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神々に願った、たった一つの愛  作者: 狹霧
第7章 「母と子」
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第39話「おかえり、ゆずるくん」

森には、先ほどまでとは違う静けさが戻っていた。

譲はまだ泣いている。かすみはその姿を見つめながら、目の前にいる少年が本当に自分の息子なのだと、何度も確かめていた。手を伸ばせば届くほど近くにいることが、どうしても現実とは思えない。

何度も探した。何度も会いたいと思った。どこへ行けば会えるのかも分からないまま、それでも探すことだけはやめられなかった。何ひとつ手がかりを得られない時間を重ね、もう二度と会えないのではないかと思ったこともある。その息子が、今は自分の前で涙を流している。

かすみはゆっくり息を吸った。

「……ねえ」

譲が顔を上げる。

「あなたの名前……教えてくれる?」

先ほどまで自分を殺そうとしていた女性が、なぜそんなことを尋ねるのか。譲には分からなかった。それでも不思議と嫌ではなく、少し迷ってから口を開いた。

「……ぼくは、譲」

その名前を聞いた途端、かすみの胸が震えた。

「……譲」

今世では初めて呼ぶ名前だった。それなのに声にしてみると、ずっと胸の奥に張りつめていたものが、ようやくほどけていくような気がした。

「……譲くん」

また涙が落ちる。

譲は不思議そうに彼女を見た。

「……どうして、泣いてるの?」

答えようとして、かすみは口を閉じた。

ずっと探していた。会いたかった。もう会えないと思ったこともあった。それでも諦められなかった。そして、自分はあなたの母親なのだと伝えたかった。胸の中にはいくつもの言葉が溢れているのに、どれから口にすればいいのか分からない。前世を認識していない少年へ、知らない人生を押しつけることにはならないか。

今はただ、この子に触れたかった。

かすみが手を伸ばしかける。その手は、譲へ届く前に止まった。

つい先ほどまで、自分はこの子へ剣を向けていた。

大魔王を討伐するためにここへ来て、本気で殺そうとした。その記憶が、伸ばしかけた腕を動かなくした。

「……ごめんね」

譲が目を瞬かせる。

「え……?」

「怖かったよね」

かすみは譲の顔を見たまま、ゆっくりと言った。

「わたし、あなたを殺しに来た」

譲は何も言わなかった。

「話を聞かずに決めつけたのは、わたしの間違い。もう、そんなこと絶対にしない」

声が震えた。

「ごめんね」

譲は黙ったまま、かすみを見ていた。その目から恐怖が消えたわけではない。ついさっきまで剣を向けられていたのだから、簡単に消えるはずもなかった。

それでも、敵を見るように固くなっていた表情は、少しずつ変わり始めていた。

かすみはその場に膝をつき、少年と目線を合わせた。

今度は両腕を伸ばす。

それでも、触れる直前で止めた。

「……抱きしめても、いい?」

譲は戸惑った。

怖かったはずなのに、この人から逃げたいとは思わなかった。むしろ胸の奥には、先ほどからずっと消えてくれない気持ちがある。この人のそばへ行きたい。この人に触れてほしい。なぜそんなことを思うのか、自分でも分からない。

分からないまま、譲は小さく頷いた。

かすみは、そっと少年を抱きしめた。

腕の中に譲の身体が収まった瞬間、かすみは息を止めた。

最初は譲の身体も固くなっていた。触れられることに慣れていない身体が、どうすればいいのか分からないように強張っている。

それでも、かすみは急いで力を込めなかった。ただ逃げようと思えば逃げられるように腕を添え、その小さな身体を包んでいた。

しばらくすると、譲の肩から少しずつ力が抜けていった。

温かい。

譲はかすみの胸に顔を埋めた。

初めてのはずだった。少なくとも、譲が覚えている限りでは、この人に抱かれたことなど一度もない。それなのに身体を預けていると、初めてではないような気がした。

どこかで知っている。

何を知っているのかは思い出せない。顔も、声も、名前さえ記憶にはない。それでも、この温かさに包まれていると、胸の奥でずっと何かを探していた自分が、ようやく探すことをやめてもいいような気がした。

かすみは少年の頭へ手を置き、ゆっくり髪を撫でた。

その感触を知っている。

小さかった頃も、こうして撫でた。眠れないときも、泣いているときも、甘えるように寄りかかってきたときも、何度となくこの髪へ触れた。

「……会いたかった」

声が震えた。

「ずっと……ずっと、探してた」

譲は答えず、かすみの服を握った。

胸元を掴んだ小さな手の感触に、かすみは目を閉じた。記憶の中でも、小さな手はいつも自分を握っていた。あの頃より少し大きくなった手が、今また自分を離すまいと服を掴んでいる。

ようやく会えた。

本当に、ようやく。

「おかえり、ゆずるくん……」

譲の目から涙が落ちた。

なぜ「おかえり」と言われたのかは分からない。自分がどこへ帰ってきたのかも知らない。それなのに、その言葉を聞いた途端、胸の奥が温かくなった。

「……ママ……」

小さな声だった。

かすみの身体が止まった。

腕の中にいる少年を抱いたまま、目を閉じる。涙が頬を伝った。

「……うん」

暗い廊下も、冷たくなった小さな手も、今は言葉にしなかった。

それ以上、何も言えなかった。

しばらく二人はそのままでいた。森を抜ける風が木々を揺らし、重なった葉の隙間から光が落ちている。かすみは何度も譲の髪を撫で、譲もまた、かすみの服を握った手を離さなかった。

譲は掌の温度を確かめるように、かすみの手へ頬を寄せた。

「――かすみ!」

遠くから声が響いた。

かすみが顔を上げる。

木々の向こうから、ルビアが走ってきた。

「かすみ! 無事だった――って……」

ルビアの足が止まった。

大魔王を討伐するために森へ入ったはずのかすみが、一人の少年を抱きしめている。しかも、二人とも泣いていた。

「……え?」

しばらく、その光景を見つめることしかできなかった。

ようやく我に返ったルビアは、かすみと、その腕の中にいる譲を交互に見る。

「ちょっと待って……どういうこと?」

かすみは譲を抱いたまま、ルビアを見た。

「ルビア……」

「大魔王を倒しに行ったんじゃなかったの?」

「うん……そうだった」

かすみは答えながら、譲の髪を撫でた。

「でもね」

その手は止まらなかった。

「この子は……わたしの息子なの」

ルビアの目が大きく見開かれた。

「……え?」

沈黙が続いた。

ルビアはかすみを見て、それから腕の中の譲を見る。もう一度かすみへ視線を戻したとき、最初の驚きは少しずつ別のものへ変わっていた。

五年前の焚き火で聞いた話が、森の光景と重なる。前世で失い、転生してからも探し続けた息子。どこにいるか分からなくても、見つけるまで諦めないと言っていた。

「……そういうことだったのか」

かすみは小さく頷いた。

何があったのか、まだ何も聞いていない。それでもルビアには、二人の顔を見ているだけで分かるような気がした。

かすみがずっと探していたもの。

譲が、自分でも知らないまま求めていたもの。

その二つが今、同じ場所にある。

「……よかったね、かすみ」

かすみは答えなかった。

ただ、腕の中の譲をもう一度抱きしめた。譲も何も言わず、かすみの服を握っている。

譲には、まだ分からないことがいくつもあった。なぜ自分がここにいるのか。この女性がなぜ自分を息子と呼ぶのか。どうして自分は、この人を「ママ」と呼んでしまったのか。

それでも今は、答えを探そうとは思わなかった。

かすみの胸に頬を寄せていると、体温が伝わってくる。頭を撫でる手は優しく、服を握っていても振りほどかれることはない。

かすみは息子の髪を撫でながら、もう一度だけ小さく呟いた。

「……おかえり」

譲は目を閉じた。

その言葉に込められたものを、まだ全部は知らない。

ただ、腕の中は温かかった。

森を抜ける穏やかな風の中で、譲はもう、かすみの服を握った手を離そうとはしなかった。

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