外伝2 第7話「天を駆ける勇者、大地を砕く拳」
ルビアと別れてから、かすみは一人で旅を続けていた。山道を越え、町を通り過ぎる。一人で歩くことには、もう慣れている。道を選び、食事をする場所を探し、宿を決める。五年前なら隣にいるルビアへ尋ねていたことも、今は自分で考えて動けた。
それでも長い旅の途中では、ふと隣を歩く足音を思い出すことがある。振り向けば誰もいない。そのたびに足を止めることも、もうなかった。
北へ延びる山道を歩いていたとき、山の向こうから轟音が響いた。
岩肌が砕け、細かな石が谷へ落ちていく。かすみが顔を上げると、巨大な翼を広げた厄災が山々の間を旋回していた。翼が一度動くたび、空気そのものが押し潰されるような衝撃が地上へ叩きつけられている。
「……厄災」
聖剣を抜き、風の精霊へ意識を向けた。身体の周囲を風が巡る。
地面を蹴ると、足元が一気に遠ざかった。
厄災がこちらへ向きを変える。翼が大きく開いた。
次の瞬間、正面から風の壁が押し寄せた。
かすみは逆らわなかった。身体を押し戻す流れへ乗り、そのまま斜めへ抜ける。風圧が頬を切り、髪を激しく揺らした。厄災との距離は開いたが、かすみはすぐには追わなかった。
翼が動くと風が集まり、衝撃が来る直前、巨体の片側がわずかに沈む。
二度目は、その動きを見てから身体をずらした。衝撃の中心を外れ、流れの縁へ入る。風に押される力を利用して高度を上げ、厄災の上を取った。
ルビアと初めて剣を交えた頃なら、正面から力で押し切ろうとしていた。何度も動きを読まれ、何度も止められた。五年間の旅で直された癖は、もう身体に残っていない。
厄災が急旋回した。翼の先が迫る。
聖剣で受けず、身を沈める。頭上を巨大な翼が通り過ぎた瞬間、かすみは風を蹴った。
黒い表皮へ刃が入る。
浅い。
厄災が身を捻り、かすみを振り落とすように上昇した。続けて翼を打ち、至近距離から衝撃を放つ。避けきれず、肩から腕に痛みが走った。身体が弾かれ、空中で何度も回る。
かすみは風を集めて姿勢を戻した。傷を確かめるより先に厄災を見ると、先ほど斬った翼だけ、動きがわずかに遅れていた。
「そこ」
次の衝撃が来るまで待った。
翼が開き、巨体が傾く。風が集まり始めた瞬間、かすみは正面から消えるように高度を落とした。押し寄せる風の下を抜け、傷のある翼へ回り込む。
聖剣を深く振り抜いた。
巨大な翼が裂け、厄災の身体が傾く。均衡を失った巨体が山へ向かって落ち始めた。
かすみも追う。
落下しながら暴れる翼をかわし、中心へ聖剣を突き立てた。
厄災の身体が光へ変わる。山肌へ届く前に輪郭を失い、風の中へ消えていった。
かすみは風を弱め、ゆっくり地上へ降りた。肩の傷に手を当てる。血は出ていたが、腕は動く。治癒術をかけ、聖剣についた汚れを払って鞘へ戻した。
これで四体目だった。
山岳地帯を離れてからも、かすみは町を渡り歩いた。異世界から来た少年を知らないか。幼い子どもを見なかったか。聞ける場所では必ず尋ねたが、息子へ繋がる話は見つからない。
数日後、深い森へ入った。
鳥の声が途切れたのは、森の半ばまで進んだ頃だった。
足の裏へ震動が伝わる。
かすみが立ち止まると、前方の地面が盛り上がった。木の根が土ごと持ち上げられ、巨大な岩が周囲の木々を押し倒す。その中央から、大地と繋がるような異形が姿を現した。
かすみは聖剣を抜いた。目の前の異形の正体を、かすみは知らない。第七十八世界で混沌の魔王と実際に対峙する前に、第百八世界へ召喚されている。かつて自分のいた世界を脅かした存在だと知る理由はなかった。
それでも、その力に触れた瞬間、胸の内側がかすかに疼いた。
禍々しい魔力の奥に、ひどく遠い場所で触れたことのある、清らかな気配がある。いつ、どこで知ったものなのか。誰のものだったのか。記憶を辿っても分からない。
異形が腕を振るった。
地面から岩が飛び出す。かすみは聖剣で受けたが、想像していたより重い。腕が痺れ、刃が手を離れた。
聖剣が地面を滑っていく。
拾おうと踏み出した瞬間、その間を断つように岩柱が突き上がった。
さらに二本、三本。地面が波打ち、足場そのものが形を変える。
かすみは後ろへ退かず、最初の岩へ拳を叩き込んだ。
硬い感触が骨まで響き、表面に亀裂が走った。もう一度踏み込んで砕く。崩れた岩の間を抜けたところへ、横から別の柱が迫る。身を低くしてかわし、隆起した岩へ足を掛けた。
大地が持ち上がるなら、それを足場にすればいい。隆起した岩を蹴って跳び、異形との距離を縮める。その前へ厚い岩壁がせり上がった。
一撃目の拳が岩壁の中央へめり込み、亀裂が放射状に広がった。石片が腕を擦り、皮膚が裂ける。
異形がさらに大地へ力を流す。割れかけた壁の向こうで、岩が重なった。
かすみは拳を引き、二撃目を同じ場所へ打ち込んだ。轟音とともに岩壁が崩れ、その向こうに異形の身体が現れる。禍々しい力の奥から、また一瞬だけ懐かしさが触れた。理由を考える暇はなかった。
足元が大きく隆起する。身体ごと押し返される前に地面を蹴り、崩れた岩を踏み越えた。
拳を握る。三撃目。全身の力を通した拳が異形の中心へ入り、亀裂が走った。
巨体の奥から外へ向かって広がり、大地を震わせていた力が途切れた。持ち上がっていた岩が落ち、森に重い音が続く。
異形の身体が崩れ始める。
かすみは数歩離れ、開いた拳を見た。擦れた皮膚から血が滲んでいる。
消えていく禍々しい魔力の中から、あの清らかな気配も遠ざかっていった。
誰のものだったのかは分からない。追おうとしても、もう感じ取れなかった。
かすみは落ちていた聖剣を拾い、刃を確かめてから鞘へ収めた。
五体目。
五体の厄災を倒しても、探している息子の手掛かりは見つからなかった。
森を出れば、また町で話を聞く。異世界から来た少年を知らないかと尋ねる。その繰り返しだった。
その頃、遠くの街では、七体の厄災を倒した少年の噂が広がり始めていた。
人々は、その少年を「大魔王」と呼んでいた。
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