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神々に願った、たった一つの愛  作者: 狹霧
第8章 「二人の幸せ」
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第42話「普通の幸せ」

辺境の街で暮らし始めてから、いくつもの朝が過ぎていった。

二人の生活は驚くほど静かだった。朝になれば起き、かすみが朝食を作っているあいだに譲が食器を並べる。冒険者として依頼を受ける日もあれば、街へ出て買い物をするだけの日もあり、雨が降れば家で過ごし、天気がよければ庭へ出た。

昨日と今日の違いを探しても、すぐには見つからないような日さえある。それでも二人は同じ家で目を覚まし、同じ食卓で食事をして、夜になればまたそこへ戻ってくる。そんな日々を、少しずつ自分たちの暮らしにしていった。

晴れた朝には庭でパンと卵を食べる。あの日の約束は、特別な予定ではなく、二人の朝になっていた。

ある朝、かすみは窓から差し込む柔らかな光で目を覚ました。

隣では譲がまだ眠っている。起こさないように布団から出ようとしたところで、服の裾が小さく引かれた。

「……ママ?」

「起こしちゃった?」

「ううん……」

譲は眠そうに目を開けた。

「どこ行くの?」

「朝ご飯を作ろうと思って」

「……ぼくも行く」

「まだ眠いんじゃない?」

「大丈夫」

そう言って身体を起こしたものの、まだ少し眠そうだった。

二人で台所へ向かい、かすみが料理を始めると、譲は隣で野菜を洗った。

「これでいい?」

「うん。ありがとう」

「じゃあ、次は?」

「お皿を出してくれる?」

「分かった」

棚を開ける音がして、食器が一枚ずつ食卓へ運ばれていく。かすみが包丁を動かすたび、まな板から小さな音が返ってきた。皿を並べ終えた譲は食卓を一度眺め、それからまた台所へ戻ってくる。

「他にすることある?」

「うーん……じゃあ、これを混ぜてくれる?」

「分かった」

譲は鍋を覗き込み、かすみの真似をするように木べらを動かした。

その姿を見ながら、かすみはふと思った。

こういう朝が好きだった。

前世でも、朝になれば愛する我が子がいた。食事を用意しながらその日の予定を話し、何が食べたいのかを聞き、ときにはくだらないことで笑った。特別なことなど何も起こらない。ただ、それが毎日の風景だった。

失って初めて、自分がどれほどその時間を愛していたのかを知った。

あの子はいなくなった。もう二度と、あの朝には戻れないと思っていた。

「ママ」

「なに?」

「これ、味見していい?」

かすみは振り返った。

「まだ熱いよ」

「じゃあ、少しだけ」

「ふふっ。じゃあ、気をつけてね」

譲は皿の端へ少しだけ料理を取り、何度も息を吹きかけてから慎重に口へ運んだ。

「おいしい」

「本当?」

「うん」

かすみは笑った。

「じゃあ、朝ご飯にしようか」

「うん!」

二人は食卓についた。

その日の午後は、一緒に街へ出た。

市場で食材を買い、小さな店をいくつか覗いて歩く。譲が店先で足を止めれば、かすみも隣に立った。

「ママ、これ見て」

「可愛いね」

「こっちも」

「どっちがいいかな?」

「うーん……」

譲は二つの商品を並べ、真剣な顔で見比べている。かすみは急かさず、その隣で待った。

「こっち」

ようやく一つを選ぶ。

店を出た譲は、買ったものを両手で大切そうに抱えて歩いていた。

「そんなに気に入ったの?」

「うん」

「よかったね」

譲は包みを見下ろしてから、かすみを見上げた。

「ママと一緒に選んだから」

「そう?」

「うん」

かすみは笑った。


夕方になると、二人は家へ戻った。

玄関の扉を開ける。

「ただいま」

「ただいま」

二人とも外から帰ってきたのだから、その声を聞いて迎えてくれる誰かがいるわけではない。

それでも扉の向こうには、朝に使った食卓があり、自分たちの荷物があり、眠る場所があり、庭へ続く窓がある。朝に二人で出ていって、夕方になれば二人で同じ場所へ戻ってくる。

譲は靴を脱ぎながら、家の中を見た。

「ママ」

「なに?」

「今日もここに帰ってきたね」

「うん」

譲は嬉しそうに笑った。


夜になると、二人は並んで布団に入った。

「ママ」

「なに?」

「今日、楽しかったね」

「うん。楽しかった」

「明日も一緒にいようね」

「もちろん」

譲は安心したように布団を少し引き上げた。

「おやすみ、ママ」

「おやすみ、ゆずるくん」

やがて譲は目を閉じ、しばらくすると隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。

かすみは暗い天井を見つめながら、その日のことを思い返した。朝は一緒に食事を作った。店先では譲が二つの商品を前に長いこと悩んでいた。帰ってきたときには、「今日もここに帰ってきたね」と嬉しそうに笑っていた。

こんな時間が、ずっと続けばいい。

世界を救うことよりも、もっと強くなることよりも、今のかすみには、この小さな暮らしを守ることのほうが大切だった。

隣を向く。

譲は眠っている。

頬にかかった髪を指先でそっと払った。

「おやすみ、ゆずるくん」

眠ったまま、譲がほんの少しだけかすみのほうへ顔を向けた。


翌朝。

譲が目を覚ますと、隣にはかすみがいた。

まだ眠っている。

起こさないように布団の中で身体を動かし、譲はしばらくその顔を眺めていた。

昨日もいた。

今日もいる。

一度目を閉じ、もう一度開く。

やっぱり、いる。

朝起きればママがいる。食卓につけば一緒に食べる。街へ出れば隣を歩き、夕方には同じ家へ帰ってくる。夜になれば、また同じ屋根の下で眠る。

そんなとき、昔のことを思い出すことがある。

自分を産んでくれた母。

自分を見捨てた母。

一人で過ごした時間。

誰かに必要とされているのかも分からないまま、ただ生きていた日々。

長い孤独。

普段は考えなくなったことも、何かの拍子に胸の奥から顔を出す。

譲は隣で眠るかすみを見た。

今は違う。

何がどう違うのかを説明する言葉を、譲は持っていなかった。ただ、目を開けたときにかすみがいる。それを確かめるだけで、胸の中に残っていた小さな不安が静かになっていく。

やがて、かすみが目を覚ました。

「おはよう、ゆずるくん」

「おはよう、ママ」

いつもの朝の挨拶だった。

かすみが起き上がろうとすると、譲が呼び止めた。

「ママ」

「うん?」

「ぼく……」

少し迷ってから、譲は言った。

「名前、呼んで」

かすみは首を傾げる。

「名前?」

「うん」

かすみは少し考え、微笑んだ。

「ゆずるくん」

譲はじっとかすみを見た。

「……もう一回」

「ゆずるくん」

「うん」

譲は笑った。

「ゆずるくん」

「うん」

「どうしたの?」

「……何でもない」

そう言って、譲はかすみの袖をつまんだ。

かすみはそれ以上尋ねなかった。

ただ、袖をつまんでいる小さな手を、自分の手で包んだ。


その日の夜、二人は家の中で並んで座っていた。

昼間の出来事を話しながら、譲は何度かかすみの顔を見た。

自分は、どうして名前を呼ばれることがこんなにも嬉しいのだろう。

考えてみても、うまく答えは出なかった。

ただ、朝に聞いた「ゆずるくん」という声を思い出すと、また聞きたくなる。

譲はかすみの肩へ少し身体を寄せた。

「ママ」

「なに?」

「ぼく、幸せだよ」

かすみは少し驚いて譲を見た。

「……そう?」

「うん」

「そっか」

かすみは譲の髪を撫でる。

「わたしも幸せだよ、ゆずるくん」

譲は顔を上げた。

「本当?」

「本当」

「……よかった」

それを聞くと、譲はかすみの肩へ頭を預けた。

かすみは何も言わず、その髪を撫で続ける。外では夜風が木々を揺らし、ときどき葉の擦れる音が聞こえていた。

譲は目を閉じた。

髪に触れる手の感触を追っているうちに、少しずつ瞼が重くなっていく。

「ママ」

「なあに?」

「明日の朝も、一緒にご飯食べようね」

「うん。何が食べたい?」

譲は目を閉じたまま考えた。

「……パン」

「またパン?」

「うん……」

返ってくる声は、もう小さい。

かすみは笑った。

「じゃあ、明日はパンにしようか」

「うん……」

譲の声がさらに小さくなった。

かすみは返事をせず、そのまま髪を撫でていた。やがて肩へ預けられた譲の呼吸が、静かな寝息に変わった。

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