第43話「ドラゴン討伐」
辺境の街での生活にも、二人はすっかり慣れていた。冒険者として依頼を受けることも、街へ買い物に出ることも、いつの間にか日常の一部になっている。その日も、二人はいつものように冒険者ギルドへ向かっていた。
「ママ、今日はどんな依頼があるかな?」
「どうだろうね」
「面白い依頼があるといいな」
「危険すぎるのは駄目だよ」
「分かってる」
譲はそう答えながら、かすみの隣を歩いている。二人では歩幅が違う。それでも譲が遅れることはなく、いつもすぐそばにいた。
ギルドの扉を開けると、普段とは違う空気が二人を迎えた。掲示板の前には大勢の冒険者が集まり、受付嬢たちも書類を抱えて慌ただしく行き来している。
「今日は騒がしいね」
かすみが呟くと、一人の受付嬢が二人に気づいた。
「あっ、かすみさん! 譲さん!」
手に依頼書を持ったまま、こちらへ駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「お二人に指名依頼が届いています」
「わたしたちに?」
かすみが依頼書を受け取ると、譲も隣から覗き込んだ。
「……神龍アウストラリス討伐」
「ドラゴン?」
譲が顔を上げる。
「はい」
受付嬢の声が少し硬くなった。
「神話にも名前が残るほどの存在です。この辺りでは昔から知られている最強クラスのドラゴンで、各国の騎士団でも討伐は不可能と判断されています」
「そんなに?」
「過去にも何度も討伐隊が組まれています。でも、成功した例はありません」
かすみはもう一度依頼書へ目を落とした。依頼主の欄には、複数の権力者の名前が並んでいる。
神龍アウストラリスの力を恐れる者もいれば、その力を利用したい者もいるのだろう。今回の依頼が自分たちのもとへ回ってきた理由も、おそらくそのあたりにある。
「受ける?」
譲が尋ねた。
「どうしようか」
かすみが答える前に、譲が笑った。
「ぼくはママと一緒なら、どこでも行くよ」
「ふふっ」
かすみも笑う。
「じゃあ、行ってみようか」
「うん!」
かすみは受付嬢へ依頼書を返した。
「受けます」
「……本当に、よろしいんですか?」
「大丈夫だよ」
「ですが……」
「心配してくれてありがとう」
かすみは穏やかに笑った。
「行ってくるね」
二人は必要な準備を整え、街を出た。
目的地は、街から遠く離れた山岳地帯だった。山へ近づくにつれて道は細くなり、木々に遮られて空も見えにくくなっていく。
譲は歩きながら、何度も依頼書を開いていた。
「ママ」
「なに?」
「神龍って、どれくらい強いのかな?」
「さあ。会ってみないと分からないね」
「ぼくより?」
「どうかな」
かすみが笑うと、譲も笑った。
やがて二人は山岳地帯へ入った。
それまで聞こえていた鳥の声が、いつの間にか途切れている。木々の間を走っていた小さな獣の気配もない。風が吹くたび枝が大きく揺れ、葉の擦れる音だけが斜面へ流れていった。
譲が足を止める。
「ママ」
「うん」
「いるよ」
かすみが譲の視線を追った、その直後だった。
大地が大きく揺れた。
山の奥から、低く長い咆哮が響く。
空気まで震えているようだった。木々に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、斜面では揺れに耐えられなくなった石が次々と転がり落ちていく。
二人が山の奥へ目を向ける。
やがて、山の向こうから巨大な影が現れた。
大きく広がる翼。鋭い爪。長く伸びた身体。その巨体は山肌を越えて姿を現すだけで、周囲の景色まで小さく見せた。
神龍アウストラリス。
神話に語られる存在が、二人の前にいた。
アウストラリスは上空から二人を見下ろした。
「人間……我を討ちに来たか」
低い声が山々へ響く。
「うん」
かすみは頷いた。
「冒険者として依頼を受けてきたの」
アウストラリスの目が細くなる。
「愚かな。これまで幾千もの戦士が我に挑み、誰一人として傷一つ付けられなかった」
「そうなんだ」
あまりに平然とした返事に、アウストラリスがわずかに顔を傾けた。
「恐れぬのか?」
「依頼だからね」
「……変わった人間だ」
アウストラリスがそう言ったとき、譲が一歩前へ出た。
「ぼくもいるよ」
巨大な頭が動き、視線がかすみから譲へ移る。
その目が止まった。
「……なんだ」
先ほどまでとは違う声だった。
「その力は」
譲は首を傾げる。
「力?」
「お前……自分が何者なのか分かっていないのか」
「分からない」
譲は短刀を抜いた。
「でも、ママを守るよ」
その言葉とともに、譲の身体から力が溢れ出した。
地面が震え、足元の小石が細かく跳ねる。譲自身はただ短刀を構えているだけなのに、周囲の空気まで押し広げられていくようだった。
アウストラリスの目が大きく開く。
長い年月を生きてきた神龍の感覚が、目の前の少年を測ろうとする。
測れない。どれほどの力なのか、測ることすらできない。
力が大きすぎるからというだけではなかった。譲自身が、その力の正体も大きさも理解していない。それなのに、これほどのものを内側に抱えている。
さらに、その隣に立つかすみからも凄まじい力を感じる。
アウストラリスの身体が、わずかに後ろへ下がった。
それでも、神龍は翼を広げた。討伐に来た相手を前に、背を向けることはしなかった。
「来るよ」
譲の声と同時に、アウストラリスが息を吸い込む。
吐き出された光が山肌を薙いだ。かすみは譲を抱えて横へ跳び、光が通り過ぎた直後の地面へ降りる。背後で岩壁が崩れ、遅れて熱風が二人の髪を揺らした。
「ゆずるくん、右から行ける?」
「うん」
二人は左右へ分かれた。
アウストラリスが翼を打つ。突風に押し返されながら、かすみは聖剣を地面へ突き立てて踏みとどまった。その間に譲が風の外へ抜け、短刀を構えたまま巨体の下へ走り込む。
神龍の爪が落ちる。
譲は半歩でかわし、振り下ろされた前脚へ短刀を当てた。硬い鱗が裂け、アウストラリスが初めて苦鳴を漏らす。
「我の鱗を……」
顔を上げたときには、かすみが風を抜けていた。
聖剣が翼の付け根を斬る。深くは入れない。飛べなくするための一撃だった。
アウストラリスが身体を捻り、尾を振るった。かすみは剣で受けたものの、勢いを殺しきれず岩場まで押し戻される。
「ママ!」
「大丈夫!」
譲が地面を蹴った。
次の瞬間にはアウストラリスの眼前にいる。神龍が再び光を吐こうと口を開くより早く、譲の拳が下顎へ入った。巨大な頭が跳ね上がり、光は空へ逸れて雲を裂いた。
体勢を崩したアウストラリスの前へ、かすみが踏み込む。
聖剣の切っ先が、喉元で止まった。
譲も短刀を構えたまま、その隣へ降りる。
アウストラリスは動かなかった。
翼は傷つき、前脚の鱗には亀裂が走っている。二人には、まだ戦う余力が残っていた。
長い沈黙のあと、神龍がゆっくりと翼を畳んだ。
「……我の負けだ」
強がる様子はなかった。
巨大な身体がゆっくりと低くなる。先ほどまで山々を震わせていた神龍が、二人の前まで降りてくる。
そして、頭を下げた。
「頼む。我の命だけは奪わないでくれ」
譲が驚いた顔でかすみを見る。
かすみは何も言わず、目の前のアウストラリスを見つめていた。
依頼書に書かれていたのは討伐だった。
けれど、今のアウストラリスには戦う意思がない。
「……分かった」
かすみが答えた。
「戦わないなら、わたしたちもあなたを殺さない」
アウストラリスが顔を上げる。
「……本当か?」
「うん」
譲も頷いた。
「ぼくも、殺したくない」
アウストラリスは二人を見つめた。
しばらくして、その瞳がゆっくりと伏せられる。
「……感謝する」
山々に囲まれたその場所で、神話に名を残す神龍は、二人の前に静かに頭を垂れていた。




