第42話「普通の幸せ」
辺境の街で暮らし始めてから、いくつもの朝が過ぎていった。
二人の生活は驚くほど静かだった。朝になれば起き、かすみが朝食を作っているあいだに譲が食器を並べる。冒険者として依頼を受ける日もあれば、街へ出て買い物をするだけの日もあり、雨が降れば家で過ごし、天気がよければ庭へ出た。
昨日と今日の違いを探しても、すぐには見つからないような日さえある。それでも二人は同じ家で目を覚まし、同じ食卓で食事をして、夜になればまたそこへ戻ってくる。そんな日々を、少しずつ自分たちの暮らしにしていった。
晴れた朝には庭でパンと卵を食べる。あの日の約束は、特別な予定ではなく、二人の朝になっていた。
ある朝、かすみは窓から差し込む柔らかな光で目を覚ました。
隣では譲がまだ眠っている。起こさないように布団から出ようとしたところで、服の裾が小さく引かれた。
「……ママ?」
「起こしちゃった?」
「ううん……」
譲は眠そうに目を開けた。
「どこ行くの?」
「朝ご飯を作ろうと思って」
「……ぼくも行く」
「まだ眠いんじゃない?」
「大丈夫」
そう言って身体を起こしたものの、まだ少し眠そうだった。
二人で台所へ向かい、かすみが料理を始めると、譲は隣で野菜を洗った。
「これでいい?」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、次は?」
「お皿を出してくれる?」
「分かった」
棚を開ける音がして、食器が一枚ずつ食卓へ運ばれていく。かすみが包丁を動かすたび、まな板から小さな音が返ってきた。皿を並べ終えた譲は食卓を一度眺め、それからまた台所へ戻ってくる。
「他にすることある?」
「うーん……じゃあ、これを混ぜてくれる?」
「分かった」
譲は鍋を覗き込み、かすみの真似をするように木べらを動かした。
その姿を見ながら、かすみはふと思った。
こういう朝が好きだった。
前世でも、朝になれば愛する我が子がいた。食事を用意しながらその日の予定を話し、何が食べたいのかを聞き、ときにはくだらないことで笑った。特別なことなど何も起こらない。ただ、それが毎日の風景だった。
失って初めて、自分がどれほどその時間を愛していたのかを知った。
あの子はいなくなった。もう二度と、あの朝には戻れないと思っていた。
「ママ」
「なに?」
「これ、味見していい?」
かすみは振り返った。
「まだ熱いよ」
「じゃあ、少しだけ」
「ふふっ。じゃあ、気をつけてね」
譲は皿の端へ少しだけ料理を取り、何度も息を吹きかけてから慎重に口へ運んだ。
「おいしい」
「本当?」
「うん」
かすみは笑った。
「じゃあ、朝ご飯にしようか」
「うん!」
二人は食卓についた。
その日の午後は、一緒に街へ出た。
市場で食材を買い、小さな店をいくつか覗いて歩く。譲が店先で足を止めれば、かすみも隣に立った。
「ママ、これ見て」
「可愛いね」
「こっちも」
「どっちがいいかな?」
「うーん……」
譲は二つの商品を並べ、真剣な顔で見比べている。かすみは急かさず、その隣で待った。
「こっち」
ようやく一つを選ぶ。
店を出た譲は、買ったものを両手で大切そうに抱えて歩いていた。
「そんなに気に入ったの?」
「うん」
「よかったね」
譲は包みを見下ろしてから、かすみを見上げた。
「ママと一緒に選んだから」
「そう?」
「うん」
かすみは笑った。
夕方になると、二人は家へ戻った。
玄関の扉を開ける。
「ただいま」
「ただいま」
二人とも外から帰ってきたのだから、その声を聞いて迎えてくれる誰かがいるわけではない。
それでも扉の向こうには、朝に使った食卓があり、自分たちの荷物があり、眠る場所があり、庭へ続く窓がある。朝に二人で出ていって、夕方になれば二人で同じ場所へ戻ってくる。
譲は靴を脱ぎながら、家の中を見た。
「ママ」
「なに?」
「今日もここに帰ってきたね」
「うん」
譲は嬉しそうに笑った。
夜になると、二人は並んで布団に入った。
「ママ」
「なに?」
「今日、楽しかったね」
「うん。楽しかった」
「明日も一緒にいようね」
「もちろん」
譲は安心したように布団を少し引き上げた。
「おやすみ、ママ」
「おやすみ、ゆずるくん」
やがて譲は目を閉じ、しばらくすると隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
かすみは暗い天井を見つめながら、その日のことを思い返した。朝は一緒に食事を作った。店先では譲が二つの商品を前に長いこと悩んでいた。帰ってきたときには、「今日もここに帰ってきたね」と嬉しそうに笑っていた。
こんな時間が、ずっと続けばいい。
世界を救うことよりも、もっと強くなることよりも、今のかすみには、この小さな暮らしを守ることのほうが大切だった。
隣を向く。
譲は眠っている。
頬にかかった髪を指先でそっと払った。
「おやすみ、ゆずるくん」
眠ったまま、譲がほんの少しだけかすみのほうへ顔を向けた。
翌朝。
譲が目を覚ますと、隣にはかすみがいた。
まだ眠っている。
起こさないように布団の中で身体を動かし、譲はしばらくその顔を眺めていた。
昨日もいた。
今日もいる。
一度目を閉じ、もう一度開く。
やっぱり、いる。
朝起きればママがいる。食卓につけば一緒に食べる。街へ出れば隣を歩き、夕方には同じ家へ帰ってくる。夜になれば、また同じ屋根の下で眠る。
そんなとき、昔のことを思い出すことがある。
自分を産んでくれた母。
自分を見捨てた母。
一人で過ごした時間。
誰かに必要とされているのかも分からないまま、ただ生きていた日々。
長い孤独。
普段は考えなくなったことも、何かの拍子に胸の奥から顔を出す。
譲は隣で眠るかすみを見た。
今は違う。
何がどう違うのかを説明する言葉を、譲は持っていなかった。ただ、目を開けたときにかすみがいる。それを確かめるだけで、胸の中に残っていた小さな不安が静かになっていく。
やがて、かすみが目を覚ました。
「おはよう、ゆずるくん」
「おはよう、ママ」
いつもの朝の挨拶だった。
かすみが起き上がろうとすると、譲が呼び止めた。
「ママ」
「うん?」
「ぼく……」
少し迷ってから、譲は言った。
「名前、呼んで」
かすみは首を傾げる。
「名前?」
「うん」
かすみは少し考え、微笑んだ。
「ゆずるくん」
譲はじっとかすみを見た。
「……もう一回」
「ゆずるくん」
「うん」
譲は笑った。
「ゆずるくん」
「うん」
「どうしたの?」
「……何でもない」
そう言って、譲はかすみの袖をつまんだ。
かすみはそれ以上尋ねなかった。
ただ、袖をつまんでいる小さな手を、自分の手で包んだ。
その日の夜、二人は家の中で並んで座っていた。
昼間の出来事を話しながら、譲は何度かかすみの顔を見た。
自分は、どうして名前を呼ばれることがこんなにも嬉しいのだろう。
考えてみても、うまく答えは出なかった。
ただ、朝に聞いた「ゆずるくん」という声を思い出すと、また聞きたくなる。
譲はかすみの肩へ少し身体を寄せた。
「ママ」
「なに?」
「ぼく、幸せだよ」
かすみは少し驚いて譲を見た。
「……そう?」
「うん」
「そっか」
かすみは譲の髪を撫でる。
「わたしも幸せだよ、ゆずるくん」
譲は顔を上げた。
「本当?」
「本当」
「……よかった」
それを聞くと、譲はかすみの肩へ頭を預けた。
かすみは何も言わず、その髪を撫で続ける。外では夜風が木々を揺らし、ときどき葉の擦れる音が聞こえていた。
譲は目を閉じた。
髪に触れる手の感触を追っているうちに、少しずつ瞼が重くなっていく。
「ママ」
「なあに?」
「明日の朝も、一緒にご飯食べようね」
「うん。何が食べたい?」
譲は目を閉じたまま考えた。
「……パン」
「またパン?」
「うん……」
返ってくる声は、もう小さい。
かすみは笑った。
「じゃあ、明日はパンにしようか」
「うん……」
譲の声がさらに小さくなった。
かすみは返事をせず、そのまま髪を撫でていた。やがて肩へ預けられた譲の呼吸が、静かな寝息に変わった。




