第35話「対峙」
冒険者ギルドの掲示板には、朝からいくつもの依頼書が並んでいた。魔物の討伐、護衛、薬草の採取。冒険者なら何度も目にするような依頼ばかりだ。その中で、一枚だけ妙に人の目を引くものがあった。
かすみは、たまたまその前を通りかかっただけだった。けれど、紙に記された名前を見たところで足が止まった。
「……大魔王、討伐」
思わず声が漏れた。
依頼の内容は単純だった。大魔王の討伐。報酬は、普通の討伐依頼とは比べものにならないほど高い。周囲の冒険者たちは、その一枚を避けるようにして歩いていた。誰も手を伸ばそうとはしない。近くでは小声で何かを話す声も聞こえたが、かすみはそちらへ意識を向けず、紙に書かれた内容だけを眺めた。
「……魔王、……勇者が、これを受けろってこと?」
誰に言ったわけでもない。返事が返ってくるはずもなかった。
かすみは依頼書を掲示板から取り、受付へ向かった。受付嬢は紙を受け取ると、一瞬だけ目を見開く。
「こちらの依頼を……受けられるんですか?」
「うん」
「大魔王討伐、ですよ?」
「見れば分かるよ」
かすみは笑った。受付嬢は困ったような顔をしたものの、それ以上は何も言わなかった。冗談で受けようとしているわけではないことくらい、かすみの様子を見れば分かったのだろう。
必要な手続きを終えると、かすみはギルドを出た。
外へ出た途端、明るい日差しが目に入った。道を歩く人がいる。店先から声が聞こえ、遠くでは荷車が石畳を軋ませている。ついさっきまで命懸けの依頼を受けていたことが、ひどく現実離れした出来事のように思えた。
かすみは手にした依頼書をもう一度見てから、空を見上げた。
「……大魔王、か」
胸の中に恐怖はなかった。自分ならできると思っていた。
これまで何度も強敵と戦ってきた。周囲から強いと言われることにも慣れている。自分の力を疑ったことも、ほとんどなかった。相手が大魔王だろうと、今回も同じだと思っていた。負けるとは思わない。
かすみは腰にある聖剣へ手を触れた。第七十八世界の神器や宝具が融合した神々の力を宿す一振り。その傍らには、まだ剣の形を持たない力があった。
第百八世界で積み重ねてきた旅の中で、剣や槍、弓の技、古い遺跡で読み解いた魔術を身につけ、精霊の加護や数々の宝具・武具も得ていた。
依頼書に記された「大魔王」の文字を思い出しながら、かすみは、この世界で得た宝具や武具へ意識を向けた。そこへ精霊たちの加護が重なっていく。
かすみは目を閉じた。
第七十八世界でも、一度だけ同じことをしている。あの世界で得た宝具や武具、加護を一つへ統合し、自分の手で聖剣を生み出した。
ならば、この世界で得たものも。
宝具と武具、それぞれに宿る力へ加護が重なり、一つへ集まっていく。やがて光の中に柄が生まれ、そこから刃が伸びた。
光が収まると、かすみの手にはもう一本の剣があった。
第百八世界で得た宝具・武具・加護を統合した、二本目の聖剣だった。
かすみはしばらく刃を眺め、それから最初の聖剣と並べた。二つの世界で得たものが、それぞれ一本の聖剣として手の中にある。
試すように二本を握る。重さも、魔力の流れも、手にした瞬間から馴染んだ。
「……これなら」
口元に笑みが浮かんだ。
世界最強と呼ばれるまでに積み重ねた力へ、もう一本の聖剣が加わった。大魔王という名を前にしても、負ける自分を想像できなかった。
「……行こう」
かすみは歩き出した。
山を越え、森へ入る。道は次第に細くなり、人の足跡も少なくなっていった。
やがて獣道さえ途切れ、木々の間から差し込んでいた光も減っていく。森の奥へ進むほど辺りは薄暗くなったが、それでも、かすみは足を止めなかった。
しばらく進んだところで、妙なことに気づいた。
音がない。
鳥の声がしない。獣の気配もない。風が木の葉を揺らす音だけが、遠くからかすかに聞こえてくる。かすみは足を止めた。
静かすぎる。
「……ここ?」
返事はなかった。
その代わり、前方から何かの気配を感じた。かすみは剣の柄へ手を添える。肌が粟立った。姿はまだ見えない。それなのに、そこにいるものが持つ力だけが、空気を通して伝わってくる。
今まで感じたことのない圧力だった。
「……すごい」
怖いという感覚より先に、驚きがあった。これほどの力を持つ存在がいる。その事実に、かすみの中にある戦士としての感覚が強く反応していた。
一歩進む。さらに一歩。
木々の向こうが開けてきた。
その中央に、一人の少年が立っていた。かすみは足を止めた。
もっと恐ろしい姿を想像していた。巨大な身体や異形の姿、見ただけで逃げ出したくなるような怪物を思い描いていたのに、目の前にいるのは一人の少年だった。静かに立ち、こちらを見ている。
少年――譲は、かすみを見ても動かなかった。
「……あなたが、大魔王?」
かすみが尋ねる。
少年は少しだけ首を傾けた。
「そうだよ」
声も、想像していたものとは違った。
かすみは剣を抜いた。鋭い金属音が、森の静けさを切る。
「あなたを討つために来た」
譲は、その言葉を聞いても逃げなかった。ただ、かすみを見ている。その目に敵意はない。それが、かすみには妙に気に障った。
「……戦わないの?」
「うん。戦うなら、戦うよ」
あまりにも静かな返事だった。
かすみは眉を寄せ、剣を握り直した。
そのとき、空気が変わった。
ほんの僅かな変化だった。譲から漏れた力が森へ広がり、周囲を押さえつけるように空気が重くなる。
「――っ」
息が止まった。
足が動かない。
身体が、頭で考えるより先に理解していた。
目の前にいる少年は、自分より強い。それも、少しの差ではない。比べることそのものが意味を持たないと思えるほどだった。
かすみの手のひらに汗が滲み、握った剣の先がわずかに震えた。
「……嘘」
これほどの力の差を感じたことはなかった。
譲が一歩、近づく。
ただ、それだけだった。
それだけなのに、かすみの身体は強張った。
「……戦うの?」
初めて見る顔。初めて聞く声。そのはずなのに、涙を堪えるように結ばれた唇も、こちらの答えを待つ目も、知っているものに触れたような気がした。
もう一度、譲が尋ねる。
かすみは答えられなかった。剣を握ったまま、ただ少年を見つめている。
戦えば、死ぬ。
頭の中では、妙に冷静な声がそう告げていた。逃げたいと思っている。それなのに、目を逸らすことができない。
なぜなのか、かすみ自身にも分からなかった。
目の前にいるのは敵だ。自分を殺せるほど強い存在なのだから、恐れるのは当然だった。それなのに、その少年の姿を見ていると、胸の奥に説明のつかない感覚が生まれてくる。
懐かしいような気がする。
けれど、懐かしいと呼ぶには、あまりにも知らない。
かすみは知らない少年を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……なんで」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
譲は答えない。
かすみは剣を握ったまま、目の前の少年から目を離せなかった。




