外伝2 第3話「十七歳、自立」
かすみが十七歳になった。
108番目の世界へ召喚されてから五年。今では一人で依頼をこなし、一人で旅をすることもできる。そのことを、ルビア自身が一番よく分かっていた。
その日の夜、二人は街から少し離れた場所で野営していた。焚き火が静かに揺れている。いつもなら、その日の出来事や明日の行き先を話している時間だったが、その夜のかすみは妙に口数が少なかった。
「どうしたの?」
ルビアが尋ねる。
「……ルビア」
「ん?」
「話したいことがあるの」
ルビアはかすみの顔を見た。いつもの彼女とは少し様子が違っている。
「いいよ」
かすみは炎へ視線を戻した。しばらく何も言わず、揺れる炎を眺めていたが、やがて一度だけ息を吸った。
「今まで、話してなかったことがあるの」
「召喚される前のこと?」
異世界から召喚されたことは話してある。けれど、第七十八世界よりも前の人生については、誰にも語ったことがなかった。
かすみは頷いた。ルビアは、かすみが異世界から召喚されたことを知っている。けれど、その前にどんな人生を生きていたのかまでは知らなかった。
「私ね……かすみとして生まれる前、別の人生を生きてたの」
ルビアは何も言わず、続きを待った。
「そのときの私は、侯爵夫人だった」
焚き火が小さく爆ぜる。
「そして、息子がいたの」
その言葉を口にしたとき、かすみの表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
「大切な息子だった」
胸元へ手を置く。
「私は、その子を愛してた」
そこから先の言葉は、すぐには出てこなかった。
ルビアは急かさない。
かすみは炎を見つめたまま、遠い記憶に触れるように目を細めていた。息子と過ごした時間はもう戻ってこない。
それでも、記憶の中にいるその子だけは、今も消えていなかった。顔も、声も、一緒に過ごした時間も、失いたくない。忘れてしまえば、本当にいなくなってしまうような気がしていた。
「でも……」
服をつかむ指に、少し力が入る。
「その子は殺された」
ルビアの表情から笑みが消えた。
かすみは俯いたまま、しばらく動かなかった。
「息子を失ったあと、私も殺された」
風が吹き、焚き火の炎が揺れた。二人の影が地面の上でゆっくりと伸び縮みする。
「それで、前の人生は終わった」
声は静かだった。けれど、その静けさの中には、五年経った今も消えずに残っているものがあった。
「……もっと、そばにいてあげればよかった」
ルビアは何も言わない。
「もっと愛してあげればよかった。もっと一緒にいてあげればよかった」
かすみは一度、目を閉じた。
「守れなかった」
その言葉だけが、焚き火の向こうへ落ちた。
戻ることはできない。どれだけ願っても、失った時間を取り戻すことはできない。それでも、かすみの中には一つだけ消えなかった願いがあった。
「今度こそ、ちゃんと愛したかった」
静かに息を吐き、かすみは続ける。
「死んだあと、私は神々と出会ったの」
「神々?」
「うん。混沌の魔王を倒すために、転生してほしいって言われた」
ルビアは黙って聞いていた。
「私は、その願いを受け入れた。でも、一つだけ条件を出したの」
「……何?」
かすみは目を伏せる。
「息子も……同じ世界に転生させてほしいって」
ルビアは何も言わなかった。
「もう一度、あの子に会いたかった。前の人生では守れなかったから、今度はちゃんとそばにいたかった」
78番目の世界で過ごした日々が、かすみの中に浮かんでいた。そこで多くのことを学び、様々な技術を身につけ、神々から加護も授かった。強くなるために戦いながらも、心のどこかでは、いつか息子に会える日を待っていた。
ところが十二歳のとき、かすみはその世界から引き離され、この108番目の世界へ召喚された。
「私は、息子と同じ世界に転生させてほしいってお願いした。だから本当なら……私が召喚される前の世界のどこかにいるのかもしれない」
「でも、私自身がこの世界に召喚された」
かすみは自分の手を見る。
「だから分からなくなったの」
「何が?」
「息子がどこにいるのか」
ルビアが息を呑んだ。
「私と同じように、この世界へ来たのかもしれない。別の世界へ行ったのかもしれない。この世界のどこかにいるのかもしれない」
かすみは遠くへ目を向けた。
その可能性を考えるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。それでも、歩くことをやめるつもりはなかった。
「だから、私は旅をしてるの」
その声には迷いがなかった。
「何としても探し出したい。どこにいるのか分からなくても、絶対に諦めない」
目に涙が浮かんだ。それでも声は揺れなかった。
「もう一度、親子になりたい」
かすみは少し間を置いて、もう一度口を開いた。
「それと……父と母にも会いたい」
ルビアは黙ったまま、続きを待った。
「この世界へ来てから、ずっと。帰れるなら帰りたいって思ってる」
炎の向こうへ視線を落とす。
「息子も、父と母も、私には大切だから。どちらかを忘れることなんてできない」
ルビアはしばらく何も言わず、やがてかすみの隣へ移動した。
「そっか」
それだけだった。
かすみが顔を上げる。
「……変だと思わない?」
「思わないよ」
ルビアは即答した。
「だって、かすみにとって大切な子なんでしょ?」
「……うん」
「だったら、探せばいいじゃん。見つかるまで探せばいい」
かすみの目から、一粒の涙が落ちた。
「ありがとう……」
「お礼はいらないって」
ルビアは昔と同じように、かすみの頭へ手を置いた。
「その子に会えたら、今度こそいっぱい愛してあげなよ」
「うん」
「ちゃんと守ってあげるんだよ」
「うん」
「それが、かすみの願いなんでしょ?」
かすみは強く頷いた。
「うん」
その夜、かすみは今まで誰にも話していなかったことをルビアに話した。前世で息子を失ったこと、自分自身も殺されたこと、死後に神々と出会い、転生を求められたこと。そして、その条件として息子も同じ世界へ転生させてほしいと願ったこと。自分が108番目の世界へ召喚されたことで、その息子がどこにいるのか分からなくなったことも、すべて話した。
話し終えたあとも、かすみはしばらく焚き火を見つめていた。
長い間、胸の奥にしまっていた記憶だった。誰にも話せなかった言葉を口にしたからといって、何かが消えたわけではない。息子を失った痛みも、会いたいという願いも、そのまま残っている。
それでも、ほんの少しだけ胸が軽くなったような気がした。
翌朝、二人は旅支度をしていた。
かすみは自分の荷物を背負う。ルビアは、その姿を静かに見ていた。
「かすみ」
「なに?」
「もう、あたしがいなくても大丈夫だね」
かすみは少しだけ寂しそうに笑った。
「……うん」
ルビアも笑う。
「じゃあ、行こうか」
二人は歩き始めた。
しばらくして、ルビアが足を止める。
「かすみ」
「ん?」
「五年間、楽しかったよ」
かすみも足を止めた。
「私も」
二人は向かい合った。
十二歳だった頃のかすみは、依頼の受け方も、宿の取り方も、旅に必要なことも知らず、そのたびにルビアへ尋ねていた。
今では自分で依頼を選び、進む道を決め、危険があれば自分で考えて動ける。怪我をしたルビアを手当てすることも、もう特別なことではなかった。
五年間、ルビアが教えてきたことは、すでにかすみの中にある。
「ありがとう、ルビア」
「こちらこそ」
かすみは笑った。
「またね」
「うん。またね、かすみ」
二人は、それぞれ別の方向へ歩き始めた。
何度も振り返ることはなかった。振り返らなくても、五年間が消えることはないと分かっていたからだ。
一人になっても、不思議と不安はなかった。
十二歳の頃には、誰かに教えてもらわなければ次に何をすればいいのかさえ分からなかった。今は、自分で進む道を決められる。
そして、自分には探さなければならない人がいる。
愛する息子を、いつか必ず見つけるために。
かすみは前を向いた。
ルビアと歩いた五年間を胸に残したまま、自分自身の足で歩き始めた。




