第37話「ママ……」
かすみは剣を握っていた。けれど、その刃をもう少年へ向けていられなかった。譲の力を前にして、自分では勝てないことは分かっている。それだけが理由ではない。目の前にいる少年が今にも泣き出しそうな顔をしている。その顔を見ていると、胸のあたりが苦しくなった。
「……勝てない」
ようやく、かすみは認めた。自分の声が森の中へ落ちていく。
悔しかった。自分ならできると思っていた。大魔王だって倒せる。そう思ったから、この依頼を受けたのだ。
けれど今は、その自信を支えていたものが見つからない。剣を握っている手にも、先ほどまでの確信は残っていなかった。
「……馬鹿だ、わたし」
剣先が下がる。譲は黙ったまま、その様子を見ていた。
かすみの顔には恐怖があった。譲にも、それは分かっている。それなのに、先ほどから胸に残っている感覚のほうが気になって仕方がなかった。かすみを見ると、どうしても心が落ち着かない。
懐かしい。
そんな言葉が頭に浮かんだ。けれど、何を懐かしいと思っているのかは分からない。
譲には、母との記憶がなかった。顔も知らない。声も知らない。抱かれたことがあるのか、手を握ってもらったことがあるのか、それさえ思い出せない。思い出そうとしても何も浮かばず、どれほど昔へ手を伸ばしても、そこには何もなかった。
それなのに、ときどき無性に誰かを求めたくなることがあった。
一人で眠る夜だったり、知らない親子が手を繋いで歩いているのを遠くから見たときだったり、理由もなく淋しくなったときだったりした。何を求めているのか、自分でも分からなかった。
ただ、誰かのそばへ行きたいと思った。自分を抱きしめてくれる腕がどこかにあるような気がして、それがどんなものなのかも知らないくせに、ないことだけは淋しかった。
温かい場所。誰かの腕。何も怖がらずに身体を預けてもいい場所。
譲は、そのどれも覚えていない。
知らないのに、欲しかった。
ずっと欲しかった。
その気持ちが何なのか分からないまま生きてきたのに、かすみを見ていると、胸の奥に空いていた場所が急に痛み始める。ずっとそこにあったはずなのに、自分でも気づかなかった穴へ、初めて何かが触れたような気がした。
「……どうして」
譲の声が小さく震え、かすみが顔を上げる。
「どうして、あなたまで……」
そこで言葉が止まった。譲は自分の胸を押さえた。
苦しい。頭では分かっている。この女性は、自分を殺しに来た。それなのに、胸の奥から離れない気持ちがある。この人に近づきたい。この人のそばにいたい。できるなら、もう少し近くで声を聞いていたい。
そんなことを思う理由が分からない。
「ぼく……あなたのこと、知らないのに」
かすみは何も言えなかった。
本当に知らない。今日初めて会った。名前さえ知らない。なのに、離れてほしくないと思ってしまう。
それが譲には怖かった。
「どうして……」
譲の目に涙が浮かぶ。
「どうして、ぼくを殺そうとするの?」
かすみの唇が震えた。
「……坊や」
まだ名前すら知らないはずなのに、口から出そうになったその呼び方を、かすみは飲み込んだ。
譲は俯いた。
「ぼく、何もしてないのに……」
少年がゆっくり顔を上げる。濡れた目が、かすみを捉えた。
声だけを聞けば、子供そのものだった。強大な力を持つ大魔王とは思えない。ただ、自分を傷つける理由が分からず、戸惑っている一人の少年だった。
「……何をしたのか、先に聞くべきだった。何があったの?」
「ぼくから町を襲ったことはないよ。何度も追ってくる人たちから逃げられなくなったとき、押し返しただけ」
かすみは剣を握っていた手を見た。
かすみは剣を完全に下ろした。
譲の肩が震え、涙が一滴、地面に落ちた。それを境に、次々と涙が頬を伝っていく。
「……どうして……」
譲は顔を覆った。
「どうして……この人まで、ぼくを殺しに来るの……?」
かすみは息を呑んだ。何も答えられない。答えられるはずがなかった。
譲にも、自分がなぜこれほど悲しいのか分からなかった。これまでにも自分を恐れる人間はいた。傷つけようとする者もいた。逃げればよかった。近づかなければ、それで済んだ。誰に嫌われても、一人でいればいいと思っていた。
なのに、この人だけは嫌だった。
この人に怖がられることが嫌だった。この人に剣を向けられることが、どうしようもなく悲しかった。
知らない人なのに。
初めて会った人なのに。
譲の肩が小さく震える。その姿を見ているうちに、かすみの胸にも知らない痛みが広がっていった。
やがて譲は、その場に膝をついた。
「……うっ……」
地面へ涙が落ちる。
かすみは一歩だけ動いた。けれど、それ以上は進めなかった。譲は顔を伏せたまま泣いている。何を言えばいいのか、かすみには分からなかった。
譲は自分でも分からないものを求めるように、顔を上げようとした。
誰かに来てほしかった。
誰なのかは分からない。
名前も、顔も、声も知らない。それでも、泣いている自分を見つけたら来てくれる人がいるような気がした。抱きしめて、もう大丈夫だと言ってくれる人が、どこかにいるような気がした。
そんな人を、譲は知らない。
知らないはずなのに、ずっと待っていた。
そのときだった。
「……ママ……」
小さな声だった。
かすみは動きを止めた。
譲自身も、なぜその言葉が口から出たのか分からなかった。母の顔を思い出したわけではない。声を思い出したわけでも、抱かれた記憶が戻ったわけでもない。
何も思い出していない。
それでも、胸の奥にずっと残っていたものに名前をつけるなら、その言葉しかなかった。
「……ママ……」
二度。
願うような声だった。
かすみは少年を見つめた。泣いている。何かを求めている。その姿を見ていると、胸の奥が締めつけられる。
けれど、まだ何も分からない。
かすみは、目の前で泣いている少年を見つめていた。




