第40話「辺境の街」
王都から遠く離れた、国境に近い辺境の街。
かすみは譲を引き取り、親子として一緒に暮らすことにした。
王都のような大きな城はなく、貴族たちが暮らす豪華な屋敷も見当たらない。通りを歩く人々の服装も質素で、腰に武器を下げた冒険者の間を荷車が通り、商人たちは店先へ商品を並べ、農家の人々は朝のうちに収穫したものを運んでいる。
華やかさとは縁のない街だったが、朝になれば店を開ける者がいて、働きに出る者がいて、必要なものを買いに来る者がいる。そうした人々の暮らしの中を、かすみと譲は並んで歩いていた。
譲はかすみの隣から、初めて見る街を眺めている。
「ここが……これから暮らす街なんだね」
「うん」
かすみが頷く。
譲は通りの向こうへ目を向けた。大きな建物は少なく、道もそれほど広くない。
それでも店の前には買い物をする人がいて、荷車が来れば自然に道の端へ寄り、通り過ぎればまた歩き出す。見知らぬ場所なのに、眺めているうちに不思議と落ち着いてきた。
「気に入った?」
「うん!」
譲はすぐに笑い、そのままかすみの腕へ自分の腕を絡めた。
「ママと一緒なら、どこでもいい」
「ふふっ。そう言ってくれると嬉しいな」
かすみが頭を撫でると、譲はもっと身体を寄せてくる。
「本当?」
「本当だよ」
「じゃあ、ずっと一緒にいてね」
「もちろん」
その答えを聞いて、譲は安心したように笑った。
二人がこの街へやって来たのは、ここで暮らすためだった。これまでの旅では、いつもどこかへ向かって歩いていた。目的地があり、そこへ着けばまた次の何かが待っている。
これからは朝になれば目を覚まし、食事をして、必要なものがあれば街へ買いに出る。用事が済めば家へ戻り、夜になれば同じ場所で眠る。誰かに命じられたからでも、何かを成し遂げるためでもない。自分たちがここで暮らしたいと思ったから、この街を選んだ。
「まずは家を探さないとね」
「うん!」
二人は街の中へ入っていった。
不動産屋を訪ね、いくつかの家を案内してもらった。最初の家は部屋がいくつもあり、広い庭までついていたが、二人で暮らすには大きすぎる。譲も落ち着かない様子で部屋から部屋へ歩いていた。
次の家は街の中心に近く、買い物には便利そうだったものの庭がない。
三軒目は綺麗な家だったが、周囲の通りが賑やかで、窓を閉めていても人の声や馬車の音が聞こえてきた。
四軒目は、街の外れに建つ小さな一軒家だった。
家そのものは少し古く、壁や床には長く使われてきた跡が残っている。それでも荒れてはいなかった。前に住んでいた人が大切に使っていたのだろう。部屋はきちんと掃除され、窓の金具にも目立った錆はない。
窓を開けると、小さな庭が見えた。
その向こうには森が広がっている。
街の中心から離れているため、人の声は遠い。聞こえてくるのは鳥の声と、時折通りを走る荷車の音、それから風に擦れる木々の葉の音くらいだった。
譲は庭へ出ると、しばらく何も言わずに周囲を見回した。森のほうから吹いてきた風が髪を揺らす。木々を眺め、庭を見渡してから、譲は家を振り返った。
「……ここ」
「気に入った?」
「うん。ここがいい」
「どうして?」
譲は少し考えた。
「静かだから」
それから庭へ目を向ける。
「朝になったら、ここでママとご飯を食べられるかな」
「うん。庭でも食べられるよ」
「じゃあ、ここがいい」
かすみは譲の横顔を見た。まだ何も置かれていない庭を眺めながら、譲はもうそこで暮らす自分たちを思い浮かべているらしい。
「じゃあ、ここにしようか」
「本当!?」
「うん」
「やった!」
譲は庭を走り出した。
「ママとの家だ!」
かすみは笑いながら、その姿を見ていた。
その日のうちに最低限の荷物を運び込み、二人は家の中を整え始めた。
「ママ、これどこに置く?」
「それは棚の上でいいよ」
「こっちは?」
「寝室にお願い」
「分かった!」
譲は荷物を抱えて歩いていく。ひとつ置けばすぐに戻ってきて、次の荷物を持ってはまた場所を尋ねる。そんなことを何度も繰り返しているうちに、何もなかった部屋へ少しずつ二人のものが増えていった。
棚には二人の荷物が並び、寝室には布団が置かれ、台所の棚には食器が収まった。譲は自分の荷物を置くたびに、ときどき振り返ってその場所を確かめていた。
かすみは、旅のあいだも自分で運んできた小箱だけは譲へ渡さなかった。寝室の棚を布で拭き、箱から古い革袋を取り出す。紐を解いた拍子に、黒い板の角が覗いた。
荷物を抱えて通りかかった譲が足を止めた。黒い画面へ自分の顔が映った瞬間、胸の奥を細い糸で引かれたような気がした。
指を伸ばしかけると、かすみは端末を布で包み直した。拒む手つきではなく、長く繰り返してきた手順を崩さないように見えた。
「父さんからもらった、大切なものなの。動かないんだけど、ずっと持ってる」
それを聞き、譲は首を傾げた。いつ、どこで見たのかは浮かばない。胸の奥に残ったのは、誰かの隣で笑ったあとの温かさだけだった。
かすみが革袋を棚のいちばん奥へ置く。譲はもう一度だけその場所を見てから、抱えていた荷物へ視線を戻した。
夕方になった頃、譲は窓のそばに立っていた。
ここには自分の荷物がある。自分が眠る場所もある。振り返れば、すぐ近くでかすみが荷物を片づけている。
「ママ」
「なに?」
「ぼく、これから毎日ここに帰ってきていいんだよね?」
かすみは手を止めた。
譲の顔には、ほんの少しだけ不安が浮かんでいる。
「もちろんだよ」
「毎日?」
「毎日」
「ずっと?」
「ずっと」
譲はしばらくかすみを見つめていた。
やがて、ふっと頬が緩む。
「……えへへ」
かすみも笑った。
その日の夕方、家の前から声が聞こえてきた。
「おーい! かすみー! 譲ー!」
「この声……」
かすみが振り返ると、庭の向こうにルビアが立っていた。
「ルビア!」
「やっほー」
片手を上げながら、ルビアが近づいてくる。
「ちゃんと到着したみたいだね」
「うん。今日からここで暮らすよ」
「へぇ」
ルビアは家を見上げ、それから庭へ目を向けた。
「結構いいじゃん」
「ぼくも気に入った。庭もあるし」
「なるほど」
ルビアは笑った。
「それで、冒険者の登録は?」
「まだしてない」
「じゃあ、明日一緒に行こうか」
「いいの?」
「もちろん」
ルビアは譲へ顔を向けた。
「この街で冒険者として暮らすなら、最初はいろいろ覚えないとね。依頼の受け方とか、街のこととか」
「うん!」
「冒険者同士の付き合い方もね」
「それも教えて」
「任せて」
譲は嬉しそうに頷いた。かすみはそんな二人のやり取りを、少し離れたところから笑って見ていた。
夕食の時間になると、三人は新しい家の食卓を囲んだ。
かすみが作った料理を、譲は嬉しそうに食べている。
「おいしい?」
「うん!」
「よかった」
「ママの料理、大好き」
「ふふっ。いっぱい食べてね」
「うん!」
譲が夢中になって食べていると、かすみはときどき皿へ料理を取り分けた。向かいに座っているルビアは、その様子をしばらく眺めてから笑った。
「なんか、いいね」
「何が?」
「こういうの」
ルビアは料理をひと口食べる。
「静かな街で家を借りて、二人で暮らして。普通の生活って感じ」
かすみはその言葉を聞いて、窓の外へ目を向けた。
夕暮れはすでに終わり、辺境の街には夜が来ていた。窓から見える家々には明かりが灯り、通りを歩く人の姿も少なくなっている。
「うん」
かすみは小さく笑った。
「わたしも、こういうのが好き」
譲も頷いた。
「ぼくも」
三人で食卓を囲んでいると、昼間まで何もなかった家の中にいくつもの音が生まれていた。食器の触れ合う音、譲が料理を食べる音、ルビアの笑い声。窓の外からは、ときどき遠くを走る荷車の音が聞こえてくる。
食事を終えると、ルビアは食器を置いて立ち上がった。
「じゃあ、今日はそろそろ帰るね」
「うん。また来てね」
「もちろん」
玄関で靴を履きながら、ルビアが振り返る。
「明日は譲の冒険者登録だから、朝になったら迎えに来るよ」
「分かった!」
「寝坊しないでね」
「しないよ!」
「本当かなぁ」
ルビアは笑った。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ、ルビア」
「おやすみ」
扉が開き、ルビアが外へ出ていく。
しばらくして扉が閉まった。
譲は玄関に立ったまま、外から聞こえてくるルビアの足音を聞いていた。石畳を踏む音が少しずつ遠ざかり、やがて聞こえなくなると、家の中は急に静かになった。
振り返ると、さっきまで三人で囲んでいた食卓が見える。食器はまだ片づけておらず、椅子も三脚とも引かれたままになっていた。
譲はしばらくそれを眺めてから、かすみを見た。
「ママ」
「ん?」
「今日からここが、ぼくたちの家なんだね」
「うん」
譲は庭の見える窓へ目を向けた。
昼間ここへ来たときには何もなかった場所に、今は自分の荷物がある。寝室へ行けば自分の布団があり、棚を開ければ自分のものが入っている。今夜ここで眠っても、明日の朝にはまた同じ場所で目を覚ます。
「……嬉しい」
小さく息を吐いてから、譲はかすみに抱きついた。
かすみは少し驚いた顔をしたものの、すぐに譲の背中へ腕を回す。
「わたしも嬉しいよ」
譲はしばらくそのまま、かすみに身体を預けていた。
「ママ」
「なあに?」
「これからも、ずっと一緒にいようね」
かすみは譲の髪を撫でた。
「うん」
もう一度、ゆっくり撫でる。
「ずっと一緒だよ」
「うん」
譲は顔を上げて笑った。
「じゃあ、明日の朝もママが起こしてね」
「いいよ」
「冒険者登録、寝坊したら困るから」
「譲なら、起こしても起きない気がするけど」
「起きるよ」
「本当?」
「本当!」
かすみが笑うと、譲も笑った。
二人は食卓へ戻り、残っていた食器を片づけ始めた。窓の外では街の灯りがひとつずつ消え、森のほうから吹いてきた風が庭の木々を揺らしている。
「ママ」
「なに?」
「明日の朝、ご飯は何?」
「もう明日の心配してるの?」
「だって、ここで食べるんでしょ?」
「うん。何が食べたい?」
譲は少し考えた。
「……パン」
「パン?」
「あと、卵」
「分かった」
「庭で食べてもいい?」
かすみは窓の外を見た。
昼間、譲が嬉しそうに走り回っていた小さな庭が、今は月明かりの下にある。
「明日の朝、晴れてたらね」
「約束?」
「約束」
「やった」
譲は嬉しそうに笑った。
かすみも笑い、洗い終えた食器を棚へ戻した。




