では譲が楽しそうに笑い、かすみは少し離れたところから二人を眺めていた。
アウストラリスはもう、頭を下げてはいなかった。




