第38話「思い出した」
「……ママ……」
その言葉を聞いた瞬間、かすみの中で何かが動いた。ほんの一瞬、視界が揺れ、目の前にあった森が遠のいていく。
その代わりに入り込んできたのは、自分の指を握る小さな手だった。あまりにも小さく、少し力を入れれば壊れてしまいそうな手が、確かに自分を握っている。
かすみは息を止めた。
次に浮かんだのは、柔らかな髪と小さな身体だった。男の子が泣きながら、自分へ向かって懸命に手を伸ばしている。
『ママ』
声が聞こえた。
胸が大きく震え、かすみは思わず胸元を押さえた。
「……何、これ」
森の景色が再び揺らぐ。今度は腕の中に、小さな男の子がいた。泣いていたはずの顔はいつの間にか笑っていて、その顔を見ながら自分も笑っている。胸に抱いた身体の感触も、伝わってくる体温も、その小さな重さまで知っていた。
忘れていたはずなのに、身体だけが覚えていた。
声は記憶の中の幼い呼び声と違い、目の前の少年もあの夜より大きくなっていた。
「……坊や」
口からこぼれた呼び方に、かすみ自身が戸惑った。けれど、一つ思い出すたびに、それまで閉ざされていたものが次々と開いていく。手を握ったこと。抱き上げたこと。泣く子をあやしたこと。笑った顔を見て、自分まで嬉しくなったこと。忘れていたと思っていた日々のどこを辿っても、そこには同じ男の子がいた。
自分が愛したもの。守りたかったもの。そして、失ったもの。
「……嘘」
頬を伝った涙にも気づかないまま、かすみは目の前の少年を見た。
譲はまだ泣いていた。
涙で濡れた目。泣くのを堪えるときの口元。助けを求めながら、相手を困らせまいと声を抑える癖。その顔に、記憶の中の幼い男の子が重なる。
「……この子が……」
声が震えた。
腕の中で眠る小さな身体が浮かんだ。起こさないように髪を撫でた自分の手も、その寝顔をいつまでも見ていた自分の気持ちも覚えている。
大切だった。何よりも大切だった。何を失っても、この子だけは守りたかった。
「……わたしの……」
その先が喉につかえた。
譲が顔を上げる。涙に濡れた瞳が自分を見た瞬間、かすみの中に残っていた最後の記憶までが、ひとつにつながった。
「……息子」
声にした途端、涙が溢れた。
なぜ、この少年を初めて見たときから目を離せなかったのか。声を聞くだけで胸が痛み、「母」という言葉にあれほど心を乱されたのか。今になって思えば、分からなかったことのすべてが同じ場所へつながっていた。
「……坊や」
震える声で呼ぶと、譲は不思議そうに顔を上げた。
「……?」
その目には、まだ戸惑いが残っている。
かすみは泣きながら少年を見つめた。
目の前にいる。
ずっと探していた。どこにいるのかも分からず、もう二度と会えないのかもしれないと思っていた。それでも忘れることのできなかった子が、今、自分の目の前にいる。
「……いた」
唇が震えた。
「ずっと……ここにいたんだ」
譲には、その言葉の意味が分からない。ただ、目の前の女性が泣いていることだけは分かった。
「……どうして、泣いてるの?」
かすみは答えられなかった。
何から話せばいいのか分からない。言葉にしようとすれば、思い出したばかりの記憶も、失った日の悲しみも、もう会えないと思っていた長い時間も、すべて一緒に溢れてしまいそうだった。
だから、ただ少年を見つめた。
もう一度、その顔を確かめるように。
「……坊や」
同じ呼び方を繰り返す。
譲は戸惑ったまま、かすみを見つめていた。何を思い出したのかも、なぜ自分をそんなふうに呼ぶのかも分からない。それなのに、その声を聞いていると、先ほどまで胸の奥を締めつけていたものが、ほんの少しだけ柔らかくなるような気がした。
かすみは涙を拭わなかった。そんなことを考える余裕もなく、ただ目の前にいる少年の姿を見つめていた。記憶の中にしかいなかった息子がここにいる。その事実を、まだ信じきれない自分に何度も教えるように見つめ続けた。
その頃、森へ向かってルビアが走っていた。
「かすみ……!」
足を止めることはできなかった。何が起きているのかはまだ分からない。それでも、間に合わなければならないという思いだけが彼女を急がせる。譲の力を知っているからこそ、考えまいとしても悪い想像ばかりが浮かんできた。
「お願いだから……無事でいて……!」
ルビアはさらに速度を上げた。
森の奥では、かすみが今も息子を見つめていた。
まだ抱きしめてはいない。自分が母親だとも告げていない。
それでも、もう迷うことはなかった。
目の前で涙を浮かべ、自分がなぜ「坊や」と呼ぶのかも分からずにいるこの少年こそ、かすみがずっと探していた息子だった。




