第39話「おかえり、ゆずるくん」
森には、先ほどまでとは違う静けさが戻っていた。
譲はまだ泣いている。かすみはその姿を見つめながら、目の前にいる少年が本当に自分の息子なのだと、何度も確かめていた。手を伸ばせば届くほど近くにいることが、どうしても現実とは思えない。
何度も探した。何度も会いたいと思った。どこへ行けば会えるのかも分からないまま、それでも探すことだけはやめられなかった。何ひとつ手がかりを得られない時間を重ね、もう二度と会えないのではないかと思ったこともある。その息子が、今は自分の前で涙を流している。
かすみはゆっくり息を吸った。
「……ねえ」
譲が顔を上げる。
「あなたの名前……教えてくれる?」
先ほどまで自分を殺そうとしていた女性が、なぜそんなことを尋ねるのか。譲には分からなかった。それでも不思議と嫌ではなく、少し迷ってから口を開いた。
「……ぼくは、譲」
その名前を聞いた途端、かすみの胸が震えた。
「……譲」
今世では初めて呼ぶ名前だった。それなのに声にしてみると、ずっと胸の奥に張りつめていたものが、ようやくほどけていくような気がした。
「……譲くん」
また涙が落ちる。
譲は不思議そうに彼女を見た。
「……どうして、泣いてるの?」
答えようとして、かすみは口を閉じた。
ずっと探していた。会いたかった。もう会えないと思ったこともあった。それでも諦められなかった。そして、自分はあなたの母親なのだと伝えたかった。胸の中にはいくつもの言葉が溢れているのに、どれから口にすればいいのか分からない。前世を認識していない少年へ、知らない人生を押しつけることにはならないか。
今はただ、この子に触れたかった。
かすみが手を伸ばしかける。その手は、譲へ届く前に止まった。
つい先ほどまで、自分はこの子へ剣を向けていた。
大魔王を討伐するためにここへ来て、本気で殺そうとした。その記憶が、伸ばしかけた腕を動かなくした。
「……ごめんね」
譲が目を瞬かせる。
「え……?」
「怖かったよね」
かすみは譲の顔を見たまま、ゆっくりと言った。
「わたし、あなたを殺しに来た」
譲は何も言わなかった。
「話を聞かずに決めつけたのは、わたしの間違い。もう、そんなこと絶対にしない」
声が震えた。
「ごめんね」
譲は黙ったまま、かすみを見ていた。その目から恐怖が消えたわけではない。ついさっきまで剣を向けられていたのだから、簡単に消えるはずもなかった。
それでも、敵を見るように固くなっていた表情は、少しずつ変わり始めていた。
かすみはその場に膝をつき、少年と目線を合わせた。
今度は両腕を伸ばす。
それでも、触れる直前で止めた。
「……抱きしめても、いい?」
譲は戸惑った。
怖かったはずなのに、この人から逃げたいとは思わなかった。むしろ胸の奥には、先ほどからずっと消えてくれない気持ちがある。この人のそばへ行きたい。この人に触れてほしい。なぜそんなことを思うのか、自分でも分からない。
分からないまま、譲は小さく頷いた。
かすみは、そっと少年を抱きしめた。
腕の中に譲の身体が収まった瞬間、かすみは息を止めた。
最初は譲の身体も固くなっていた。触れられることに慣れていない身体が、どうすればいいのか分からないように強張っている。
それでも、かすみは急いで力を込めなかった。ただ逃げようと思えば逃げられるように腕を添え、その小さな身体を包んでいた。
しばらくすると、譲の肩から少しずつ力が抜けていった。
温かい。
譲はかすみの胸に顔を埋めた。
初めてのはずだった。少なくとも、譲が覚えている限りでは、この人に抱かれたことなど一度もない。それなのに身体を預けていると、初めてではないような気がした。
どこかで知っている。
何を知っているのかは思い出せない。顔も、声も、名前さえ記憶にはない。それでも、この温かさに包まれていると、胸の奥でずっと何かを探していた自分が、ようやく探すことをやめてもいいような気がした。
かすみは少年の頭へ手を置き、ゆっくり髪を撫でた。
その感触を知っている。
小さかった頃も、こうして撫でた。眠れないときも、泣いているときも、甘えるように寄りかかってきたときも、何度となくこの髪へ触れた。
「……会いたかった」
声が震えた。
「ずっと……ずっと、探してた」
譲は答えず、かすみの服を握った。
胸元を掴んだ小さな手の感触に、かすみは目を閉じた。記憶の中でも、小さな手はいつも自分を握っていた。あの頃より少し大きくなった手が、今また自分を離すまいと服を掴んでいる。
ようやく会えた。
本当に、ようやく。
「おかえり、ゆずるくん……」
譲の目から涙が落ちた。
なぜ「おかえり」と言われたのかは分からない。自分がどこへ帰ってきたのかも知らない。それなのに、その言葉を聞いた途端、胸の奥が温かくなった。
「……ママ……」
小さな声だった。
かすみの身体が止まった。
腕の中にいる少年を抱いたまま、目を閉じる。涙が頬を伝った。
「……うん」
暗い廊下も、冷たくなった小さな手も、今は言葉にしなかった。
それ以上、何も言えなかった。
しばらく二人はそのままでいた。森を抜ける風が木々を揺らし、重なった葉の隙間から光が落ちている。かすみは何度も譲の髪を撫で、譲もまた、かすみの服を握った手を離さなかった。
譲は掌の温度を確かめるように、かすみの手へ頬を寄せた。
「――かすみ!」
遠くから声が響いた。
かすみが顔を上げる。
木々の向こうから、ルビアが走ってきた。
「かすみ! 無事だった――って……」
ルビアの足が止まった。
大魔王を討伐するために森へ入ったはずのかすみが、一人の少年を抱きしめている。しかも、二人とも泣いていた。
「……え?」
しばらく、その光景を見つめることしかできなかった。
ようやく我に返ったルビアは、かすみと、その腕の中にいる譲を交互に見る。
「ちょっと待って……どういうこと?」
かすみは譲を抱いたまま、ルビアを見た。
「ルビア……」
「大魔王を倒しに行ったんじゃなかったの?」
「うん……そうだった」
かすみは答えながら、譲の髪を撫でた。
「でもね」
その手は止まらなかった。
「この子は……わたしの息子なの」
ルビアの目が大きく見開かれた。
「……え?」
沈黙が続いた。
ルビアはかすみを見て、それから腕の中の譲を見る。もう一度かすみへ視線を戻したとき、最初の驚きは少しずつ別のものへ変わっていた。
五年前の焚き火で聞いた話が、森の光景と重なる。前世で失い、転生してからも探し続けた息子。どこにいるか分からなくても、見つけるまで諦めないと言っていた。
「……そういうことだったのか」
かすみは小さく頷いた。
何があったのか、まだ何も聞いていない。それでもルビアには、二人の顔を見ているだけで分かるような気がした。
かすみがずっと探していたもの。
譲が、自分でも知らないまま求めていたもの。
その二つが今、同じ場所にある。
「……よかったね、かすみ」
かすみは答えなかった。
ただ、腕の中の譲をもう一度抱きしめた。譲も何も言わず、かすみの服を握っている。
譲には、まだ分からないことがいくつもあった。なぜ自分がここにいるのか。この女性がなぜ自分を息子と呼ぶのか。どうして自分は、この人を「ママ」と呼んでしまったのか。
それでも今は、答えを探そうとは思わなかった。
かすみの胸に頬を寄せていると、体温が伝わってくる。頭を撫でる手は優しく、服を握っていても振りほどかれることはない。
かすみは息子の髪を撫でながら、もう一度だけ小さく呟いた。
「……おかえり」
譲は目を閉じた。
その言葉に込められたものを、まだ全部は知らない。
ただ、腕の中は温かかった。
森を抜ける穏やかな風の中で、譲はもう、かすみの服を握った手を離そうとはしなかった。




